第三幕 第十四話:退屈の極みと、帝国の歴史的負債
母艦エインヘリアルでの留守番生活が始まってから、さらに数日が経過した。
新しいルシフェルの建造に心血を注ぐフィーネのドックには相変わらず立ち入り禁止。リアンヌたち戦乙女の面々は、銀河最強の傭兵団として連日舞い込む任務のために出撃と帰還を繰り返している。
「……あかん。本当にやることがない」
ラウンジのソファで完全に液状化していたローゼリア・エーベルヴァインは、ついに退屈の限界を迎え、重い腰を上げた。
前世で培った圧倒的な処理能力と、常に思考をフル回転させてきた彼女の血が、無為な時間を過ごすことを拒絶しているのだ。
「バハムート。帝都への直通シャトルを手配せい。……姉上の顔でも見に行ってやろう」
『——了解。フェイト陛下の執務スケジュールを確認。現在、四半期末の決算および帝国軍再編の事後処理により、過労死一歩手前のステータスであると推測されます』
「……それは由々しき事態じゃな。愛する妹として、少しばかり助太刀してやるとしよう」
ローゼリアは、普段のジャージ姿から、白を基調とした凛々しい『戦乙女』の制服へとサッと着替え、エインヘリアルを後にした。
帝都アエテルガルドの中心にそびえ立つ、荘厳なる皇宮。
その最奥に位置するフェイト女帝の執務室は、覇王の威厳を示す場所であると同時に、現在進行形で「書類という名の怪物」との激しい攻城戦が繰り広げられる最前線となっていた。
「陛下! 第六艦隊の補給物資に関する決裁を!」
「内務省より、第三農業惑星の天候不順に伴う予算増額の申請が来ております!」
「ああもうっ、順番に並びなさい! 私の腕は二本しかありませんよ!」
広大な執務机の背後で、フェイトが美しい金髪を振り乱しながら、次々と回ってくる電子書類の束にサインと承認のスタンプを押し続けていた。
金髪に黒い瞳を持つ美しき覇王も、かつて戦場では無敗を誇ったが、巨大帝国の官僚機構が容赦なく叩きつけてくる「内政」という名の波状攻撃の前には、悲鳴を上げるしかなかった。
「……相変わらず、要領が悪いというか、真面目すぎるというか。上に立つ者がすべてを抱え込むからそうなるのじゃぞ、姉上」
「ローゼリア!?」
執務室の扉に寄りかかり、呆れたように肩をすくめる戦乙女の白い制服姿の妹を見た瞬間、フェイトの漆黒の瞳がパァァァッと輝いた。
「ああ、私のオアシス! 癒やしの天使! よくぞ来てくれました! さあ、文官たちは直ちに退出なさい! これより一二時間は『妹を愛でるための絶対不可侵タイム』へと移行します!」
フェイトがペンを放り投げ、文官たちを追い払おうと立ち上がる。
「待て待て、逃げるでない姉上。その山の頂上(未決裁書類)が見えなくなるまで、休憩はお預けじゃ」
ローゼリアはツカツカと歩み寄り、文官たちが抱えていたデータタブレットの束を容赦なく奪い取った。
「ローゼリア? 何をしているのですか?」
「暇を持て余しておってな。少しばかり、姉上の仕事を手伝ってやろうと思ってな」
ローゼリアは、フェイトの隣に予備の椅子を引き寄せて座り、データタブレットを起動した。
「そんな、私の仕事など手伝わせるわけにはいきません! 貴女はまだ療養明けの身……」
「いいから黙って見ておれ。……バハムート、帝国内政の基本法令と予算フォーマットをダウンロード。妾の思考とリンクさせよ」
『——了解。帝国法務および財務データベースへのアクセスを確立。……マスター、これはただの事務処理ではありません。国家規模の『資源管理』です』
「分かっておる。前世で培った国家運営の知識と情報処理能力を試すには、絶好の舞台じゃろう。腕が鳴るわい!」
ローゼリアの真紅の瞳に、鋭い知性の光が宿る。
彼女にとって、目の前の書類の山はただの面倒な仕事ではなく、いかに効率よく資源を配分し、問題を先回りして解決し、最短で国力を高めるかという「盤面の構築」へと変換されていた。
「農業惑星の予算増額? 却下じゃ。隣の第五惑星の余剰生産分を輸送に回した方が、物流コストを差し引いても二〇パーセントの黒字になる。……第六艦隊の補給? 弾薬の種類が偏りすぎじゃ。演習のデータを基に、魔力弾と実弾の比率を四対六に修正して承認!」
カタカタカタカタカタカタカタッ!!!
執務室に、凄まじいタイピング音と承認の電子音が響き渡り始めた。
「な、なんだあの処理速度は……!?」
「各惑星の状況をすべて暗記しているというのか……!?」
周囲にいた老練な文官たちが、信じられないものを見るような目でローゼリアの指先を凝視する。
「手が止まっておるぞ、文官ども! 次の決裁書類を持て! 妾の思考速度に追いついてみせい!」
「ろ、ローゼリア……? 貴女、本当に私の妹ですよね……? いつから内政の神に……?」
フェイトが、ぽかんと口を開けたまま、瞬く間に減っていく書類の山を見つめていた。
約一時間後。
フェイトと文官たちを絶望の淵に追いやっていた書類の山は、ローゼリアという名の人力スーパーコンピューターによって完全に更地へと変えられていた。
「ふぅ。こんなものか。少しは帝国の国力も上向くじゃろう」
ローゼリアは首をポキポキと鳴らし、満足げに伸びをした。
「……信じられません。ローゼリア、貴女、戦場だけでなく内政でも帝国を支えられるのですね。ああ、なんという自慢の妹……! もう私、玉座を譲ってもいいですか?」
フェイトが感極まって抱きついてくる。
「絶対に嫌じゃ。面倒な責任を押し付けるでない。妾は自由な傭兵団の主が一番性に合っておるんじゃ」
ローゼリアはフェイトの顔面を手で押し返しつつ、最後の余ったデータタブレットに目を落とした。
それは、緊急の決裁が必要な内政書類ではなく、帝国軍の片隅に置かれている『特務研究機関』から提出された、定期報告書の束であった。
「(……ん?)」
幾多の死線を潜り抜けてきた彼女の直感が、その膨大な報告書の中から、一つの地味なタイトルにピタリと反応した。
『——旧帝国封印指定宙域・第十三象限「深淵の宝物庫」における、異常マナ波長の観測について』
「姉上。この『深淵の宝物庫』というのは、なんじゃ?」
ローゼリアは、そのタブレットをフェイトへと向けた。
フェイトの表情が、姉の甘い顔から、一瞬で覇王のそれに引き締まる。
「……なぜ、その書類が貴女の目に留まったのですか。それは、帝国軍の中でも一部の将官しかアクセス権を持たない、最重要機密の一つです」
「たまたま書類の束に紛れ込んでおったんじゃよ。……で、これは一体何の研究じゃ?」
フェイトは小さくため息をつき、周囲の文官たちに目配せをして退出させた。執務室には、姉妹二人だけが残される。
「『深淵の宝物庫』。それは、かつてアエテルガルド帝国が全銀河を支配しようとしていた旧時代に建造された、禁忌の古代兵器群を封印している宙域のコードネームです」
「禁忌の古代兵器……」
「ええ。あまりにも非人道的で、無差別に周囲の空間ごと消し去るような兵器群。それを旧帝国が自らの手で封じ込め、決して開けてはならないと定めた『歴史の負の遺産』です」
その言葉を聞いた瞬間。
ローゼリアの脳裏に、あの高次元空間で管理者が口にしていた無機質な音声がフラッシュバックした。
『——特異点と最も因果律の強い「歴史的負債」を利用した、絶対的排除シークエンスを構築する』
(……歴史的負債。まさか、奴が言っていたのは、これのことか……!)
ローゼリアの顔つきが変わったことに気づき、フェイトが心配そうに身を乗り出す。
「ローゼリア? どうかしましたか?」
「いや……それで、この報告書には何と書かれておるのじゃ? その宝物庫とやらに、何か異常が起きておると?」
ローゼリアが手元のタブレットをスクロールさせ、詳細な観測データを読み込んでいく。
そこには、研究員たちの焦燥に満ちた所見が記されていた。
『——観測所からの報告。封印宙域の中心部より、我々の知る物理法則に該当しない「未知の干渉波」を受信。これは外部からの侵入ではなく、内部システムが何者か(高次元的な干渉)によって『強制的に再起動』させられている可能性を示唆している』
「……数週間前から、その封印宙域で微弱なマナの脈動が観測されているのです」
フェイトが重々しい口調で語る。
「まるで、眠っていた怪物が心臓の鼓動を再開したかのように。研究機関は、自然現象による封印の劣化だと推測していますが……」
「違うな」
ローゼリアは、タブレットをドンッと机に置いた。
「これは自然現象などではない。あの陰湿な神様(管理者)が、自分では手を出せないからと、また盤面の裏側からコソコソと石を投げ込もうとしている準備段階じゃ」
「管理者……! 先日、貴女が中枢コアを討ち取ったはずでは……!」
「システム全体を司る中枢が、一つ潰された程度で完全に沈黙するとは思えん。奴らは、妾という特異点を排除するために、今度は帝国の過去の遺物を新たな刺客として引っぱり出してきたというわけじゃな」
ローゼリアの真紅の瞳が、剣呑な光を帯びて細められる。
機体を失い、退屈を持て余していた死神の心に、次なる戦いの明確な目標が定まった瞬間であった。
「……姉上。この『深淵の宝物庫』の座標と、封印の解除コード、そして研究機関の全データを、妾の端末に転送してくれ」
「ローゼリア? まさか、貴女……」
「新しい機体が完成したら、真っ先に試運転に向かう場所が決まったというだけじゃ。……奴らが兵器の起動準備を整える前に、こちらから乗り込んで、その宝物庫ごと完全にスクラップにしてやる」
「駄目です! あの宙域には、帝国軍の正規艦隊ですら近づくことを禁じられているのですよ! ましてや、復帰明けの貴女一人に……!」
「一人で行くとは言っておらん」
ローゼリアは、白を基調とした制服の襟を正しながら不敵に笑った。
「妾には、過保護で、喧しくて、誰よりも頼りになる七つの翼がおるからのう。……今度は、誰も置いていかん。全員で盤面をひっくり返してやるのじゃ」
フェイトは、妹のその揺るぎない眼差しを見て、言葉を飲み込んだ。
かつての一人で背負い込もうとしていた危うさは消え、そこにあるのは、仲間を信じ、共に立ち向かうことを決意した「真の指揮官」の顔であった。
「……分かりました。データは後ほど、バハムートへ暗号化して転送します。ですが、絶対に無茶はしないこと。これが条件ですよ」
「うむ。恩に着るぞ、姉上」
ローゼリアは、窓の外——帝都の青空の向こうに広がる、まだ見ぬ深宇宙の闇を見上げた。
退屈な留守番生活は、どうやらそう長くは続かないらしい。
「(……待っておれよ、管理者。お前が用意した理不尽な罠、この銀河最強の死神が、仲間と共に完全に打ち砕いてやるからな)」
高次元の神との第二ラウンドの火蓋は、静かに、しかし確実に切って落とされようとしていた。




