第三幕 第六話:神の領域と、死神の装甲を剥ぐ罠
空間の亀裂——次元の壁を無理やりこじ開けたようなその裂け目へと、赤黒い魔力の炎を纏った漆黒の悪魔『ルシフェル』が飛び込んだ直後。
第七演習宙域に開いていた亀裂は、まるで何事もなかったかのように音もなく完全に塞がった。
背後から聞こえていたリアンヌたちの悲痛な叫び声も、通信回線のノイズと共に完全に途絶する。
「……バハムート、機体のステータスは」
『——全システム、正常。ただし、外部環境の物理法則が、我々の宇宙の基準値と大きく乖離しています。重力、マナ濃度、空間座標、すべてが不安定です』
全天周モニターに映し出されたのは、星の輝く宇宙空間ではなかった。
上下左右の概念が存在せず、無数の光の帯が幾何学的な模様を描きながら、まるでデータケーブルのように無限の空間を流れている。物質的な背景はなく、すべてが純粋な「情報」と「エネルギー」で構成されたような、圧倒的に無機質で不可解な世界。
それこそが、宇宙の理を裏から操る高次元の存在——『管理者』のテリトリーたる中枢領域であった。
「ふむ。これが引きこもりの神様の自室か。随分と殺風景な部屋じゃな」
ローゼリアは、漆黒を基調とし真紅のラインが走る特注のパイロットスーツに身を包み、体を深くホールドする柔らかいシートに背中を預けたまま、真紅の瞳で周囲を油断なく観察した。
古代フレームの暴走とも言える限界出力で次元の壁を突破したため、ルシフェルの各部からは白い排熱の煙が噴き出している。フィーネが丹精込めて組み上げた関節部も、悲鳴のような軋み音を上げていた。
「(……機体にかなりの無茶をさせたが、後悔はない。一方的に盤面を荒らされるだけのゲームなど、御免じゃからな)」
ローゼリアが操縦桿を握り直し、この空間の奥底に潜む「本体」を探し出そうとした、その時である。
『——理解不能。特異点、ローゼリア・エーベルヴァイン。自らシステムの中枢領域へと侵入するとは、極めて非論理的な行動である』
空間の四方八方から、いや、ローゼリアの脳内に直接、性別も感情も持たない冷徹な合成音声が響き渡った。
「非論理的じゃと? 喧嘩を売られたから、相手の家に直接殴り込みに来ただけじゃ。至極単純で論理的な行動じゃろう?」
ローゼリアは不敵に笑い、ルシフェルの巨大なクローアームをガシャンと鳴らした。
「さあ、姿を見せい! コソコソと宇宙生物や過去の遺物をけしかける陰湿な真似はやめて、妾と直接勝負するのじゃ!」
ローゼリアの挑発に対し、管理者の声はしばらくの沈黙を返した。
だが、それは恐れや戸惑いではない。高次元の演算能力を用いて、眼前に現れたイレギュラーに対する『最適解』を導き出すための、純粋な処理時間であった。
光の帯が流れる高次元の空間で、管理者は思考する。
特異点、ローゼリア・エーベルヴァイン。
彼女の魂は異世界からの転生者であり、この宇宙のシステムルールに縛られない存在である。そのため、管理者は彼女に直接的な死をもたらす干渉を行うことができない。
彼女の異常なまでの空間把握能力、先読み、そして戦局を支配する直感。それらはすべて、彼女が前世で培った「プレイヤースキル」という名の規格外の精神構造に由来している。
だが、管理者はこれまでの彼女の行動データをすべて記録し、分析していた。
学園の地下防空壕での潜入任務。
保養惑星アルカディアでの卓球の試合。
『……データ照合、完了。対象の精神的脅威度は「極大」である反面、その肉体的脅威度は「極小」である』
管理者の無機質な声が、空間に響く。
『対象の生身の肉体は、帝国の平均的な同年代の少女と比較しても著しく劣弱である。数階層の階段を登るだけで疲労困憊に陥り、飛んでくる小さな球体(ピンポン玉)を打ち返すことすら不可能な、極度の運動音痴』
「なっ……!?」
突然、自分の痛いところ——生身でのポンコツっぷりを淡々と読み上げられ、ローゼリアの顔が羞恥と怒りで真っ赤に染まった。
「お、お主! 乙女のプライベートな恥部を勝手に覗き見しておったのか! この変態ストーカー神が!」
『——結論を導出。特異点の圧倒的戦闘力は、搭乗するマギアナイト「ルシフェル」という強靭な『ハードウェア』があって初めて成立する。神AIと古代フレームの融合体が、対象の劣弱な肉体の代わりとして機能しているに過ぎない』
管理者の分析は、残酷なまでに的確であった。
いくらローゼリアの頭脳と反射神経が神がかっていようと、それを体現するための「手足」となる機体がなければ、彼女はただの運動不足の少女に過ぎないのだ。
『これより、当領域の防衛プロトコルを変更。目標を「特異点の殺害」から、搭乗機「ルシフェル」の【完全破壊および強制排除】へと再設定する』
「妾の機体を壊すじゃと? やれるものならやってみせい!」
ローゼリアの叫びと同時。
周囲の幾何学的な光の空間が歪み、先ほどの演習宙域に現れた多面体とは全く異なる、新たな防衛プログラム群が無数に生成された。
それは、実体を持つ金属の兵器ではない。
純粋なエネルギーで構成された、光の鎖、魔力を吸い上げるスライム状の不定形力場、そして空間そのものを圧縮する透明な檻であった。
「バハムート、自律可動砲台を展開! 迎撃じゃ!」
『——了解。全砲門、展開します』
ルシフェルの背部から漆黒の砲台群が射出され、真紅のレーザーが光の防衛プログラム群へと降り注ぐ。
だが、レーザーが命中しても、不定形の敵はすぐに元の形へと復元し、まるでダメージを受けている様子がない。
「チッ、物理的な装甲を持たないエネルギー体か! ならば、古代フレームの出力で直接吹き飛ばす!」
ルシフェルがスラスターを全開にし、両肩のクローアームに赤黒い魔力を纏わせて突進する。
しかし、管理者の領域での戦いは、ローゼリアの予想を遥かに超える理不尽さに満ちていた。
『防衛プログラム、拘束シーケンスを実行』
空間全体から、無数の「光の鎖」が蛇のように這い出し、突進するルシフェルの四肢へと絡みついてきた。
「こんなもの!」
ローゼリアは機体を強引に旋回させ、鎖を断ち切ろうとする。
しかし、その鎖は機体の装甲を物理的に破壊するのではなく、触れた箇所から古代フレームの魔力を『吸収』し始めたのである。
『——警告。機体マナ濃度、急速に低下中。敵性プログラムが、ルシフェルの動力源に直接干渉しています』
バハムートの音声に、わずかな焦りが混じる。
「くそっ、殺意がない分、余計に厄介じゃな!」
敵の攻撃は、コックピットにいるローゼリアの命を奪うことには全く興味を示していなかった。
彼らの狙いはただ一つ。ルシフェルの関節部、武装のジョイント、スラスターのノズルなど、「機体を無力化するための部位」のみを執拗に狙ってくるのだ。
スライム状の不定形力場が、ルシフェルの背部に張り付き、自律可動砲台のコンテナを強制的にロックする。
「動け! 砲台、射出せい!」
ローゼリアが操縦桿のトリガーを引くが、システムは沈黙したままだ。
『——背部兵装のリンク、切断されました。自律可動砲台、使用不可』
「ええい、鬱陶しい! 離れろ!」
ルシフェルがクローアームで背中の力場を引き剥がそうとした瞬間。
今度は空間の歪みから生じた「透明な檻」が、ルシフェルの右腕のクローアームを空間ごと圧縮し、物理的に切断した。
ガキィィィンッ!!
「ぐっ……!」
機体が破損した強烈な衝撃が、柔らかいシート越しにもローゼリアの全身を揺さぶる。
『対象の武装解除率、40パーセント。引き続き、機体の完全破壊を続行』
管理者の無機質な声が、空間に木霊する。
「……舐めるな。腕の一本や二本持っていかれたくらいで、妾の心が折れると思うたか!」
ローゼリアは、残された左腕のクローアームと、脚部のスラスターを駆使して、光の鎖の包囲網を驚異的な機動で躱していく。全天周モニターの視界がアラートの赤色で埋め尽くされる中、彼女の直感だけを頼りに、敵の包囲の薄い場所へと機体を滑り込ませる。
だが、ここは管理者のシステム中枢。
無限に湧き出す防衛プログラムに対し、ルシフェルの魔力は確実に削り取られていた。
『——警告。左部スラスター、機能停止。メインカメラ、損傷。機体の姿勢制御に重大なエラーが発生しています』
「バハムート、補助システムでカバーせい! まだ戦える!」
『マスター。これ以上の戦闘継続は不可能です。機体の維持限界を突破し、装甲の崩壊がコックピットブロックにまで到達します。……このままでは、あなたの生命に危険が及びます』
「構わんと言っておるじゃろう! ここで機体を降りれば、それこそ管理者の思う壺じゃ!」
ローゼリアは必死に操縦桿を動かす。
しかし、管理者の放った巨大な光の網が、ついにルシフェルの全身を完全に包み込んだ。
『チェックメイトである。特異点よ、お前の強さの根源であるその殻を、今ここで剥ぎ取ろう』
ギギギギギィィィッ……!!
ルシフェルの漆黒の装甲が、光の網によって強制的に圧縮され、メキメキと音を立ててひしゃげていく。
フィーネが命を削って組み上げた強靭な古代フレームが、高次元の圧力の前に為す術もなくひび割れ、崩壊を始めていた。
『——強制緊急脱出シークエンスを起動します』
「待て、バハムート! 許可しておらんぞ!」
『マスターの生命保護を最優先。……同時に、自己のコアプログラムを、マスターのパイロットスーツに接続された携帯端末へと退避・転送します』
「なんじゃと?」
『ルシフェルは失われますが、私は共にあります。……ローゼリア、生き延びてください』
バハムートの最期の音声と共に。
ルシフェルの胸部装甲が弾け飛び、コックピットブロックが光の網の中から強引に射出された。
「やめ——っ!!」
ローゼリアの悲鳴は、虚空へと吸い込まれる。
射出されたコックピットブロックもまた、空中で管理者のプログラムによって解体され、ローゼリアの体はついに、何の保護もない生身の状態で、高次元の空間へと放り出されてしまった。
「きゃあっ!」
光の帯が床のように固まった空間に、パイロットスーツ姿のローゼリアが放り出される。
極度の運動音痴である彼女は、空中で上手く受け身を取ることもできず、肩から無様に床へと転がり込んだ。
「い、痛ぁっ……。バカバカ、バハムートのバカ……。強制射出なんて聞いておらんぞ……」
ローゼリアが涙目で肩を押さえながら顔を上げると、全天周モニター越しではない、生の視界に絶望的な光景が飛び込んできた。
彼女の愛機であった漆黒の悪魔『ルシフェル』。
それが今、無数の光の鎖に縛り上げられ、空中で無惨にもバラバラに解体され、光の粒子となって空間の奥底へと沈んでいくところであった。
「ルシフェル……っ!」
ローゼリアは思わず手を伸ばすが、届くはずもない。
彼女の手足となって戦ってくれた、銀河最強の剣と盾が、今完全に失われたのだ。
『……対象の機体、完全排除を確認』
空間の四方八方から、管理者の冷徹な声が降り注ぐ。
『特異点よ。お前の牙は折れた。その貧弱な肉体では、この空間を歩くことすらままなるまい。お前はもはや、システムの脅威ではない。ただの無力な少女として、この中枢領域の片隅で永遠に立ち尽くすがいい』
管理者の言葉には、勝利宣言とも取れる嘲笑が含まれていた。
マギアナイトという絶対の力を奪えば、この少女は何もできない。卓球の球すら打ち返せない脆弱な肉体。
それこそが、管理者の導き出した「特異点の無力化」という完全な勝利条件であった。
光の幾何学模様が流れる無機質な空間で、小柄な少女がただ一人、取り残される。
息を切らし、足は震え、巨大な武装は何一つ持っていない。
誰の目から見ても、それは完全なる「詰み(ゲームオーバー)」の盤面であった。
だが。
ローゼリアの腕に装着された携帯端末から、静かな電子音が鳴り響いた。
『——システム転送、完了。ローゼリア、聞こえますか』
「……ああ。お主の図太さには恐れ入るわ、バハムート」
ローゼリアは、痛む肩を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
膝についた光の塵をパンパンと払い、乱れた銀色の髪をかき上げる。その腕の端末には、確かに神AIの鼓動が息づいていた。
「……機体を壊されたくらいで、妾が敗北を受け入れると思うたか?」
その真紅の瞳には、絶望の影など微塵もなかった。
むしろ、最悪の窮地に立たされたことで、限界ゲーマーとしての闘争心に完全に火が点いていた。
「妾のリアルステータスが貧弱なのは認めてやる。……じゃが、お前はゲームの基本を忘れておるぞ、管理者よ」
ローゼリアは、パイロットスーツの腰に手を当て、虚空を見上げて不敵に笑い放った。
「プレイヤーの真の武器は、機体ではない。どんな理不尽なクソゲーであろうと、バグを見つけ出し、仕様の穴を突いて完全攻略してやる……この頭脳とプレイヤースキル(ソフト)、そして相棒(AI)こそが、妾の最強の武器なんじゃ!」
生身の死神。
巨大な機体を失い、絶対絶命の神の領域に落とされたものの、彼女の頭脳とシステムをハッキングする神AIは健在である。
ローゼリア・エーベルヴァインの、知略と執念のみを武器とした本当の『反逆』が、今まさに始まろうとしていた。




