第二幕 第三十九話:戦塵の賛美と、双頭の悪魔の終焉
宇宙空間は、完全なる静寂に包まれていた。
音を伝える媒質のない真空の海において、戦闘の轟音や装甲の砕ける音が響かないのは物理の法則として当然のことである。
だが、今のこの宙域を支配している「静寂」は、そういう科学的な現象とは次元が違った。
恐怖。絶対的な畏怖。
生きとし生けるものが、己を遥かに凌駕する上位存在(捕食者)を前にして、本能的に呼吸を止め、心臓の鼓動すらも押し殺そうとする、根源的な恐怖の静寂であった。
『まさか……! 嘘よ、あの機体はとっくに廃棄されたはず……! なぜ、伝説の『戦塵』が、こんなところに……っ!』
ユグドラシル最高幹部の一人、メイザースの悲鳴のような声が、オープン回線を通じて暗礁宙域に空しく響き渡る。
彼女の乗る紫の魔術師型マギアナイトは、先ほどまでの優雅で蠱惑的な動きを完全に忘れ、宇宙空間でカタカタと痙攣するように震えていた。
無理もない。彼女のすぐ目の前で、もう一人の幹部であり、比類なき防御力とパワーを誇っていたはずのローランドの重騎士機体が、たった一振りの一撃で、綺麗に上下真っ二つに両断されていたのだから。
漆黒と黄金に彩られた、禍々しき神話の巨神。
ブリュンヒルデの駆る特装機『ワルキューレ』は、双刃の戦斧をだらりと下げたまま、まるで重力に縛られない幽鬼のように、虚空に静止していた。
「……ほう」
通信回線越しに、ブリュンヒルデの低く、底冷えのするような声が響いた。
「このワルキューレを知っているとはな。……帝国軍の上層部ですら、数十年前に歴史の闇へと葬り去り、その記録の大半を黒塗りにして消し去った呪われた機体だ。それを一目見て正体を看破するとは。……素直に褒めてやろう、メイザースとやら」
ブリュンヒルデの言葉には、皮肉や煽りの色は一切なかった。
純粋な、戦士としての「事実の肯定」であった。
「お前たちは、教団の末端の狂信者から這い上がり、血みどろの内部抗争と粛清を勝ち抜いて、その幹部の座まで上り詰めたと聞く。……情報収集能力、機体の操縦技術、そして互いの隙を完璧に補い合うあの連携。どれをとっても、一朝一夕で身につくものではない。お前たちがこれまで積み上げてきた努力と執念、そして数え切れないほどの屍の上に築かれたその実力は、本物だ」
それは、かつて『大銀河戦争』という地獄を生き抜き、数え切れないほどの命をその手で奪ってきた歴戦のトップエースだからこそ言える、重みのある賛辞であった。
メイザースもローランドも、決して慢心だけであの地位にいたわけではない。彼らは彼らなりに、絶望的な修羅場をくぐり抜け、魂を削って己を鍛え上げてきたのだ。
だからこそ、あのアステリア演習場で、古代の神AIを搭載したローゼリアのタナトスを大破させることができたのである。
「……だが」
ブリュンヒルデの称賛の言葉が、ふっと途切れた。
同時に、ワルキューレの双眸が黄金の光を猛烈に放ち、周囲の空間が「ギシッ」と悲鳴を上げるような錯覚を覚えた。
「お前たちのその見事な実力と執念が、我が愛すべき家族の血を流させ、その心臓を一度でも止めたというのであれば。……私は、お前たちのこれまでの人生と努力の一切合切を、完璧に、徹底的に、一片の価値もないゴミとして否定し、蹂躙し尽くさねばならない」
声のトーンは変わらない。怒鳴り声でもない。
だが、その言葉に込められた殺意の密度は、超新星爆発のコアよりも重く、熱かった。
胃薬を手放せない苦労人の団長という仮面が完全に剥がれ落ち、そこにはただ、仲間を傷つけられたことへの無限の怒りを抱く『破壊の権化』が顕現していた。
『ふ、ふざけ……ふざけやがってェェェェッ!!!』
その時、真っ二つに切断され、下半身を失ったローランドの重騎士機体の上半身が、狂ったような咆哮を上げた。
『俺はユグドラシルの幹部だ! 教団のトップに立ち、この銀河を支配する男だぞ! こんな、こんな化石みたいなロートル機体に、やられてたまるかァァァッ!!』
ローランドは、死の恐怖を狂気で塗り潰し、残された上半身のメインリアクターを暴走させた。
それは、機体の魔力炉心を強制的に臨界状態に引き上げ、自らを巨大な質量爆弾と化して敵を巻き込む、完全なる自爆攻撃であった。
「ローランド!? バカな、やめなさい! その至近距離で自爆すれば、私まで……っ!」
メイザースが悲鳴を上げるが、すでに狂乱状態のローランドの耳には届かない。
『死神の仇討ちのつもりか知らねぇがな、俺を殺せばどうなるか教えてやる! 一緒に地獄へ堕ちろォォォッ!!』
凄まじい閃光と共に、重騎士機体の上半身が、太陽の如き超高温のプラズマを放ちながらワルキューレへと突進していく。
その威力は、小惑星の一つや二つ、容易に蒸発させるほどの破壊力を持っていた。
しかし。
ブリュンヒルデのワルキューレは、回避行動すら取らなかった。
ただ、右手に持った双刃の戦斧を、無造作に、本当にただの棒切れを振るうように、スッと真横に薙ぎ払っただけだ。
「……塵に還れ」
**——ズガァァァァァァァァァァンッ!!!!**
宇宙空間に、信じられない現象が起きた。
ローランドの自爆攻撃による超高温のプラズマ爆発が。
ワルキューレへと到達する直前、戦斧の軌跡に沿って発生した『重力断層』によって、まるで透明な壁に押し潰されるようにして、完全に圧縮、相殺されてしまったのだ。
『な……ば、かな……俺の、全霊の、一撃が……』
ローランドの絶望の呟き。
次の瞬間、ワルキューレの背部にあるバインダーから、指向性の重力波が放射された。
メキィィィッ!! グシャァァァァッ!!
「あ、がァァァァァァァァッ!!?」
ローランドの機体(上半身)が、目に見えない巨大な万力で全方位から押し潰されていく。
強固な暗緑色の装甲が紙屑のようにクシャクシャにひしゃげ、内部のフレームが折れ曲がり、コックピットのブロックが断末魔の悲鳴と共に圧壊していく。
そこには、慈悲も、戦士としての情けも、一切存在しなかった。ただ、害虫を靴の裏で踏み潰すような、絶対的な蹂躙。
『ア、ァ……、たす……け……』
バシュゥゥゥンッ……!!
最後の断末魔すらも重力場に飲み込まれ、ローランドの乗っていた機体は、一滴の血も、一つの破片すらも宇宙空間に残すことなく、文字通り極小の高密度な『塵』の塊となって消滅した。
ユグドラシルが誇った双頭の悪魔の一角は、その自負と執念ごと、完全に無に還されたのである。
『……っ!! あ……あああ……っ!!』
それを見ていたメイザースの紫の機体は、ついに完全に戦意を喪失した。
連携を前提とした彼女の戦術は、相棒であるローランドの存在があって初めて成立する。その最大の盾であり鉾であった相棒が、抵抗すら許されずに消し飛んだのだ。
(勝てない……! こんな怪物、人間の手におえる領域じゃない! 逃げなければ……!)
『通信兵! ワープゲートを開きなさい! フルチャージよ、今すぐに!!』
メイザースは、恐怖で引きつった声で後方の母艦(秘密基地)へと絶叫した。
だが、通信回線から返ってきたのは、身の毛のよだつような冷たい少女の声であった。
『……残念だけど、あなたの船のシステム権限は、すでに私が完全に掌握しているわ』
「なっ……!? この声、アルティナ!?」
『ええ、久しぶりねメイザース。……あなたがワープゲートを開こうとするプロトコル、古すぎるのよ。私が幹部だった頃のバックドアをまだ塞いでいないなんて、危機管理能力が低すぎるわ。……まあ、もう塞ぐ機会は永遠に訪れないけれど』
通信越しに聞こえるアルティナの声は、冷酷な死刑宣告そのものだった。
「ひぃっ……! ふ、ふざけないで! 私はユグドラシルの幹部よ! あの方に選ばれた特別な……っ!」
メイザースは半狂乱になりながら、残された全魔力を振り絞り、自身の周囲に数十もの光の翼(自律可動砲台)を展開した。
『近寄るなァァァッ!!』
紫のレーザーが、全方位に向けて狂ったように乱射される。
それは狙いを定めたものではない、恐怖に駆られた獣のデタラメな弾幕。だが、腐っても幹部の放つ全方位攻撃、かすっただけでも致命傷になりかねない威力だ。
「……愛する者を傷つけられた怒りも、復讐の狂気も。……私に言わせれば、ただのノイズだ」
ブリュンヒルデのワルキューレは、その弾幕の雨の中を、全くスピードを落とすことなく直進した。
タナトスのように回避するのではない。
ワルキューレの周囲に展開された重力場が、飛来するレーザーの光筋をすべて強引に「ねじ曲げ」、機体を迂回させていくのだ。
「な……当たらない!? 空間そのものを歪めているというの!?」
「お前たちはローゼリアを『ソロプレイヤー』と侮った。……確かにあいつは、単機での無双に慣れすぎて、連携というものを少し甘く見ていた節はある。だがな」
ワルキューレが、瞬きをする間にメイザースの目の前へと肉薄した。
黄金の双眸が、恐怖で固まる紫の機体のコックピットを冷酷に見下ろす。
「私たち『戦乙女』は、ソロプレイヤーの集まりではない。……あいつが一人で戦っていたのは、私たちが背後で見守っているという『絶対の安心感』があったからだ。あいつは、私たちの愛娘だぞ」
ワルキューレの左手が、メイザースの機体の顔面(頭部カメラ)を鷲掴みにした。
メキィッ! という金属の砕ける音が響き、視界を完全に奪われるメイザース。
『や、やめて……! 降伏するわ! 教団の機密データもすべて渡す! だから命だけは……っ!!』
「……ローゼリアの心臓が止まった時。リアンヌは自分の命を削って魔力を流し込み、アルティナは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらハッキングし、フィーネは壁に頭を打ち付けて泣いた」
ブリュンヒルデの声が、一段と低く、地獄の底から這い出るような怒りを帯びた。
「あの優しい日常を、あの温かい子供たちの笑顔を。……お前たちは、永遠に奪い去ろうとした。その罪の重さを、薄っぺらい命乞い程度で贖えると思うな」
『あ、あああ……っ!! いやだ、死にたくな——』
**ドゴォォォォォォォォンッ!!**
ワルキューレの右手に握られた双刃の戦斧が、下から上へと、凄まじい速度で振り上げられた。
メイザースの紫の機体は、その一撃で胴体から真っ二つに裂け……る前に、戦斧の軌道に発生した超重力場によって、細胞の一つに至るまで粉々にすり潰された。
断末魔の悲鳴すら残らない。
ただ、紫色の装甲の残骸が、宇宙空間に細かい塵となって撒き散らされただけであった。
教団の幹部として冷酷に計画を進め、数多の命を奪ってきた双頭の悪魔。
その最期は、伝説の『戦塵』の圧倒的な力の前に、一矢報いることすら許されない、ただのゴミの清掃作業のようなあっけない終焉であった。
メイザースとローランドの機体反応が完全に消失したことを、遠く離れたエインヘリアルのブリッジで確認したアルティナは、ふっと長く息を吐き出した。
その目元には微かに涙が滲んでいたが、すぐにそれを乱暴に拭い去り、オペレーターとしての職務に戻る。
「……目標アルファ、ならびにブラボーの完全消滅を確認。生体反応ゼロ。……団長、やりましたね」
通信機越しに、ブリュンヒルデの静かな声が返ってくる。
『ああ。だが、まだ終わっていない。……基地に潜む残党どもを一匹残らず掃討しろ。リアンヌ、ランドグリーズ、ロスヴァイセ。状況はどうなっている』
その問いに答えるように、暗礁宙域のあちこちから、通信が次々と入ってきた。
『こちらロスヴァイセ。防衛ラインの右翼、ならびに逃走を図った敵艦三隻の動力部、すべて破壊完了しました。……逃げられるとでも思ったのでしょうか。滑稽ですわね』
冷徹な声と共に、遠方の宙域で次々と爆発の光が上がる。アルティナとオルトリンデの完璧な電子ロックと索敵網により、ユグドラシルの部隊は完全に袋の鼠となっていた。
『こっちも片付いたぜ! どいつもこいつも、重装甲をまとってノロノロと動くただの的だ! お姫様のタナトスに傷をつけた報い、戦斧のサビにしてやったわ!』
ランドグリーズの豪快な笑い声の背後では、敵の量産機が真っ二つに割れて爆散していく音が絶え間なく響いている。
そして。
『……こちらリアンヌ。敵部隊の中央突破、ならびに基地中枢部への単独制圧、完了しました。……生体反応は、すべて排除です』
血の気が引くほどに淡々とした、純白の騎士の報告。
リアンヌの『ブラン』は、その美しい純白の装甲を敵の返り血(オイルと冷却液)でドロドロに染め上げながら、ユグドラシルの秘密基地の中枢に静かに佇んでいた。
彼女が通過したルートには、原型を留めないほどに無惨に破壊された敵機の残骸が、文字通り山のように積み重なっていた。感情を排した彼女の殺戮は、ブリュンヒルデのワルキューレに勝るとも劣らない、完璧な死の嵐であった。
『了解した。全機、残敵の掃討を確認後、速やかに母艦へ帰還せよ。……これよりエインヘリアルは、本来の航路へと戻る』
ブリュンヒルデは、ワルキューレの双刃の戦斧についた汚れを虚空で振り払うと、機体のスラスターを反転させた。
圧倒的な蹂躙。
それは「戦闘」と呼ぶにはあまりにも一方的な、戦乙女たちによる凄惨な「処刑」であった。
彼女たちの逆鱗に触れるということは、こういうことなのだ。銀河最強の死神は、決して一人で最強だったわけではない。彼女の背後には、彼女を何よりも愛し、彼女のためならば世界を敵に回すことすら躊躇わない、狂気にも似た愛情を持った「本物の怪物たち」が控えているのである。
「(……ローゼリア。待っていろ。今、帰るからな)」
ワルキューレのコックピットの中で、ブリュンヒルデは小さく息を吐いた。
緊張の糸が途切れたのか、いつもの胃の痛みがじんわりと蘇ってくるのを感じる。
戦場に舞う『戦塵』としての冷酷な顔はすでに消え去り、そこにあるのは、ただ妹の無事を祈る、一人の心配性な姉(団長)の顔であった。
「……ふぅ。この機体のオーバーホール、フィーネにまた怒られそうだな。……まあいい、請求書は帝国に回してやる」
誰にともなく呟いたその声には、微かな安堵が混じっていた。
かくして、暗礁宙域の秘密基地は、文字通り宇宙の塵と化して消滅した。
ユグドラシルが企てていたであろう陰謀も、死神を仕留めたという幹部たちの慢心も、すべては戦乙女の圧倒的な武力の前に木端微塵に粉砕された。
母艦エインヘリアルは、復讐の炎を静かに収め、再び星の海へと次元跳躍の光を放った。
その船の奥深く、清潔な集中治療室の中では。
激しい死闘の結末を知る由もなく、ローゼリアが静かな寝息を立てながら、ゆっくりと、しかし確実に、生への回復を続けていたのであった。




