第二幕 第三十八話:三途の川のコンティニュー画面と、船から落ちた死神
意識の深い、深い底。
圧倒的な暴力によって肉体を破壊され、極限の苦痛に苛まれていたはずのローゼリアは、気がつくと不思議なほど静寂に包まれた空間に立っていた。
痛くない。苦しくもない。
先ほどまで折れた肋骨が肺を突き破りそうだった痛みも、血を吐き出し続けた喉の熱さも、すべてが嘘のように消え去っていた。
「(……ここは、どこじゃ? ゲームのロード画面か?)」
ローゼリアは、ゆっくりと周囲を見渡した。
視界を覆うのは、乳白色の濃い霧。
そして足元には、どこまでも続く灰色の砂利道と、視界の果てまで燃えるように赤く咲き乱れる彼岸花の群生があった。
静寂の中で、チャプ、チャプという微かな水の音が聞こえてくる。
霧の向こうから、緩やかなカーブを描いて流れる、巨大で淀んだ『川』が姿を現した。
「(……ああ。なるほど。そういうことか)」
前世が日本人であったローゼリアの魂は、このコテコテのファンタジー世界(エーベルヴァイン帝国)には似つかわしくない、あまりにも『和風』なその光景を見て、自分の置かれた状況を正確に理解した。
死後の世界。あの世とこの世を隔てる境界線。
——すなわち、『三途の川』である。
「(妾、死んだんじゃな。……まあ、あんな重騎士のパイルバンカーを食らえば、いくらバハムートAIでも庇いきれんわな。残機ゼロ、正真正銘のゲームオーバーというわけじゃ)」
ローゼリアは、自嘲気味に息を吐き出した。
灰色の砂利を踏みしめながら、川岸へと歩を進める。
彼女が身に纏っているのは、血まみれのパイロットスーツでも、豪奢な皇女のドレスでもなく、真っ白な貫頭衣(死装束)のような簡素な服だった。
(ゲームばかりの人生じゃったが、まあ、転生してからはそれなりに楽しかったのう。美味いポテトチップスも食えたし、リアンヌたちと騒がしく過ごせたし……)
ふと、アルティナと一緒にやりかけだった新作ゲームのことが頭をよぎった。
(……しまった。あいつ、妾がいない間に一人でレベル上げして、先へ進んでしまうのではないか? それだけは気に食わん。化けて出てセーブデータを消してやりたい)
そんな未練がましいことを考えながら川岸にたどり着くと、そこには古びた木造の『渡し船』が一艘、静かに揺れていた。
船頭は、すげ笠を深く被り、顔の部分が真っ黒な影に覆われた人型の何かであった。
『……此岸より来たりし迷える魂よ』
船頭の影が、底冷えのするような低い声で語りかけてきた。
『この川を渡れば、二度と現世に戻ることは叶わぬ。……渡る覚悟は、あるか?』
「覚悟も何も、肉体がスクラップになっておるんじゃ。戻りたくても戻れんじゃろ」
ローゼリアは肩をすくめた。
『ならば、渡し賃を出せ。六文銭を持っておるか』
「……は? ろくもんせん?」
ローゼリアはきょとんとした。
「いや、妾はエーベルヴァイン帝国の皇女じゃぞ? 帝国クレジットならいくらでも持っておるが……電子マネーは使えんのか?」
『六文銭だ。現金のみ、クレカ・電子決済不可』
「冥界のシステム、古すぎじゃろ!」
ローゼリアは思わずツッコミを入れたが、ふと自分の死装束のポケットに、硬いものがいくつか入っているのに気づいた。
取り出してみると、それは六枚の古びた銅貨だった。
(……律儀なことじゃ。システム側で自動的にインベントリに追加される仕様か)
ローゼリアは、その六枚の銅貨を船頭の影へと放り投げた。
影はそれを器用に受け取ると、ゆっくりと船の舳先へと手招きした。
『……よかろう。乗るがいい』
「やれやれ。次の転生先は、ガチャ運が良くて、絶対に働かなくていいポジション(完全な不労所得のニート)を希望するぞ。運営にクレームを入れさせろ」
ローゼリアはぶつぶつと文句を言いながら、渡し船へと足を向けた。
ここを渡れば、本当にすべてが終わる。
リアンヌの鬱陶しいほどの過保護も。
アルティナの生意気な口答えも。
ブリュンヒルデの豪快な笑い声も。
フェイトの不器用な愛情も。
すべてが、遠い過去のセーブデータとして消去される。
(……少しだけ、寂しいのう)
ローゼリアは、心の中にチクリと刺さる未練を振り切るように、顔を上げて船の縁へと足を掛けた。
木製の縁に右足を乗せ、体重を移動させようとした——その時である。
**「ローゼリア!! ローゼリアぁぁぁっ!! 行かないでください!! 私を置いて、一人で逝かないでください!!」**
**「お願い……! お願いだから、死なないで……っ! 私のたった一人の、最高の友達なんだから……っ!!」**
背後から、鼓膜を破るような、強烈な悲鳴が聞こえた。
「……っ!?」
ローゼリアは、反射的に振り返ろうとした。
だが、右足はすでに船の縁に乗っており、左足は砂利を蹴り上げようとしていた中途半端な姿勢。
前世からの「壊滅的な運動音痴」であるローゼリアの肉体(魂)は、その急激な動作の変更(キャンセル処理)に対応できなかった。
「あ、」
ズルッ。
船の縁に乗せた右足が、無情にも滑った。
バランスを崩したローゼリアの身体が、空中で奇妙なダンスを踊るようにぐらつき——。
「(嘘じゃろ!? 妾、何もないところでつまずい——)」
**ドッボォォォォォォンッ!!**
渡し船に乗るどころか。
銀河最強の死神は、三途の川の冷たく淀んだ水面へと、頭から見事に、そして盛大にダイブ(落下)してしまったのである。
「ぶくぶくぶくっ!? ちょっ、冷たっ! 溺れるっ! 妾、泳げんのじゃっ!!」
死後の川であるにもかかわらず、その水は氷のように冷たく、そして強烈な引力でローゼリアの身体を川底へと引きずり込もうとした。
船頭の影が「あっ」という風に身を乗り出すが、すでにローゼリアの姿は水面下へと没していた。
「(息が……っ! 冷たい……っ! あいつら、妾が船に乗ろうとした瞬間に大声で呼ぶから……っ!)」
肺に水が入り込むような、凄まじい苦痛と冷気。
そして同時に——。
**ドンッ!!**
強烈な電流がローゼリアの身体を貫く感覚。
リアンヌの魔力が細胞を無理やり叩き起こし、アルティナのハッキングによるパルス信号が心臓を強制的に収縮させる。
(……あっ。これ、川の水じゃない。……生きてる「痛み」じゃ)
川底へと沈んでいくはずだったローゼリアの魂は、強烈な電気ショックと仲間たちの引力によって、水面から空の彼方へと、強制的に引っ張り上げられていった。
ピッ……。ピッ……。ピッ……。
「……ん、ぁ……」
どこまでも深い闇の中から、微かな電子音が聞こえてきた。
全身を巨大なプレス機で押し潰されたような、言語を絶する鈍痛。
呼吸をするたびに、胸の奥でガラスの破片がこすれ合うような激痛が走る。
まぶたは鉛のように重く、指先一つ動かすことすら途方もない労力を必要とした。
「(……痛い。最悪じゃ。やっぱり、まだ生きておったか)」
ローゼリアは、心の中で悪態をつきながら、必死の思いでまぶたを数ミリだけ押し上げた。
ぼやけた視界。
真っ白な天井と、眩しい照明。
そして、その光を遮るようにして、三つの顔が覗き込んでいた。
「ローゼリア……? ローゼリア!!」
「お姫様……っ! ああ、神様……っ!」
「……バカヤロウ。どんだけ心配かけたと思ってんだ……」
リアンヌ、アルティナ、ブリュンヒルデ。
三人の顔は、涙と鼻水と、そしてローゼリア自身の血でぐしゃぐしゃに汚れていた。
普段の彼女たちからは想像もつかないほど、顔をくしゃくしゃにして、ボロボロと大粒の涙を流している。
「あ……」
ローゼリアは、酸素マスクに覆われた口を微かに動かした。
声帯が傷ついているのか、ヒューという空気の漏れるような音しか出ない。
だが、どうしても、言っておきたいことがあった。
「……ろ、ローゼリア! 無理に喋らなくていい! 今、軍医を……!」
ブリュンヒルデが制止しようとするが、ローゼリアは微かに首を横に振り、アルティナの袖を、点滴の管だらけの弱々しい指で、ちょんと引っ張った。
「……なに? お姫様。言いたいことがあるの?」
アルティナが、耳をローゼリアの口元へと近づける。
ローゼリアは、荒い息を吐きながら、掠れきった、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……お主ら、が……」
「私たちが?」
「……お主らが……急に、大声で呼ぶから……っ。妾……船に乗ろうとして、足が滑って……川に、落ちたじゃろうが……」
「……え?」
「……三途の、川じゃ。……服が、濡れて……最悪じゃった。……どうしてくれる……」
極限の死地から生還して、第一声がそれである。
あまりにもローゼリアらしい、緊迫感のかけらもない愚痴。
自分の壊滅的な運動音痴を棚に上げて、仲間たちの呼び声のせいで三途の川に落ちた(蘇生した)と文句を言っているのだ。
その言葉の意味を理解した瞬間。
アルティナは、ポカンと口を開け——次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。
「ふっ……あははははっ! なにそれ! せっかく死にかけたのに、運動音痴発揮して船から落ちたの!? バカじゃないの、あんた!!」
アルティナは、涙をボロボロと流しながら、それでも心底可笑しそうに、安堵の笑い声を上げた。
「ローゼリア! ああ、ローゼリア! 川に落ちたのであれば、私がすぐにお着替えをお持ちいたします! 髪も乾かします! だから、だから……!」
リアンヌは、もう言葉にならず、ローゼリアの無事な方の右手を取り、自分の額に押し当てて、わあわあと子供のように泣き崩れた。
「……ははっ。本当にお前ってやつは、最後の最後まで……」
ブリュンヒルデも、目元を乱暴に拭いながら、震える声で笑った。
(……うるさいのう。本当に、お主らの顔は、見苦しいほどにぐしゃぐしゃじゃ)
ローゼリアは、文句を言いながらも、マスクの下で微かに口角を上げた。
痛い。苦しい。
あの三途の川を渡ってしまえば、この痛みから解放されて、すべてが楽になったはずだ。
だが、あのまま船に乗らなくて良かったと、心の底から思っている自分がいる。
(……アルティナの奴。妾がいない間に、ゲームのセーブデータを進められちゃあ、困るからな……)
ローゼリアの意識が、急速にぼやけ始めた。
先ほどの心肺停止状態とは違う。生物が、自身の破壊された肉体を修復するために強制作動させる、深く、安らかな回復のための眠り。
「……お姫様?」
アルティナが、ローゼリアの目が再び閉じようとしているのに気づき、ハッとする。
「……寝る。……妾は、疲れたんじゃ。……ゲームの続きは、また……明日……」
「ローゼリア殿下! バイタルは安定しています! 自己修復機能に移行しました!」
軍医の報告が響く。
ローゼリアの右手が、ふっと力を抜き、リアンヌの手に包まれたままベッドへと落ちた。
だが、その寝顔は、先ほどの死に顔のような青白さではなく、微かな温もりを帯び、本当にただ「疲れ果てて眠っている少女」のそれであった。
「……ええ。おやすみなさい、ローゼリア」
リアンヌが、そっとその手にキスを落とす。
「ゆっくり寝なさい、バカお姫様。……セーブデータは、そのままにして待っててあげるから」
アルティナが、ローゼリアの銀糸のような髪を優しく撫でた。
最悪の事態は免れた。
銀河最強の死神は、仲間たちの執念(と本人のドジ)によって、見事にコンティニューを果たしたのだ。
集中治療室のガラス越しに、ローゼリアの安定した寝顔を確認したブリュンヒルデは、小さく息を吐き、静かに部屋の外へと出た。
廊下で待機していたランドグリーズ、ロスヴァイセ、オルトリンデ、そしてフィーネが、すがるような視線を向けてくる。
「……峠は越えた。命に別状はない。しばらくは絶対安静だが、あいつは必ず戻ってくる」
ブリュンヒルデのその一言に、廊下にいた全員が、その場に崩れ落ちるようにして泣き崩れた。
フィーネはプラズマカッターを放り投げて床に突っ伏し、ランドグリーズは壁に寄りかかって天を仰いだ。
ブリュンヒルデは、そんな彼女たちを静かに見下ろした後、懐から携帯端末を取り出した。
画面には、先ほどの宙域で採取した、ユグドラシルの幹部機がワープで逃走した際の残留魔力波長と、空間の歪みのデータが記録されている。
「……さて」
ブリュンヒルデの声は、地獄の底から響くように低く、冷酷だった。
胃薬を常備する苦労人の団長の顔はそこにはない。あるのは、かつて戦場を血に染めた戦乙女を率いる、冷徹な指揮官としての顔。
「あいつの命が繋がったことで、我々は『最悪の後悔』をせずに済んだ。……だが、それはそれだ」
ブリュンヒルデが端末の画面を握りつぶすほどの力で握りしめる。
「我々の大切な家族を、あんな姿にしたゴミ共を、このまま生かして逃がす道理はない。……そうだろう、お前たち」
「……当然です」
涙を拭い、立ち上がったランドグリーズが、巨大な戦斧を肩に担ぎ直した。その瞳には、すでに戦士としての凄まじい殺気が宿っている。
「双頭の悪魔だか何だか知りませんが。……ヴァルキュリアの怒りに触れた代償、魂の底まで刻み込んで差し上げますわ」
ロスヴァイセが、冷たく光る眼鏡を押し上げる。
「後方支援および、敵の逃走ルートの完全封鎖は私にお任せください。……一匹残らず、消し炭にします」
オルトリンデの瞳もまた、ハイライトを失い、深い怒りに沈んでいた。
「タナトスは、アタシが徹夜で直してやる。……あのバカAIにも、次こそは完璧に仕事させるように叩き直してやるからな。……だから団長、あいつらを、絶対にぶっ殺してきてくれ」
フィーネが、充血した目でブリュンヒルデを見上げる。
「ああ。任せておけ」
ブリュンヒルデは、艦内通信のスイッチを入れた。
「総員に告ぐ。ローゼリアは我々の元に帰還した。……これより、エインヘリアルはユグドラシルの残党部隊を追撃、殲滅する『復讐』のフェーズへと移行する」
その宣言は、母艦全域に冷たく、そして熱狂的に響き渡った。
「敵のワープ痕跡はアルティナがすでに解析中だ。……我々の家族に手を出した愚か者どもに、戦乙女の真の恐ろしさを教えてやれ」
傷つき、深い眠りについた死神。
彼女の平穏な夢を守るため、そして彼女に極限の苦痛を与えた者たちに報いを受けさせるため。
復讐の炎に燃える戦乙女たちの艦隊は、暗黒の宇宙へと、静かに、しかし絶対の殺意を乗せて進路を反転させたのである。




