第二幕 第三十七話:崩れ落ちた不敗神話と、響き渡る命の絶叫
『エマージェンシー! エマージェンシー! ブラン、グリムゲルデ、ジークルーネ、ならびにタナトス、緊急着艦します! 格納庫の全職員は退避、並びに衝撃吸収フィールドを最大出力で展開しろ!!』
傭兵団『戦乙女』の母艦エインヘリアル。
その巨大な格納庫内に、ブリュンヒルデ団長の悲痛なまでの怒声が響き渡っていた。
普段、どれほど過酷な戦場であっても胃薬を片手に冷静な指揮を執る彼女の声が、明らかな焦燥と恐怖で裏返っている。その異常な事態に、格納庫の整備兵たちは血相を変えて迎撃準備と着艦態勢を整えていた。
「おい、冗談だろ……? 救難信号(SOS)のビーコンが、あの『タナトス』から出てるってのか……?」
整備班長であるフィーネは、油まみれのタオルを握りしめたまま、信じられないものを見るような目でメインモニターを凝視していた。
彼女がエインヘリアルの整備を任されるようになってから数年。あの漆黒の悪魔『タナトス』が、自力で帰還できないほどの損傷を負ったことなど、ただの一度もなかったのだ。どんな大規模な艦隊戦でも、どんな理不尽な要塞攻略でも、ローゼリアの乗るタナトスは常に「無傷」、あるいはせいぜい装甲の塗装が剥げる程度の損耗しか許さなかった。
ましてや、先日は古代文明の遺産である『バハムートAI』まで組み込み、その性能は神の領域にまで達していたはずである。
「班長! 第四ハッチ開きます! 来ます!!」
部下の叫び声と共に、分厚い隔壁がスライドし、暗黒の宇宙空間からエインヘリアルへと滑り込んでくる機体群の姿が露わになった。
「なっ……!?」
フィーネは、息を呑んだ。
最初に着艦したのは、リアンヌの乗る純白の機体『ブラン』。そして、そのブランが両腕で抱きかかえるようにして運んできたもの——。
それを見て、格納庫にいた全員が、文字通り言葉を失った。
「嘘、だろ……。あれが、あのタナトスなのか……?」
フィーネの口から、呆然とした呟きが漏れる。
それは、凄惨という言葉すら生ぬるい、完全なる『大破』状態であった。
左腕は肩の根元から装甲ごと無惨に引きちぎられ、断面からは火花と冷却液が血のように噴き出している。腹部の重装甲は隕石でも直撃したかのように深く陥没し、内部の魔力回路が断線して紫色のスパークを散らしていた。誇り高き漆黒の翼は根元からへし折れ、機体の全身を覆っていた絶対防壁の発生器も粉々に砕け散っている。
バハムートAIが格納されているサブモジュールからは黒煙が上がり、メインカメラの真紅の光は、まるで死にゆく者の瞳のように、弱々しく点滅を繰り返していた。
誰がどう見ても、修復不可能一歩手前の致命的な損傷。
銀河最強と謳われた死神の、不敗神話が完全に崩れ去った瞬間であった。
ズズズズズンッ……!!
ブランが、抱え込んでいたタナトスを格納庫のデッキにそっと、しかし力なく横たえる。
その後ろから、護衛を務めていたランドグリーズの『グリムゲルデ』とオルトリンデの『ジークルーネ』も着艦するが、彼女たちもまた、言葉を発することなくタナトスの周囲に膝をついた。
「……何ボサッとしてるんだ! 医療班を呼べ!! 早くコックピットのハッチを開けろ!!」
フィーネは、自身の驚愕を無理やりねじ伏せ、怒鳴り声を上げてデッキへと飛び出した。
機体が大破しているということは、その内部にいるパイロット——ローゼリアの肉体に、どれほどのダメージがフィードバックされているかなど、想像するだけで吐き気がした。
「班長! コックピットのロックが焼き切れていて、外部からの強制オープンが効きません!」
「バハムートAIのプロテクトが暴走しているのか!? どけっ! アタシがバーナーで焼き切る!」
フィーネは大型のプラズマカッターを引っ掴み、タナトスの陥没した胸部装甲に飛び乗った。
熱と火花を散らしながら、ひしゃげたハッチの接合部を力任せに切断していく。
「頼む……! 頼むから、無事でいてくれよ、お姫様……っ! あんたが死んだら、誰が夜中にアタシのカップ麺を横取りしに来るんだよ……!」
泣きそうになるのを必死に堪えながら、フィーネはついにハッチのロックを破壊した。
プシューッ、と。
内部の気密が解かれ、重いハッチが上にスライドしていく。
「ローゼリア!!」
ブランのコックピットから飛び降りてきたリアンヌが、誰よりも早くハッチの隙間へと滑り込んだ。
しかし、その直後。
リアンヌの動きが、完全に凍りついた。
フィーネもまた、開いたコックピットの中を覗き込み——絶句した。
「あ……あ、あ……」
狭いコックピットの内部は、まるで屠殺場のように、一面が鮮血で赤く染まっていた。
モニターにも、コンソールパネルにも、そしてローゼリアが身に纏っていたはずの服にも、おびただしい量の血がべっとりとこびりついている。
シートベルトに身体を食い込ませるようにして項垂れているローゼリアの姿は、あまりにも小さく、そして『壊れて』いた。
陥没した装甲の衝撃がダイレクトに伝わったのか、彼女の胸の骨(肋骨)は不自然な方向に曲がっている。口の端からは黒赤色の血の泡が絶え間なく溢れ出し、透き通るようだった白い肌は、死蝋のように青ざめ、生気を完全に失っていた。
「ローゼリア……?」
リアンヌの震える手が、ローゼリアの頬に触れる。
氷のように冷たい。
微かな、本当に微かな呼吸だけが、かろうじて彼女が「生きている」ことを示していたが、それはいつ途切れてもおかしくない、風前の灯火であった。
「……どけ! リアンヌ、アンタが抱えろ! 医療班、ストレッチャーを持ってこい!! 早くしろォォォッ!!」
フィーネの絶叫が、静まり返った格納庫に木霊した。
「ローゼリア……! しっかりしてください! 今、今助けますから……っ!」
リアンヌは、全身を自らの主の血で真っ赤に染めながら、ローゼリアの華奢な身体をシートからそっと抱き上げた。
折れた骨が内臓に刺さらないよう、極力揺らさないように、しかし全速力でストレッチャーへと彼女を乗せる。
「心拍低下! 血圧が急激に落ちています! 重度の内臓出血と、気胸の疑い!」
駆けつけた医療班のスタッフが、すぐさま携帯型のバイタルモニターをローゼリアの胸に取り付けながら叫ぶ。
ピッ……、ピッ……、と、モニターが弱々しい電子音を刻む。
「急げ! 第一医療区画の集中治療室(ICU)を開けろ!!」
「道を開けなさい!!」
ストレッチャーを押して医療区画へと激走する医療班とリアンヌ。
そこへ、ブリッジから飛び出してきたブリュンヒルデ団長と、アルティナが合流した。
「ローゼリア!!」
アルティナは、ストレッチャーの上に横たわる血塗れのローゼリアを見た瞬間、その場で膝から崩れ落ちそうになった。
「嘘……嘘でしょ、ローゼリア……! なんで、どうして……っ!」
「アルティナ、今は泣いている暇はない! 医療区画のシステムのロックをすべて外せ! ありったけの回復ポーションと、帝国の最新医療ナノマシンを全投入しろ!」
ブリュンヒルデが、アルティナの肩を乱暴に揺さぶり、怒鳴りつけた。
彼女自身の顔も、かつてないほど蒼白であり、額からは冷や汗が滝のように流れ落ちている。団長としての冷静さを保とうと必死に努めているが、その声の震えが、彼女の極限の恐怖を物語っていた。
「わ、わかってる……っ! システム・リミッター解除! 医療用ナノマシンの投与プロトコルを立ち上げ——」
アルティナが手元のタブレットを狂ったような速度でタイピングし、母艦の医療システムをフル稼働させる。
一行は、エインヘリアルの白く清潔な廊下を、血の跡を残しながら集中治療室へと駆け込んだ。
「ベッドに移すぞ! ワン、ツー、スリー!」
巨大な医療用カプセルの中心にあるベッドに、ローゼリアの身体が移される。
様々なチューブが彼女の腕や胸に繋がれ、帝国の最新鋭の医療デバイスが、全身のスキャンと生命維持を開始した。
「肋骨の複数箇所が複雑骨折! 折れた骨が肺に刺さっています! 呼吸不全! さらに、腹部への強烈な衝撃による肝臓および脾臓の破裂……っ! 大量出血によるショック状態です!」
軍医の残酷な診断結果が、治療室に響き渡る。
マギアナイトの装甲越しとはいえ、ユグドラシル最高幹部・ローランドの戦槌による一撃は、ローゼリアの脆弱な肉体を完膚なきまでに破壊していたのだ。
「そんな……! ローゼリア! ローゼリアぁぁっ!!」
リアンヌが、ベッドの傍らにすがりつき、主の血で染まった手を握りしめて号泣する。
「泣くなリアンヌ! お前は近衛騎士だろうが! 自分の魔力を彼女の体内に流し込んで、細胞の崩壊を少しでも遅らせろ!!」
ブリュンヒルデが、軍医と共に止血の処置を行いながら叫ぶ。
「は、はい……っ! 我が魔力よ、どうか、我が主に生きる力を……っ!」
リアンヌが両手をローゼリアの胸元にかざし、自身の純白の魔力を限界まで注ぎ込み始める。温かい光がローゼリアの身体を包み込むが、彼女の顔色は一向に良くならない。
ピッ……、ピッ……、ピッ……。
バイタルモニターの電子音が、次第に間隔を広げていく。
酸素マスクの内側で、ローゼリアの呼吸が、ヒューッ、ヒューッと、かすれきった音へと変わっていく。
「(……ああ。……うるさい、のう)」
意識の深い闇の底で、ローゼリアは微かにみんなの声を聞いていた。
リアンヌの泣き声。アルティナのキーボードを叩く音。ブリュンヒルデの怒声。
それらが、水底から聞く音のように、遠く、ぼやけて聞こえる。
「(……すまん。……みんな。……妾、やっぱり、ダメみたいじゃ……)」
肺が燃えるように痛い。息が吸えない。
全身の血が抜けていくような、耐え難いほどの寒さ。
限界ゲーマーとしての意地も、古代の神AIの力も、ここでは何の役にも立たない。ただ、一人の無力な少女としての肉体が、死という絶対的なルール(ゲームオーバー)に向かって、急速にシャットダウンを始めている。
「(……また、あの暗い宇宙の、脱出艇の中に……逆戻り、か……)」
ローゼリアの意識が、完全に闇へと溶け込もうとした、その瞬間だった。
**——ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ。**
集中治療室に、最も恐ろしく、そして絶望的な電子音が鳴り響いた。
心拍ゼロ。
モニターに映し出されていた波形が、完全な一直線へと変わった。
「…………えっ?」
アルティナのタイピングする手が、空中で止まった。
リアンヌの魔力を注ぐ手が、ガタガタと震え出した。
「心肺停止!! ローゼリア殿下の心臓が、止まりました!!」
軍医の悲鳴が、室内の空気を完全に凍りつかせた。
「嘘よ……嘘よ嘘よ嘘よ!! ローゼリア!! 起きなさいよ!! まだ私と一緒に、新作のゲームをクリアしてないじゃない!!」
普段は誰よりも冷静で、皮肉屋の天才ハッカーであるアルティナが。
端末を放り投げ、ローゼリアのベッドにすがりついて、子供のように声を張り上げて絶叫した。
「どけ!! 強制蘇生デバイス(AED)を使用する!! 出力を最大にしろ!!」
ブリュンヒルデが、軍医を突き飛ばす勢いで前に出て、二つの電極パッドをローゼリアの血塗れの胸に押し当てた。
「充電完了! クリア!!」
**ドンッ!!**
強烈な電流がローゼリアの身体を跳ね上げさせる。
しかし、モニターの波形はフラットなままだ。
「動け……! 動けよぉぉっ! お前は、銀河最強の死神なんだろうが! こんなところで、あっさり死んでいいタマじゃないだろうが!!」
ブリュンヒルデの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
彼女は二度目のショックを与え、それでも心拍が戻らないと見るや、直接ローゼリアの胸の上に手を組み、なりふり構わず心臓マッサージを開始した。
「イチ! ニ! サン! シッ! ……戻ってこい、お姫様! お願いだから、戻ってきてくれ!!」
骨の折れる音など気にしていられない。今はとにかく、脳に血を送らなければ完全に死んでしまう。ブリュンヒルデの必死の圧迫に合わせ、リアンヌが狂乱したように魔力を叩き込む。
「ローゼリア!! ローゼリアぁぁぁっ!! 行かないでください!! 私を置いて、一人で逝かないでください!! あなたのいない世界など、私には何の意味もないんです!!」
リアンヌは、喉が裂けるほどの声で泣き叫び、自身の生命力すらも削り取って魔力に変換し、ローゼリアの停止した心臓へと流し込み続けた。
「私、システムを書き換える……! 医療ポッドの生命維持リミッターを解除して、強制的に心筋を動かすプログラムを……っ!!」
アルティナは涙でぐしゃぐしゃになった顔で再び端末に向かい、帝国の安全基準を完全に無視した、劇薬とも言える強制蘇生プロトコルをハッキングで強引に起動させる。
「お願い……! お願いだから、死なないで……っ! 私のたった一人の、最高の友達なんだから……っ!!」
集中治療室は、もはや医療の現場ではなく、死神から仲間の命を奪い返そうとする戦乙女たちの「執念の戦場」と化していた。
外の廊下では、知らせを聞いて駆けつけたランドグリーズ、ロスヴァイセ、オルトリンデの三姉妹が、ガラス越しに中の凄惨な光景を見つめながら、祈るように手を組み、涙を流している。
フィーネもまた、血塗れのプラズマカッターを握りしめたまま、壁に頭を打ち付けて咽び泣いていた。
エインヘリアルにいる全員が、ただ一人の少女の生還を、魂の底から願っていた。
彼女は、傭兵団の最強の戦力であるという以上に。
いつもだらしなくスナック菓子をかじり、ゲームに熱中し、皆に呆れられながらも、エインヘリアルの日常に「温かい光」をもたらしてくれた、かけがえのない『家族』だったのだから。
「もう一度ショックを与える! 出力120%!! クリア!!」
**ドンッ!!**
三度目の強烈な電気ショック。
リアンヌの膨大な魔力と、アルティナのハッキングによる強制的な心筋へのパルス信号が、同時にローゼリアの肉体を貫いた。
その、瞬間。
「(……ああ。やっぱり、お主らは、本当に騒がしいのう)」
深い闇の底に沈みかけていたローゼリアの魂が、三人の狂気じみたまでの叫び声と、暴力的なまでの『生への執着(引力)』に引っ張られ、水面へと強引に引きずり上げられた。
「(……ゲームオーバーは、コンティニューで回避じゃ)」
ピッ。
沈黙していたバイタルモニターに、小さな、しかし確かな「波形」が一つ、刻まれた。
「……っ!!」
全員の動きが止まった。
ブリュンヒルデの心臓マッサージの手が止まり、アルティナのタイピングが止まり、リアンヌの魔力の放出が止まった。
ピッ……。ピッ……。ピッ……。
ゆっくりと、しかし確実に。
モニターの緑色の線が、再び命の鼓動を刻み始めた。
ローゼリアの停止していた心臓が、仲間の執念によって、再び血を全身へと送り出し始めたのだ。
「し、心拍再開!! 自発呼吸も、微弱ですが戻りました!!」
軍医の歓喜の叫びが響き渡る。
「あ、ああ……っ!」
ブリュンヒルデは、血塗れの手を震わせながら、その場にへたり込んだ。
「ローゼリア……! ローゼリアぁぁっ!!」
リアンヌは、ベッドの縁に顔を伏せ、今度は安堵の涙を滝のように流して号泣した。
「……バカ。本当に、バカローゼリア……っ。寿命が縮んだじゃないのよ……っ」
アルティナは、端末に突っ伏し、声を殺して泣きじゃくった。
心拍は戻った。
だが、油断できる状況では決してない。ローゼリアは依然として昏睡状態であり、全身の骨折と内臓破裂という重篤なダメージは回復していない。帝国の最新医療と回復魔法を駆使しても、彼女が意識を取り戻すまでには、どれほどの時間がかかるか分からない。
それでも。
彼女たちは、暗黒の深淵から、銀河最強の死神の命を、確かに繋ぎ止めたのだ。
「……全艦に告ぐ」
ブリュンヒルデは、震える膝に力を込めて立ち上がり、艦内放送のマイクを握った。
その声には、先ほどまでの絶望を乗り越えた、静かで、しかし底知れぬ怒りと決意が込められていた。
「ローゼリアの命は、繋ぎ止めた。……だが、我々の大切な家族をここまで傷つけたテロリストどもを、決して許すわけにはいかない」
ブリュンヒルデの双眸が、狩りに出る肉食獣のように鋭く光る。
「目的地を変更する。エインヘリアルはこれより、ユグドラシルの残党部隊を完全に殲滅するための『復讐戦』へと移行する。……戦乙女の怒りを、あの双頭の悪魔どもに思い知らせてやれ!!」
『応ッ!!!』
母艦全体から、地鳴りのような怒号が響き渡る。
傷ついた死神が静かな眠りにつく中、かつてないほどの怒りに燃える戦乙女たちの、血塗られた復讐劇の幕が、今まさに開かれようとしていた。




