第二幕 第三十二話:戦乙女の大浴場と、勃発する背中流し権争奪戦
フェイト女帝の「妹を甘やかす」という絶対的な勅命のもと、帝国の最高技術と莫大な予算が注ぎ込まれた傭兵団『戦乙女』の母艦エインヘリアル。
その改修の恩恵を最も受けていたのは、間違いなく艦内の『居住エリア』であった。
「はぁ〜……。極楽、極楽じゃ……」
エインヘリアル艦内に新設された、高級旅館も真っ青の総大理石造りの大浴場。
天井には広大な星空を映し出す最新式のホログラムプロジェクターが稼働し、湯船には疲労回復と魔力充填に絶大な効果をもたらす帝国の高級入浴剤(一箱で小型宇宙船が買える値段)が惜しげもなく溶かされている。
その広大な湯船の隅っこで、ローゼリアは頭に小さなタオルを乗せ、口までお湯に浸かりながら「ぷくぷく……」と泡を吹いていた。
前世が孤独な独身男性であった彼女にとって、美少女だらけの女湯というのは、本来であれば鼻血を出して昇天しかねない夢のような(あるいは正気を保つための過酷な)空間である。
転生して数百年が経過し、自分の女性としての肉体にもすっかり慣れたとはいえ、気を抜くと前世の「男のサガ」が顔を出しそうになるため、ローゼリアは入浴中、常に心の中で素数を数えて煩悩を打ち払う『無の境地』に至る術を身につけていた。
(……2、3、5、7、11……。うむ、今日の湯加減も最高じゃ。戦闘の汗も、先ほどのゲームの白熱した手汗も、すべてが浄化されていくようじゃ……)
「——ローゼリア殿下ぁぁぁっ!! わ、わ、わたくしのような未熟者が、殿下と同じお湯に浸かるなど、本当に、本当によろしいのでしょうかぁぁっ!?」
そんなローゼリアの静かな涅槃を打ち破るように、湯気の中から甲高い悲鳴が響き渡った。
「うるさいぞ、エリーゼ。風呂場では声が響くんじゃ」
「ひぃっ! も、申し訳ありませんっ! しかし、しかしですね……っ!」
湯船の縁にへばりつくようにして、顔を茹でダコのように真っ赤にしているのは、先ほど合流したばかりの強火ファン令嬢、エリーゼ・マーベリックであった。
彼女は、自分の豊かな金髪の縦ロールを湯につけないよう必死にまとめ上げながら、チラチラと、熱を帯びた視線でローゼリアの滑らかな白い肌を盗み見ている。
「(ああっ、尊い……! 死神たる殿下の、一糸まとわぬお姿……! 軍神の如き強さを誇るお方なのに、お肌はマシュマロのように白くて柔らかそうで……! ああ、目に焼き付けなければ! これこそが我が人生のハイライトっ!)」
エリーゼの脳内では、ローゼリアの入浴シーンという超絶プレミアムな光景を前に、煩悩と興奮がビッグバンを起こしていた。あまりの興奮で、彼女の鼻の穴からは微かに荒い息が漏れている。
「……気持ち悪いわね、あの縦ロール。完全にオッサンの目つきになってるわよ」
湯船の反対側から、呆れたような声が聞こえた。
天才ハッカーにして戦術オペレーターのアルティナである。彼女は、持ち込みが許可された完全防水仕様のタブレット端末を湯船の縁に置き、片手でゲームの攻略サイトを流し見しながら、冷ややかな視線をエリーゼに向けていた。
「なっ……! わ、わたくしはただ、殿下の神々しいお姿に感動していただけですわ! あなたこそ、お風呂にまでそんな端末を持ち込んで、風情というものがないんですの!?」
「効率重視よ。それに、お姫様だって、防水のゲーム機があれば絶対に持ち込んでるわ」
「うむ。ブリュンヒルデ団長に『風呂で感電死する気か!』と怒られて没収されておらんかったら、今頃デイリーミッションを消化していたところじゃ」
「殿下!? そんな堕落した……いえ、どんな場所でも鍛錬を怠らないその姿勢、さすがでございます!」
エリーゼのファンフィルターは、もはやチタン合金よりも強固であった。ローゼリアが何をしても「尊い」「素晴らしい」に自動変換される仕様である。
「さあ、ローゼリア! お湯でしっかり温まり、毛穴が開いたところで、このリアンヌが心を込めてお背中をお流しいたしましょう!」
そこへ、洗い場から元気な声を上げて乱入してきたのは、純白の……ならぬ、何も身に着けていない(当然だが)護衛騎士・リアンヌであった。
彼女の片手には、帝国の最高級ボディソープと、肌触りの良い特注の海綿スポンジが握られている。
「お、おう。リアンヌか。……お主、相変わらず凄いプロポーションじゃな」
ローゼリアは、リアンヌの豊満で引き締まった肉体美からそっと目を逸らし(素数を数え直し)ながら頷いた。
「ふふっ、ありがとうございます! 毎日、ローゼリアをお姫様抱っこできるように鍛え上げておりますからね! ささ、こちらへ!」
「うむ、頼む」
ローゼリアが湯船から上がり、洗い場の小さな椅子にちょこんと座ろうとした、その瞬間だった。
「ま、待ちなさいっ!!」
ザバーッ! と激しい水飛沫を上げて、エリーゼが湯船から飛び出した。
彼女はバスタオルで自身の身体を隠すのも忘れ、リアンヌの前へと立ちはだかった。
「騎士リアンヌ! あなた、毎日殿下のお側にいるというのに、お背中まで流そうというのですか! それはあまりにも強欲! 職権乱用ですわ!」
「はあ? 何を言っているのですか、マーベリック令嬢。私は『帝国公式のローゼリア専属護衛騎士』ですよ? 主の身体を清めるのは、騎士として当然の義務かつ至上の喜びです!」
リアンヌがスポンジを構えて堂々と胸を張る。
しかし、強火ファンであるエリーゼも一歩も引かない。
「わたくしは、学園で首席を取るほどの手先の器用さと繊細さを持ち合わせております! 殿下の絹のようなお肌を洗うには、わたくしのようなきめ細やかなタッチこそが相応しいはず! さあ、そのスポンジをこちらへ渡しなさい!」
「お断りします! ローゼリアの背中のどこに凝りがあるか、一番熟知しているのは私です!」
「わたくしだって、殿下の戦闘データを擦り切れるほど見ております! どの筋肉に疲労が溜まっているかくらい、計算で導き出せますわ!」
「……」
ローゼリアは、真っ裸でスポンジを奪い合う二人の熱狂的なファンを前に、深い、深いため息をついた。
「あのな、お主ら。妾は自分で洗え——」
「殿下は黙っていてください!」
「ローゼリアは座っていてください!」
「……はい」
ファン同士の謎の熱量に圧倒され、大人しく椅子に座るローゼリア。
その様子を見ていたアルティナが、湯船の中からシャワーヘッドを手に取り、温度を「冷水」に設定した。
「あんたたち、うるさいわよ」
**ビシャァァァァッ!!**
「ひゃああっ!?」
「冷たっ! 何をするのです、アルティナ!」
見事なエイムで放たれた冷水シャワーが、リアンヌとエリーゼの頭に直撃する。
二人が冷たさに身をよじらせている隙に、ローゼリアはさっとボディソープのボトルを手に取り、自分で適当に背中を洗い始めた。
「ああっ! 殿下がご自身で背中を……っ! わたくしの、わたくしの夢が……っ!」
エリーゼがその場に崩れ落ちて咽び泣く。
「……まったく、騒がしい連中だねぇ」
そこへ、大浴場の入り口の引き戸がガラガラと開き、豪快な声と共に長女ランドグリーズが入ってきた。
彼女は身の丈ほどもある巨大なバスタオルを肩に掛け、堂々たる足取りで洗い場へと進んでくる。その長身と、歴戦の戦士であることを物語る見事な筋肉、そして圧倒的な「質量」を誇るプロポーションは、思わず同性でも見惚れてしまうほどの迫力があった。
「おっ、お姫様に新入りの令嬢じゃないか。随分と賑やかにやってるね!」
「ら、ランドグリーズ様……!」
エリーゼが、慌てて背筋を伸ばす。
戦乙女の切り込み隊長であり、その武勇で名を轟かせるランドグリーズは、士官学生であるエリーゼにとって雲の上の存在の一人である。ローゼリアに対する狂信的な愛とは別に、純粋な戦士としての畏怖を抱いていた。
「はははっ、そんなに固くなるなよ! お前、マーベリックの娘だったな。学園の首席って聞いたぜ。機体は派手だったが、足腰の使い方は悪くなかった」
「あ、ありがとうございます……っ!」
ランドグリーズは、ザバザバと豪快にシャワーを浴びると、そのままドボンッとお湯の張られた巨大な湯船へと飛び込んだ。ザバーン! と盛大な波が立ち、隅っこでタブレットを見ていたアルティナが「ちょっと、お湯が跳ねたじゃない!」と抗議する。
「細かいことは気にするな! ほら、お前らも早く洗ってこっちへ来い! 広い風呂は皆で入った方が美味いってもんだ!」
背中を洗い終えたローゼリアとリアンヌ、そして少し萎縮しながらエリーゼも、ランドグリーズの待つ大きな湯船へと浸かった。
「……はぁ。極楽じゃ」
ローゼリアは再び「ぷくぷく……」と泡を吹きながら、涅槃の境地へと戻っていく。
「それにしても、マーベリックの嬢ちゃん。随分と細っこい身体をしてるな。そんなんで、実戦でG(重力加速度)に耐えられるのか?」
ランドグリーズが、エリーゼの華奢な肩や細い腕を見て、心配そうに尋ねた。
「ふ、ふんっ! わたくしの機体は、最新鋭の慣性制御システムを積んでおりますの! だから、ランドグリーズ様のように筋肉ダルマにならなくても、華麗に立ち回れますわ!」
エリーゼは強がって見せるが、その視線はチラチラとランドグリーズの圧倒的なバストへと向けられている。
(な、なんてこと……。あれが、斧を振り回すために必要な筋肉と脂肪のバランス……。わたくしの発育が遅れているわけではありませんわ、絶対……っ!)
「はははっ! 慣性制御に頼りすぎると、システムがダウンした時に一巻の終わりだぞ! 飯を食え、飯を! うちの食堂のステーキは最高だからな、後で山盛り食わせてやる!」
「結構ですわ! わたくしはカロリー計算された専用の食事しか……」
「エリーゼは少食じゃからのう。もっとジャンクフードを食わんと、立派な大人になれんぞ」
ローゼリアが、湯船の中から顔だけを出して適当なアドバイスを送る。
「で、殿下!? 殿下はあのような脂っこいジャンクフードを好んでお召し上がりに……!?」
「うむ。特に夜中の三時に食べるポテトチップスは、背徳感も相まって最高に美味いんじゃ」
その言葉に、エリーゼの顔が引きつった。
高貴で、気高く、露のしずくのように清らかな皇女殿下が……夜中の三時に、ポテトチップス!?
いや、そんなはずはない。きっと、殿下なりの高度な冗談なのだ。エリーゼは必死にファンフィルターをフル稼働させて現実逃避を図る。
しかし、そこに非情なるハッカー(アルティナ)の追撃が投下された。
「そうね。昨日も深夜四時まで一緒にFPSのランクマッチ回してた時、お姫様ったら、私の部屋に買い置きしてたコーラとピザポテトを勝手に全部たいらげたのよ。おかげで私、朝から胃もたれしたわ」
「……え?」
エリーゼの動きがピタリと止まった。
「し、深夜四時まで、ゲーム……? ピザポテト……? コ、コーラ……?」
「あ、すまんアルティナ。あれは流石にやりすぎた。後で帝国の購買部で新しいのをご馳走するから許してくれ」
「当然よ。ついでに新作のDLCも買ってもらうからね」
「うむ、安いものじゃ」
ローゼリアとアルティナが、まるで「週末の男子高校生」のようなテンションで会話を交わす。
その横で、エリーゼの脳内処理能力が完全に限界を突破していた。
「あ……あ、あの……! ちょっと待ってくださいませ!」
エリーゼが、ガバッと勢いよく立ち上がった。お湯がざばりとこぼれる。
「あ、アルティナと仰いましたわね!? あなた……! 殿下と深夜までゲームをしているということは……! ま、まさか、殿下と同じお部屋で、寝起きを共にしているというのですか!?」
「ん? いや、部屋は別だけど、お姫様が私の部屋の最新型ゲーミングPCを気に入って、毎晩のように入り浸ってるのよ。最近じゃ、そのまま私のベッドで寝落ちすることも多いわね。いびきはかかないけど、寝相が悪くて布団を奪われるから困ってるの」
アルティナが、なんでもないことのように爆弾を投下した。
「ね、ねねね、寝落ち!? ベッドを、共に……っ!?」
**プシューーーッ!!!**
エリーゼの頭頂部から、目に見えるほどの勢いで湯気が噴出した。
顔面はもはやトマトを超えて熟れきったザクロのように真っ赤になり、その瞳には限界突破した嫉妬の炎が燃え盛っている。
「ど、どどど、どこの馬の骨とも分からない新入りの分際でぇぇぇっ! 殿下の尊い寝顔を独占しているですってぇぇぇっ!? 許せません! 万死! 万死に値しますわぁぁぁっ!!」
エリーゼは扇子代わりに持っていた湯桶を振り上げ、アルティナに向かって絶叫した。
「ちょっと、何よ急に。私が誘ってるんじゃなくて、お姫様が勝手に来るだけよ」
「キーーーッ! それがさらに腹立たしいんですの! わたくしなんて、殿下のファンクラブ会員番号〇〇〇一番(自称)で、グッズまで自作しているというのに……! なぜあなたがそんな特等席に……っ!」
「あ、ズルい! 私だって! 私だってローゼリアと同じ部屋で毎日寝起きしています! なんなら朝の着替えも手伝っています!!」
リアンヌまで参戦し、謎の「誰が一番ローゼリアの近くにいるかマウント合戦」が湯船の中で勃発する。
「わたくしだって! わたくしだって、明日の演習で殿下にいいところを見せて、絶対に頭を撫でて……っ、いや、お部屋に招待していただきますわ!!」
「させません! ローゼリアの部屋の合鍵を持っているのは私だけです!」
「私は電子ロックのパスワード知ってるわよ」
「キーーーッ!!」
「……はははっ! 若い奴らは元気があっていいな! 青春だねぇ!」
ランドグリーズは、三人の熱すぎる言い争いを肴に、どこから持ち込んだのか防水パックに入った冷たい果実水をあおりながら、ガハハと豪快に笑っている。
「……」
当の本人であるローゼリアは、争いの中心であるにもかかわらず、完全に気配を消していた。
彼女は静かに、そっと、お湯の中へと潜っていく。
(……騒がしい。実にお主らは、騒がしいのう)
水面下で、彼女はゆっくりと息を吐き出す。
前世では、一人で静かに入っていた狭いユニットバス。
今は、こんなにも広くて、暖かくて、そして……頭が痛くなるほど騒々しい仲間たちがいる。
(まあ、悪くない。……長風呂はのぼせるから、そろそろ上がって、冷たいコーヒー牛乳でも飲むとするか)
「ほらほら、そこまでにしておけ! エリーゼの嬢ちゃん、顔が真っ赤だぞ! のぼせて倒れる前に上がれ!」
「は、離しゅてくだしゃい! わたくしはまだ、この女たちにマウントを……っ、く、クラクラしますわぁ……」
「あっ、エリーゼがのぼせてひっくり返った! リアンヌ、運ぶの手伝って!」
ドタバタと騒ぎが続く大浴場。
銀河最強の死神は、そんな愛すべき仲間たちのドタバタ劇をBGMにしながら、温かいお湯の中で、密かに、しかし確かに、幸せな笑みを浮かべていたのであった。




