第二幕 第三十話:甘やかしの極致と、姉妹の密やかなるお茶会
「はい、ローゼリア。あーん、して?」
「あ、あーん……もぐもぐ。うむ、今日のイチゴは一段と甘いのう」
「ええ、帝国の南端、常夏の惑星から今朝の超高速便で届いたばかりの最高級品ですからね! さあ、次は皮を剥いたマスカットですよ。種もすべて私がピンセットで取り除いておきました!」
白亜の帝城。その一角に存在する、銀河最高峰の通信環境とゲーミングデバイスが完備されたローゼリアの私室。
その防音性の高い部屋の中には、かつての地獄のような決裁書類の山も、息の詰まるような重いドレスも、メイドたちのせわしない足音も存在しなかった。
あるのは、心地よい空調の音と、キーボードの軽快なタイピング音、そして——主を文字通り『甘やかす』ことに全存在を懸けている純白の騎士の、蕩けるような声だけであった。
「リアンヌ。イチゴも美味いが、妾はそろそろ塩気が欲しい。あそこのコンソメ味のポテトチップスを取ってくれ」
「ポテトチップスですね! かしこまりました! ですが、ローゼリアの美しい指が油で汚れてしまっては、コントローラーの操作に支障が出ます。私が一枚ずつ、ローゼリアのお口にお運びいたしましょう!」
「う、うむ。……そこまでされると流石に少し恥ずかしいが、まあ、頼む」
最高級のゲーミングチェアに深く腰掛け、最新のVR対応モニターに向かってコントローラーを握るローゼリア。彼女の服装は、かつてのコルセットで締め上げられた拷問具のようなドレスではなく、帝国の特注品である、まるで雲に包まれているかのように柔らかく軽い『超高級・もこもこルームウェア(うさぎ耳フード付き)』であった。
あの日——極度のストレスと生理不順、そして貴族令息のキザな台詞によってローゼリアの精神と肉体が完全に決壊し、空中庭園で血を吐くようなリバースをぶちまけて倒れてから、一週間が経過していた。
フェイト女帝の「すべての公務とお見合いを無期限凍結する」という絶対的な勅命により、ローゼリアを取り巻いていた地獄の包囲網は完全に撤廃された。
プレッシャーから解放されたローゼリアの肉体は、宮廷医の懸命な治療と、何より『ゲームができる』という精神的特効薬によって、みるみると生気を取り戻していった。崩壊していた自律神経は正常化し、鉛のように重かった下腹部の鈍痛も、嘘のように引き潮となって消え去っていた。
そして何より変化したのは、彼女の専属護衛であるリアンヌの態度であった。
『私のせいです……! 私が、陛下の言葉に躍らされて、ローゼリアの悲痛なサインを見落としていたばかりに……! 私は、騎士失格です! 万死に値します!!』
ローゼリアが目を覚ました日、リアンヌは自分の純白の特注マントを引きちぎらんばかりの勢いで号泣し、ローゼリアのベッドの脇で切腹しようとした(アルティナとランドグリーズが全力で止めた)。
それ以来、リアンヌのローゼリアに対する態度は、以前にも増して常軌を逸した『過保護』へとシフトしていたのである。
ローゼリアが歩こうとすれば「貧血がぶり返しては大変です!」と抱きかかえて移動し、食事の時は「胃に負担がかからないように」とすべてを一口サイズに切り分け、お風呂から上がれば髪の毛一本一本まで丁寧にドライヤーで乾かす。
もはや護衛というより、赤ん坊を溺愛する母親のような状態であったが、ローゼリア自身も極度のストレスから解放された反動で、その甘やかしを「まあ、今はいいか」と全力で享受していた。
「(……ああ。やっぱり、ゲームをして、美味いものを食って、ゴロゴロするだけの生活が一番じゃ。妾の魂の形には、これが一番しっくりくる)」
パリッ、とリアンヌの指から差し出されたポテトチップスを咀嚼しながら、ローゼリアは心の中で深い安堵の息を吐いた。
走馬灯の中で見た冷たい脱出艇の幻影は、もうどこにもない。ここは暖かく、安全で、そして自分を必要とし、愛してくれる仲間がいる場所だ。
「ローゼリア。そろそろ一時間経過しましたよ。宮廷医から、画面の見過ぎは目に毒だと言われています。十分間のアイマスク休憩を取りましょう」
「ええー、あと少しでボス戦なんじゃが……わかった、わかったからコントローラーを取り上げるな。セーブするから待て」
渋々ゲームを中断し、リアンヌにホットアイマスクを着けられてリクライニングを倒した、その時である。
**——コンコン。**
控えめなノックの音と共に、ローゼリアの部屋の扉の向こうから、静かなメイドの声が響いた。
「ローゼリア殿下。フェイト女帝陛下より、使いに参りました」
その声を聞いた瞬間、ローゼリアの肩がビクンッと跳ね上がった。
「フェ、フェイト姉上から……!? ま、まさか、また『体調が戻ったのなら、決裁書類の続きを』とか、『お見合い相手が待っている』とか、そういう話ではないじゃろうな!?」
ローゼリアはアイマスクをむしり取り、ガタガタと震えながらゲーミングデスクの下に潜り込もうとした。
トラウマは、そう簡単には消えないのだ。
「ローゼリア、落ち着いてください! 私がおります!」
リアンヌがスッと立ち上がり、扉に向かって鋭い声を放つ。
「フェイト陛下には感謝しておりますが、ローゼリアはまだ療養中の身! これ以上の過酷な公務を強いるというのなら、たとえ相手が女帝陛下であろうと、このリアンヌが全力でお守り——」
「あ、いえ、そういった公的なお話ではございません」
扉越しのメイドが、慌てたように否定した。
「陛下は、『もしローゼリアの体調が良さそうであれば、午後から【内密のお茶会】に招待したい』と仰せです。……公務ではなく、純粋な姉妹としての、二人きりの時間を作りたいと」
「お茶、会……?」
その単語に再び鳥肌が立ちかけたローゼリアだったが、「二人きりの姉妹の時間」という言葉に、少しだけ体の力を抜いた。
「(姉上と、二人きり……)」
思えば、エインヘリアルで出迎えられてからこっち、フェイトとは公的な場や、書類仕事の監視として言葉を交わしたことはあったが、ゆっくりと個人的な話をした記憶はなかった。
あの日、ベッドで目を覚ました時、絶対的な権力者であるはずの姉が、信じられないほど狼狽し、涙を浮かべていた顔が脳裏をよぎる。
「……リアンヌ」
「はい。ローゼリア」
「着替えを手伝ってくれ。……コルセットは無しじゃ。ゆったりとした、息の詰まらないワンピースにしてくれ」
ローゼリアはデスクの下から這い出すと、小さく、しかしはっきりとした声で命じた。
「……姉上と、少し話をしてくる」
帝城の最上階、フェイト・エーベルヴァインの私室の奥にひっそりと存在する、ガラス張りの温室。
そこは、政治の表舞台や軍事の喧騒から完全に隔離された、女帝のためだけの絶対的なプライベート空間であった。
青々とした珍しい植物たちが心地よい湿度と香りを保ち、柔らかな午後の陽光が、白い大理石の床に美しい影の模様を描いている。
「……失礼いたします、姉上」
リアンヌを部屋の入り口に残し、ローゼリアは一人でサンルームへと足を踏み入れた。
彼女が身に纏っているのは、締め付けの一切ない、柔らかなベビーブルーのシフォンワンピース。化粧もしておらず、長い金髪も後ろで緩く一本に束ねただけの、極めてリラックスした(あるいは無防備な)姿であった。
「いらっしゃい、ローゼリア。……体調は、もういいの?」
温室の中央、アンティーク調の白いテーブルの席から立ち上がったのは、エーベルヴァイン帝国の絶対女帝・フェイトであった。
彼女もまた、いつもの威厳に満ちた豪奢なドレス姿ではなく、シンプルな純白のロングドレスを身に纏い、光り輝くような美しい金髪を下ろしたままであった。
その黒曜石のような黒い瞳には、ローゼリアの顔色を伺うような、微かな緊張と深い安堵が入り混じっている。
「……はい。リアンヌがずっと美味しいものを運んでくれて、ゲームもさせてくれたおかげで、すっかり元気になりました。……ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
ローゼリアが少し気まずそうに目を伏せると、フェイトは小さく首を横に振った。
「謝るのは私の方よ、ローゼリア。……座ってちょうだい。今日はメイドも誰もいないわ。私が自分でお茶を淹れるから」
フェイトの言葉に甘え、ローゼリアはふかふかの椅子に腰を下ろした。
カチャカチャと、フェイト自らがティーポットから温かい紅茶を注ぐ音が、静かな温室に響く。
漂ってきたのは、あの貴族令息たちの吐き気を催すような香水の匂いではなく、心を落ち着かせるベルガモットの清々しい香りだった。
「……あの時は、本当に生きた心地がしなかったわ」
カップをローゼリアの前に置きながら、フェイトがポツリとこぼした。
「あなたが、自分の部屋から逃げ出してでも公務を嫌がっているのは分かっていた。でも、私はそれを『ただの妹のわがまま』だと思っていたの。少し厳しくすれば、すぐに音を上げて、皇族としての責任を受け入れてくれるだろうって。……まさか、あれほどまでに限界を迎えていたなんて、思いもしなかった」
フェイトは、自身の席に座ると、黒い瞳を真っ直ぐにローゼリアへと向けた。
「あの白髪の宮廷医から、あなたの極度のストレスと、身体に起きていた異常……そのすべてを聞いた時、私は自分がどれほど愚かな真似をしたのかを悟ったわ。……私は、自分の政治的なエゴで、たった一人の大切な妹を、また壊してしまうところだった」
「姉上……」
「ごめんなさい、ローゼリア。……私は、あなたを立派な皇女として表舞台に立たせることが、あなたにとっての『幸せ』だと信じ込んでいたの。でも、それは私のただの押し付けだったわ」
フェイトは、帝国の頂点に立つ絶対者としては決して見せることのない、一人の姉としての弱々しい表情で、深く頭を下げた。
その姿を見て、ローゼリアの胸の奥で、チクリとした痛みが走った。
フェイトは何も悪くないのだ。彼女はただ、かつて「無能力の欠陥品」として帝国から追放された哀れな妹を、今度こそ正式に自分の隣(皇族)に迎え入れ、誰からも蔑まれないように安全な城で守ってあげたかっただけなのだ。
その手段が「大量の公務とお見合い」だっただけで、そこに悪意は微塵もなかった。
悪いのは、その厚意を真っ向から受け止められない、ローゼリア自身の『中身(前世が男のゲーマーであること)』なのだから。
「……頭を上げてください、フェイト姉上。姉上は、何も悪くありません」
ローゼリアは、テーブルの上に置かれたフェイトの手に、自分の小さな手を重ねた。
「妾が……妾が、弱くて、どうしようもない怠け者なだけじゃ。姉上が用意してくれた最高の環境も、立派な地位も、妾には重すぎたんじゃよ。……妾の魂は、そういう高貴な場所に縛られるように出来てはおらんのです」
「……ローゼリア」
「妾は、暗くて狭い部屋で、ポテトチップスをかじりながら、モニターの光を浴びてゲームをしている時が一番落ち着く。……それから、エインヘリアルの母艦で、リアンヌに小言を言われながら、アルティナと徹夜で遊び、ブリュンヒルデ団長の胃薬の心配をしている時が……一番、息がしやすいんじゃ」
ローゼリアは、少しだけ照れくさそうに、しかしハッキリと、赤い瞳をフェイトに向けて微笑んだ。
「だから……ごめんなさい、姉上。妾は、姉上の隣に立って、帝国を導くような立派な皇女にはなれん。……妾は、あの騒がしい傭兵団の、ただの『死神』でいたいんじゃ」
その言葉を聞いたフェイトは、しばらくの間、大きく見開かれた黒い瞳でローゼリアの顔を見つめていた。
やがて、彼女の目からポロリと一滴の涙がこぼれ落ち、そして——ふっと、憑き物が落ちたように、柔らかく、美しい笑みをこぼした。
「……ふふっ。本当に……どうしようもない、不良品の妹ね」
フェイトは、ローゼリアの手を優しく握り返した。
「ええ。分かったわ。あなたがそこまで言うのなら、もう無理に皇族の枠に押し込めたりはしない。……あなたの好きにしなさい。傭兵でも、ニートでも、ゲーム廃人でも、何でもいいわ」
「ほ、本当か!? もう決裁書類にサインしなくていいんじゃな!? キザな男たちに『僕の小鳥ちゃん』などと呼ばれる地獄も味わわなくていいんじゃな!?」
ローゼリアが目を輝かせて身を乗り出す。
「ええ。もう二度とあんなことはさせないわ。……ただし」
フェイトの黒い瞳が、少しだけ悪戯っぽく、しかし力強く光った。
「あなたはこれからも、エーベルヴァイン帝国の影の庇護下にある、私の大切な妹よ。何か困ったことがあれば、いつでも私を頼りなさい。エインヘリアルの母艦も、帝国の最高技術で常にサポートしてあげる。……だから」
フェイトは、立ち上がってローゼリアの隣に歩み寄ると、その華奢な身体を、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「……だから、もう二度と、私の手の届かない遠くへ行って、勝手に死にかけて、私を悲しませないで。……約束して、ローゼリア」
「……姉上……」
ローゼリアは、姉の抱擁の温かさと、微かに震えるその声に、自分がどれほど愛されているかを知った。
前世の孤独な男だった自分には、決して得られなかった「無条件の愛」。
それが、ここにある。
「……約束する。妾はもう、どこかの暗い星の海で、一人で死んだりはせんよ。……絶対に、生きて帰ってくる」
ローゼリアは、フェイトの背中に腕を回し、力強く抱きしめ返した。
それから一時間後。
サンルームの扉が開き、ローゼリアがスッキリとした表情で出てきた。
「ローゼリア! お帰りなさいませ! フェイト陛下に、無理難題を押し付けられたりはしませんでしたか!?」
扉の前で直立不動で待機していたリアンヌが、尻尾を振る犬のように駆け寄ってくる。
「うむ。姉上と、とても有意義な話ができたぞ。……もう、妾はお見合いもしなくていいし、書類仕事もしなくていいそうじゃ!」
「おおおおっ!! それは素晴らしい! やはりフェイト陛下は、ローゼリアの健康と幸せを第一に考えてくださる明君ですね!!」
リアンヌがバンザイをして喜ぶ姿を見て、ローゼリアはクスリと笑った。
「そうじゃな。……よし、リアンヌ! 部屋に戻るぞ! 今日こそは、アルティナと一緒に買った新作の協力プレイ型FPSゲームをクリアするんじゃ! エインヘリアルのみんなにも、今日の夜は宴会を開くと伝えるのじゃ!」
「はいっ! 直ちにブリュンヒルデ団長と三姉妹に手配いたします! ああ、我が主の満面の笑み……これこそが、私の至上の喜びです!」
満面の笑みで廊下を歩き出すローゼリア。
その足取りは軽く、かつての絶望とストレスは完全に消え去っていた。
振り返れば、サンルームのガラス越しに、フェイトが優しく手を振っているのが見えた。
ローゼリアも、大きく手を振り返す。
(妾は、男のまま転生した、バグだらけの不良品じゃ。……でも、このバグだらけの人生も、悪くないかもしれんのう)
銀河最強の死神は、姉の温かい庇護と、過保護な騎士の愛に包まれながら、次なる戦場(新作ゲーム)へと意気揚々と帰還していく。
彼女の長く、そして少しだけ胃の痛くなるような帝都での「優雅なるバカンス」は、こうして最高のハッピーエンドを迎え、戦乙女たちの次なる冒険へと続いていくのであった。




