第二幕 第二十九話:冷たい鉄の棺と、走馬灯の仮説
意識が、泥のような深い闇の中へと沈んでいく。
つい先ほどまで肉体を苛んでいた、胃袋を裏返されるような猛烈な吐き気も、下腹部を締め上げる鉛のような鈍痛も、コルセットで内臓を圧迫される息苦しさも、嘘のように消え去っていた。
痛みがない。苦しみもない。重力すらも感じない。
ただ、果てしなく広がる静寂と、絶対的な『無』の感覚だけが、ローゼリアの精神をふわりと包み込んでいた。
「(……ああ。ここは、どこじゃろうか)」
水底へと沈む石ころのように、ゆっくりと、しかし確実に降下していく意識の中で、ローゼリアはぼんやりとそんなことを考えた。
限界を超えたストレスによる防衛本能が、彼女の精神を肉体から切り離し、深い深い無意識の底へと退避させたのだろう。
暗闇の中を漂っていると、やがて、その視界に小さなノイズが走り始めた。
ザザッ……ザザザッ……。
古いブラウン管テレビの砂嵐のようなノイズが弾け、徐々に一つの鮮明な『映像』を結んでいく。
それは、彼女の記憶の最深部に封印されていた、決して開けてはならない「禁断のセーブデータ」であった。
——目を開けると、そこは狭く、冷たい鉄の壁に囲まれた空間だった。
「(……ここは?)」
ローゼリアは、自分の身体を見下ろした。
そこに極彩色のフリルが過剰に装飾された皇女のドレスはない。あるのは、粗末で薄っぺらい、囚人が着るような白い貫頭衣だけ。
そして何より、手足が異様に小さく、細い。
タナトスの巨大な操縦桿を握りしめ、極大の魔力を練り上げる力強い腕ではない。ただの、無力で非力な、幼い少女の肉体だった。
ピーッ……。ピーッ……。
無機質で、絶望を告げるような電子音が、狭い空間に等間隔で鳴り響いている。
音の出処を探ると、目の前にある薄汚れたコンソールパネルの端で、赤いエマージェンシーライトが点滅していた。
**【WARNING:LIFE SUPPORT SYSTEM ERROR】**
**【OXYGEN LEVEL:12%……11%……】**
「(ああ……そうか。思い、出した。……ここは、あの場所じゃ)」
ローゼリアの心臓が、恐怖で早鐘のように鳴り始めた。
ここは、エインヘリアルの母艦でもなければ、帝城の広大な自室でもない。
かつて、ローゼリアが『帝国から宇宙へ廃棄された時に乗せられていた、小型の脱出艇(救命ポッド)』の中であった。
窓の外には、圧倒的な、そして無慈悲なほどの漆黒の宇宙空間が広がっている。
星々の瞬きすら遠く、ただひたすらに冷たく暗い、絶対零度の虚無。
その窓ガラスにうっすらと反射しているのは、泣きはらして赤く腫れた目をした、ひどく怯えた幼い少女——転生して間もない頃の、ローゼリア自身の顔だった。
そうだ。すべてを思い出した。
地球で孤独な成人男性として死に、小さな脱出艇の中で記憶を取り戻し、エーベルヴァイン帝国の皇女として転生したことを知る。
当時のエーベルヴァイン帝国は、圧倒的な「能力至上主義」の軍事国家である。皇族とは、強大な魔力と優れた頭脳を持ち、民を導く「超人」でなければならない。
しかし、幼き日のローゼリアの魔力測定結果は、『測定不能』であった。
魔力を全く持たない、落ちこぼれの欠陥皇女。
それが、ローゼリアに与えられた称号だった。
周囲の貴族たちから向けられる視線は、日に日に冷酷なものへと変わっていった。
『帝国の恥』『高貴な血統を汚す不良品』『あれは本当に陛下のお子なのか?』。
陰口は次第に露骨な殺意へと変わり、彼女が口にする食事に毒が盛られることも珍しくなくなった。
そしてある夜。
彼女は、メイドから手渡された温かいミルクを飲んだ直後、強烈な睡魔に襲われて意識を失った。
次に目を覚ました時、彼女はこの冷たく狭い脱出艇の中に押し込められていたのだ。
『——皇族の汚点よ。誰にも見つからない暗闇の果てで、静かに朽ち果てるがいい』
通信機から最後に聞こえた、名前も知らない何者かの冷酷な声。
そして、ガコンッという鈍い衝撃と共に、脱出艇は帝国の艦船から切り離され、光の届かない辺境の宙域へと、ゴミのように投棄された。
助けを呼ぼうにも、通信機はすでに破壊されていた。
航行システムはロックされ、どこへ向かうこともできない。
ただ、旧式の生命維持装置だけが、僅かな酸素を供給し続けているだけの、宇宙に浮かぶ「鉄の棺桶」。
「(寒い……。苦しい……っ)」
夢の中であるはずなのに、その感覚は恐ろしいほどにリアルだった。
酸素濃度が一桁を割り込み、呼吸をするたびに肺が焼け付くように痛む。
手足の指先から徐々に感覚が失われ、全身の血液が氷のように冷たくなっていくのがわかる。
「誰か……っ、助けて……! 妾は、ここにいるんじゃ……!」
乾いた喉から、掠れた声を絞り出す。
だが、その声は狭いコックピットの壁に反射するだけで、誰の耳にも届かない。
圧倒的な孤独。広大な宇宙で、自分という存在が誰にも認識されず、ただチリのように消え去っていくという絶望。
前世の地球でも、自分は孤独だった。
誰からも特別に愛されることなく、暗い部屋で一人、モニターの光だけを頼りに生きて、死んだ。
そして今世でも、結局は誰からも必要とされないまま、たった一人で冷たい鉄の箱の中で息絶えようとしている。
「(……ああ。バッドエンドじゃ。妾の人生は、何度プレイしても、結局はクソゲーのまま終わるんじゃな……)」
諦めが、ローゼリアの心を黒く塗り潰していく。
重くなる瞼を閉じようとした、その時だった。
『——ローゼリア。今日のデイリーミッション、一緒に片付けちゃうわよ』
『我が主! 今日も素晴らしいご采配でした! 私が肩をお揉みいたします!』
『まったく、お姫様は世話が焼ける。ほら、新しいゲームのソフトを買ってきてやったぞ』
ふと、暗闇の向こう側から、幻聴のように「声」が聞こえた。
アルティナの呆れたような声。リアンヌの過保護すぎる声。ブリュンヒルデ団長の、呆れながらも優しい声。
そして、先ほどまで自分を苦しめていたはずの、フェイト姉上の、あの甘く慈愛に満ちた声まで。
「(……アルティナ? リアンヌ……?)」
その声を聞いた瞬間、ローゼリアの極限まで酸欠状態に陥った脳内に、恐ろしい一つの『仮説』が閃いた。
——待てよ。
妾は今、なぜこの脱出艇の中で死にかけているのじゃ?
妾は、エインヘリアルに拾われたはずじゃ。チート級の魔力に目覚め、『タナトス』という最強の機体を手に入れ、銀河最強の死神として名を馳せたはず。
そして、あの恐ろしいユグドラシルをたった一人で壊滅させ、地球に降り立ち、かつての悪友であるタナカと再会してゲームをし、帝国に凱旋して……。
「(……いや、違う。違うぞ。……そんな都合の良い展開、あるわけがない)」
酸素が薄れる中で、ローゼリアのゲーマーとしての、あるいは冷めた大人の男としての冷徹な思考が、自分自身の記憶を論理的に解体し始めた。
そうだ。よく考えてみろ。
前世で何の取り柄もなかった引きこもりのオタク男が、転生先で都合よく「チート能力」に目覚め、無双する?
宇宙に捨てられたところを、都合よく美少女ばかりの傭兵団に拾われ、チヤホヤされる?
最強の騎士が自分を無条件に全肯定して崇拝してくれて、天才美少女ハッカー(アルティナ)と夜通しゲームで遊び、強くて美しい姉から溺愛される?
(……あまりにも、都合が良すぎるではないか。まるで安っぽいご都合主義の設定じゃないか)
それに、ルーンベイト連合を倒した時の記憶もおかしい。
どんなに強力な魔力を持っていたとしても、たった一機で無双など物理法則を無視しすぎている。ゲームの『無敵チートコード』を入力した状態そのものだ。
地球での出来事もそうだ。
五年も経っているのに、かつての悪友が自分のプレイスタイルを完璧に覚えていて、しかも美少女になった自分に「最高だったぜ」と声をかけてくれる?
そんな劇的な再会、現実にあるはずがない。
「(……つまり。エインヘリアルでの日々も、銀河最強の死神という肩書きも……全部、全部……)」
ピーーーーーーーーーーーーーーッ。
生命維持装置の警告音が、ついにフラットな連続音へと変わった。
酸素濃度が限界を迎え、ローゼリアの視界が完全に真っ暗にフェードアウトしていく。
「(……全部、今、この脱出艇の中で死にかけている妾の脳が、酸素欠乏によって見せている、長い長い『走馬灯(妄想)』だったのではないか?)」
その結論に行き着いた瞬間、ローゼリアの心臓が、氷の刃で貫かれたように冷え切った。
そうだ。これならすべての辻褄が合う。
死の恐怖から逃れるために、脳内麻薬が分泌され、自分の願望を極限まで肥大化させた「夢」を見せているのだ。
誰かに必要とされたい。最強の力を手に入れて、自分を見下した奴らを見返したい。可愛い女の子たちに囲まれて、楽しくゲームだけをして生きていきたい。
そんな、孤独で惨めな男の、浅ましくて、恥ずかしい、底なしの願望。
先ほどまで感じていた、貴族の令息たちとのお見合いの「地獄のようなストレス」でさえ、実は「ハイスペックなイケメンたちから猛烈にアプローチされる」という、無意識下の承認欲求が歪んで出力されたものに過ぎないのではないか?
「(……ハッ。柄にもなく、バカなことを考えてしまったのう)」
声に出すこともできず、ローゼリアは心の中で自嘲気味に笑った。
なんだ、結局妾は、ただの一度も誰かに愛されることもなく、ただの妄想の中でチート主人公を演じて悦に浸っていただけの、滑稽なピエロだったのか。
現実の自分は、今もこの冷たい鉄の棺桶の中で、誰にも知られることなく、呼吸を止めて死んでいく。
痛いほどにリアルだった仲間たちの笑顔も、タナトスの操縦桿の重みも、ポテトチップスのコンソメ味のしょっぱさも、すべてはニューロンが作り出した電気信号のノイズに過ぎなかったのだ。
「(……嫌じゃ)」
絶望と共に、ローゼリアの閉じた瞳の端から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それが単なる酸素欠乏の生理現象なのか、それとも魂の底からの未練なのか、自分でもわからなかった。
「(嫌じゃ……! もしあれが全部、妾のバカな脳みそが作り出した都合の良い妄想じゃったとしても……だとしても、妾は、あの夢から覚めたくない……っ!)」
だって、楽しかったのだ。
リアンヌの暑苦しいほどの過保護に呆れながらも、その絶対的な忠誠に救われていた。
アルティナと徹夜でゲームをして、負けてキーボードをクラッシャーするのが楽しかった。
ブリュンヒルデ団長に「またお姫様か!」と大声で怒られながら、その裏にある家族のような温かさに甘えていた。
ロスヴァイセの冷ややかなツッコミも、オルトリンデの淹れてくれる紅茶も、ランドグリーズの豪快な笑い声も、フィーネの油まみれの笑顔も。
すべてが、妾の大切な『日常』だったのだ。
「(死にたくない……っ。妾は、まだあいつらと一緒に、次の星系で……新作の、ゲームを……!)」
薄れゆく意識の中で、ローゼリアは必死に虚空に向かって手を伸ばした。
幻覚でもいい。妄想でもいい。どうか、あの騒がしくて、温かくて、少しだけ胃の痛くなるような、愛すべき戦乙女たちの元へ、帰らせてくれ。
だが、無情にも脱出艇の酸素は完全に尽きた。
肺が痙攣し、意識の糸がプツリと切れかける。
視界が完全にブラックアウトし、ゲームオーバーの文字が脳裏に浮かび上がろうとした、その『瞬間』だった。
**「——ローゼリア様!! お願いです、目を開けてください!! ローゼリア!!」**
真っ暗な深淵の底に、雷鳴のような鋭い声が響き渡った。
「(……えっ?)」
その声は、走馬灯の幻聴のように都合よく響くノイズではなかった。
耳膜をビリビリと震わせるほどにリアルで、そして、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった、必死な絶叫。
同時に、虚空に伸ばしていたローゼリアの右手を、力強く、痛いほどにギュッと握りしめる『温かい両手』の感触があった。
「あんた! ふざけないでよ! 私と、新しいFPSゲームでタッグ組む約束したじゃない! まだ一回もプレイしてないのよ! 起きなさい、このバカニート!!」
左手も、誰かに強く握られている。
そして、額の上にポツリ、ポツリと、熱い雫が落ちてくる感覚。
「(……温かい?)」
脱出艇の中は、絶対零度だったはずだ。
誰もいないはずの空間で、誰かが自分の手を握って、大声で泣いている。
そして、鼻腔をくすぐるのは、冷たい金属の匂いではなく、微かに消毒液の混じった、清潔なシーツと、甘い紅茶の香り。
ローゼリアは、必死に、鉛のように重い瞼を押し上げた。
ぼやけた視界に、最初に飛び込んできたのは、煌々と輝くシャンデリアの光だった。
そして、ベッドの右側にすがりつき、純白の騎士マントを涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら号泣しているリアンヌの姿。
左側には、タブレット端末を放り出し、目を真っ赤に腫らしながらローゼリアの手を両手で握りしめているアルティナの姿があった。
背後には、心配そうに覗き込むブリュンヒルデ団長や三姉妹、そして、口元を手で覆い、安堵の涙を浮かべるフェイト姉上の顔まである。
「あ……」
乾いた唇から、掠れた声が漏れた。
その微かな音に反応して、全員の視線がローゼリアに集中する。
「ロ、ローゼリア様……っ! 目が、目が覚められたのですね……っ!!」
「あんたって子は……! 本当に、死ぬかと思ったじゃない……っ!」
リアンヌとアルティナが、我慢しきれずにローゼリアの胸元に顔を伏せて、子供のように声を上げて泣き始めた。
ローゼリアは、酸素欠乏で麻痺していたはずの手のひらを、ゆっくりと動かしてみた。
自分を握りしめる二人の手の、確かな重みと、火傷しそうなほどの熱量。
腹部の奥底には、あの忌まわしい生理の鈍痛が、しっかりと(しかし先ほどよりは薬が効いてマシになって)居座っている。
腕には点滴の針が刺さっており、チクリとした痛みが走った。
「(……痛い。熱い。……うるさい)」
ローゼリアは、ベッドの天井を見つめたまま、ゆっくりと、しかし確かな安堵の息を吐き出した。
ああ、なんだ。
都合の良い妄想なんかじゃない。
チート能力も、可愛い仲間たちも、理不尽なお見合いの苦しみも、すべては間違いなく、この宇宙に存在する『現実』だったのだ。
「……うるさいのじゃ、お主ら。妾が死にそうな時に、大声で泣きわめきおって……」
ローゼリアは、掠れた声で悪態をついた。
「ローゼリア様ぁぁっ! よかったです、本当によかった……!」
「うるさいって何よ! こっちの気も知らないで! もう、バカバカバカッ!!」
「……団長、アルティナが妾を暴行しておるぞ。止めてくれ……」
「ふっ……。はははっ! 安心しろお姫様、もうお前の嫌がる公務もお見合いも、すべて白紙になった。だから、早く良くなって、またくだらないゲームの話を聞かせてくれ」
ブリュンヒルデが、心底ホッとしたように笑う。
走馬灯の暗闇は、完全に打ち砕かれた。
冷たい鉄の棺桶の幻影は消え去り、そこにあるのは、間違いなく彼女が自分の手で掴み取った、優しくて騒がしい居場所だった。
「(……まったく。柄にもなく、弱気になってしまったわい)」
ローゼリアは、未だに泣きじゃくる二人の頭を、点滴の刺さっていない手で不器用に撫でながら、そっと目を閉じた。
次に見る夢は、暗い宇宙の底ではなく、新作のゲームで仲間たちと大笑いしながら無双する、最高に楽しい夢であることを願いながら。




