第二幕 第二十八話:限界突破のストレスと、死神の肉体的な崩壊
「ローゼリア。本日の午前は、第八星系の通商条約改定案の決裁と、来たる星間式典におけるドレスの仮縫い。そして午後からは、帝国東部を統べる辺境伯のご子息、ならびに中央銀行頭取のご子息とのお茶会(お見合い)がセッティングされております。さあ、起きてください」
白亜の帝城、その一室。
分厚い遮光カーテンがシャッと開かれ、眩しい朝の光が部屋に差し込む。
天蓋付きの最高級ベッドのシーツにくるまり、芋虫のように丸まっていたローゼリアは、その光を浴びて「ひぎぃっ……」と、まるで日光を浴びた吸血鬼のような情けない呻き声を上げた。
「……リアンヌ。もう、嫌じゃ……。妾は、もう一歩もベッドから出たくない……」
シーツの隙間から覗くローゼリアの顔は、幽鬼のように青白かった。
目の下にはくっきりとクマが刻まれ、かつての星々を震え上がらせた「銀河最強の死神」としての覇気など微塵も残っていない。
帝城に軟禁され、終わりの見えない書類仕事とマナー教育、そして何より「貴族の令息たちとの地獄のお見合い」を強制されるようになってから、すでに三週間が経過していた。
毎日毎日、数時間おきに違う「顔だけは無駄に良い男」が現れては、甘ったるい香水を漂わせながら、ローゼリアの手を取り、腰に手を回そうとし、乙女ゲーム顔負けの恥ずかしい台詞を吐き捨てていく。
『ああ、殿下。あなたのその憂いを帯びた瞳……僕が一生かけて、笑顔に変えてみせましょう』
『ローゼリア様。僕のこの燃えるような愛の詩を、どうか受け取ってください』
『殿下のその華奢な肩、僕が抱きしめて温めてさしあげたい……!』
(**きっっっしょいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!!**)
毎晩、眠りにつこうとするたびに、彼らの甘い囁き声がフラッシュバックし、ローゼリアは鳥肌と吐き気でベッドの上でのたうち回っていた。
彼女の魂は「地球の成人男性」である。同年代の美青年に甘く口説かれる苦痛は、言葉では表現できないほどの精神的ブラッドボーン(拷問)であった。
最初の頃は脳内でツッコミを入れる余裕もあったが、三週間も続けば、精神の防御壁(サニティ値)はとっくにゼロを振り切っている。
「……リアンヌ。妾のHPはもうマイナスじゃ。今日は休ませてくれ……」
「何を甘えたことを仰るのですか! 帝国民があなたの復帰を待っているのですよ! さあ、フェイト陛下に没収される前に、朝食をしっかりと摂って……」
リアンヌがシーツを剥ぎ取ろうとした、その時である。
「うっ……!?」
ローゼリアは突如として口元を手で覆い、ベッドから転がり落ちるようにして立ち上がると、そのままふらつく足取りで部屋に併設された豪奢なバスルームへと駆け込んだ。
「オ、オエェェェェェェッ……!! げほっ、うぐっ……!!」
大理石の洗面台にしがみつき、激しく胃液を吐き出すローゼリア。
しかし、彼女の胃の中はほとんど空っぽであったため、出てくるのは透明な胃液と苦い胆汁だけだった。
「ロ、ローゼリア!? どうされたのですか、顔色が真っ青ですよ!」
慌てて追いかけてきたリアンヌが、主の背中をさする。
「はぁ……はぁ……気持ち、悪い……。世界が、グルグル回っておる……」
ローゼリアは洗面台に突っ伏したまま、荒い息を吐いた。
彼女の肉体には、ここ数日で明らかな「異常」が生じ始めていた。
一つは、極度の『食欲不振(少食)』である。
かつては、地球のジャンクフードであろうが、エインヘリアルの食堂の山盛りランチであろうが、ペロリと平らげていた彼女の胃袋が、帝国の最高級シェフが腕によりをかけた料理を一切受け付けなくなってしまったのだ。
目の前に美しく盛り付けられたキャビアやトリュフ、柔らかな肉料理を想像するだけで、お見合い相手のキザな男たちの顔がフラッシュバックし、猛烈な吐き気に襲われる。
ここ数日、ローゼリアが口にできたのは、僅かな水と、味が薄いゼリー状の栄養食だけであった。
そして、もう一つの異常。
それは、元男性である彼女を最もパニックに陥らせている、女性特有の現象——『極度の生理不順』であった。
女性の肉体に転生して数百年。月に一度訪れる「血の呪い(生理)」には、それなりに慣れていたつもりだった。鎮痛剤を飲み、大人しく寝ていれば数日で終わるものだと。
しかし、今回のそれは全く違った。
極度の精神的ストレスによってホルモンバランスが完全に崩壊し、周期がデタラメになった挙句、かつて経験したことのないほどの重く、鉛のような鈍痛が下腹部を容赦なく締め上げていたのだ。
(痛い……痛い痛い痛いっ! なぜ腹の底から内臓を引きちぎられるような痛みが続くのじゃ! しかも、血が止まらん! 妾はどこも怪我などしておらんのに、なぜ股から血を流して苦しまねばならんのじゃぁぁぁっ!!)
「男」の精神を持つローゼリアにとって、自分の意思とは無関係に肉体が反乱を起こし、コントロール不能になる恐怖と不快感は、まさに生き地獄であった。
貧血で立ち上がることもままならず、腰は岩を背負っているように重い。その上、自律神経の乱れからくる謎の吐き気と微熱が、彼女の思考能力を完全に奪い去っていた。
「ローゼリア、やはりお加減が……。今日のお茶会は、フェイト陛下に申し出てキャンセルいたしましょうか?」
リアンヌが、タオルでローゼリアの口元を拭いながら、ようやく事の重大さに気づいたようにオロオロと声をかける。
「……いや、ダメじゃ。ここでキャンセルすれば、あの腹黒姉上は『では代わりに、一日中マナー講座と歴史のテストを受けなさい』と言い出すに決まっておる……。それに、後回しにすればするほど、釣書の山が高くなるだけじゃ……」
ローゼリアは、ガクガクと震える膝に力を込め、洗面台から顔を上げた。
「……着替えさせい、リアンヌ。コルセットは……少し、緩めで頼む……」
「ローゼリア……! おお、なんという責任感! やはりあなたは、気高き帝国の皇女です!」
(違う……ただ後でまとめて地獄を見るのが嫌なだけじゃ……)
勘違いして感動の涙を流すリアンヌにツッコミを入れる気力すらなく、ローゼリアは虚ろな目で、メイドたちが持ち込んできた重いドレスを見つめた。
その日の午後。
空中庭園のガゼボにセッティングされたお茶会の席で、ローゼリアは限界を超えた肉体を気力だけで保ちながら、椅子に座っていた。
分厚い化粧で青白い顔色は隠されているが、コルセットで締め付けられた腹部は、まるで万力で潰されているかのように激しく痛み、冷や汗が背中を伝い落ちている。
「——殿下。本日はお会いできて光栄です。噂に違わぬ、いや、噂以上に息を呑むほどの美しさだ」
向かいに座っているのは、帝国でもトップクラスの軍事産業を牛耳る侯爵家のご嫡男。
金髪碧眼、鍛え上げられた長身に、完璧なまでの貴族のスマイルを浮かべた、これ以上ないほどの「超優良物件」であった。
「……ごきげん、よう。侯爵、令息……」
ローゼリアは、震える唇を無理やり吊り上げ、蚊の鳴くような声で挨拶を返す。
(吐きそう……腹が痛い……帰りたい……)
「殿下、どうか私のことはファーストネームで呼んでください。……ああ、その儚げな表情。まるで、嵐の夜に震える一輪の白薔薇のようだ。私が、この腕であなたを嵐からお守りしたい」
**ゾワワワワワワワワワワッ!!**
令息の口から発せられたその甘い言葉が、ローゼリアの全身の毛穴を逆立てた。
脳の奥底で、何かがブチッと千切れる音がした。
「殿下、お加減が優れないようですが、どうかされましたか? もしや、私に見惚れて熱でも出されたのかな?」
令息が、心配そうに(しかし自分に酔った顔で)身を乗り出し、ローゼリアの顔を覗き込む。
その瞬間、彼が身に纏っていた高級なオーデコロンの強烈な甘い香りが、ローゼリアの鼻腔を直撃した。
(あ、ダメじゃ。……限界)
極度のストレス、生理不順による猛烈な腹痛と貧血、数日間の絶食状態、そしてトドメの「男からのキザな台詞と香水」。
これらすべての要因が化学反応を起こし、ローゼリアの胃袋——いや、肉体の防衛本能が、完全に決壊した。
「殿下? どうかさ……」
「…………ッ、**オエェェェェェェェェェェェェェェッ!!!**」
「えっ!?」
令息が目を丸くした次の瞬間。
ローゼリアは、優雅なお茶会のテーブルのど真ん中、高級なマイセンのティーカップと三段重ねのケーキスタンドに向かって、美しい真紅のドレスを震わせながら、全力でリバースした。
胃の中は空っぽのはずだったが、苦い胃液がテーブルクロスを派手に汚していく。
「ヒィィッ!? で、殿下!?」
「ゲホッ、オエェッ……! はぁ、はぁっ……!」
「ローゼリア様ぁぁぁっ!?」
美しい皇女が突然テーブルに嘔吐するという前代未聞の惨劇に、ガゼボの周囲に控えていたメイドたちと侯爵令息はパニックに陥った。
直立不動で控えていたリアンヌが悲鳴を上げて飛び出し、崩れ落ちそうになるローゼリアの体を抱き留める。
「あ、あ、ああ……ご、ごめんなさい、殿下! 私の香水がきつかったのでしょうか! いや、それにしても……!」
顔面蒼白で後ずさる令息。
「リアン……ヌ……。もう、無理……じゃ……。妾を、殺して、くれ……」
ローゼリアは、リアンヌの腕の中でガクンと首を折ると、そのまま完全に意識を手放し、気絶した。
「ローゼリア様! しっかりしてください、ローゼリア様! 誰か! 早く軍医を! 宮廷医を呼んでください!!」
空中庭園に、純白の騎士の悲痛な絶叫が響き渡る。
かくして、銀河最強の死神の「お見合い地獄」は、本人の物理的なリバースと気絶という、最も最悪で悲惨な形によって強制終了させられたのであった。
数時間後。
ローゼリアの私室。天蓋付きのベッドには、点滴の管に繋がれ、死人のように静かに眠るローゼリアの姿があった。
そのベッドを囲むようにして、深刻な顔をした傭兵団『戦乙女』の面々と、フェイト女帝が立っている。
「……で。容態はどうなの」
腕を組み、静かに、しかし冷たい怒りを滲ませた声で尋ねたのはアルティナだった。
彼女の視線の先には、帝国の最高峰の医療技術を持つ白髪の宮廷医が、カルテのホログラムを操作しながら冷や汗を拭っている。
「は、はい。フェイト陛下、ならびに皆様。……殿下は現在、極度の『心因性ストレス』による自律神経の完全な崩壊状態にあります」
「心因性、ストレス?」
長女ランドグリーズが眉をひそめる。
「ええ。それに伴う重度の消化器系の機能不全……つまり、一切の食物を受け付けない拒食状態です。さらに、女性ホルモンのバランスが致命的なまでに乱れており、通常では考えられないほど重い月経異常(生理不順)と、それに伴う大量出血による重度の貧血を引き起こしております」
宮廷医の言葉に、部屋の空気が凍りついた。
「これほどまでの身体の異変は、戦場での極限状態の兵士にしか見られないレベルです。一体、殿下はどれほどの精神的重圧と苦痛を味わっておられたのか……。あと数日この状態が続いていれば、命に関わっていたかもしれません」
「命に、関わる……」
リアンヌが、その場にガクンと膝をついた。
「わ、私のせいだ……! 私が、陛下の命令に従って、ローゼリアの悲鳴を無視して、無理やりスケジュールをこなさせてしまったから……! 私が、我が主を殺しかけた……!」
純白の騎士は、ベッドのシーツに顔を押し当てて号泣し始めた。
これまでの「優雅なバカンス」気分が一気に吹き飛んだブリュンヒルデ団長と三姉妹たちも、あまりの事態に言葉を失っている。
「……おいおい、嘘だろ。お姫様が、そんなに……?」
「あんな好条件の男たちを紹介されていたのに、そこまで思い詰めるなんて……。私たち、完全に勘違いしていましたわ……」
ロスヴァイセが、血の気の引いた顔で口元を押さえる。
彼女たちは、ローゼリアが「元・男」であることを知らない。だからこそ、「なぜあそこまでお見合いを嫌がるのか」が理解できず、ただの我が儘だと思って放置していたのだ。だが、結果として、自分たちの傍観がローゼリアを死の淵にまで追い詰めてしまったという罪悪感が、彼女たちの胸を強く締め付けていた。
「……お姉様」
アルティナが、スッとフェイトの前に進み出た。
普段は冷徹な元・ユグドラシル幹部の彼女の瞳にも、明確な怒りの炎が灯っている。
「だから言ったじゃない。あの子は、あなたが思っているほど図太くないって。確かにゲームばっかりのダメなニートだけど、あの子の『中身』は……」
アルティナは言いかけて、口をつぐんだ。
「元・男だから、男に口説かれるのが死ぬほどストレスだった」などと、ここでバラすわけにはいかない。
「……とにかく、やりすぎよ。妹を皇族に復帰させるためとはいえ、物理的に壊してしまったら元も子もないでしょう」
フェイトは、アルティナの責めるような視線を受けながらも、無言でベッドに眠る妹を見つめていた。
その黒曜石のような瞳には、冷徹な女帝としての仮面の下に、確かに「姉としての激しい後悔と動揺」が揺らめいている。
「……ええ。私の、見通しが甘かったわ。まさか、あれほどまでに政治の表舞台と貴族との交流を拒絶するなんて……」
フェイトは静かに目を閉じ、そして、部屋にいる全員に向けて、凛とした声で宣言した。
「——宮廷医。妹の心身の回復を最優先とし、最高レベルの医療とケアを施しなさい。……そして、本日をもって、ローゼリアの皇族復帰に関するすべての手続き、ならびに決裁書類、お見合いの予定は、**無期限で凍結**とするわ」
「陛下……!」
リアンヌが涙顔を上げる。
「ゆっくり休ませてあげなさい。この部屋の防壁も解くわ。彼女が目覚めたら、好きなだけゲームをさせて、好きなものを食べさせてあげてちょうだい。……すべては、私の不徳の致すところよ」
フェイトは、ベッドに眠るローゼリアの青白い額にそっと優しく手を触れると、静かに私室を後にした。
絶対女帝の完璧な包囲網は、ローゼリアの「命懸けの体調不良」という形で、完全に打ち破られた。
しかし、その代償はあまりにも大きく、銀河最強の死神は、しばらくの間、点滴と薬に繋がれたまま、静かな眠りにつくこととなったのである。




