第二幕 第二十七話:死神の精神崩壊と、地獄のお茶会
白亜の帝城、その一角に設けられたローゼリアの広大な私室。
最新鋭のゲーミングPCが七色のLEDを妖しく輝かせ、未発売の次世代VRハードが厳重なガラスケースの中に鎮座するその「銀河最強の引きこもり部屋」の中央で——一人の絶世の美少女が、文字通り「死に体」となってマホガニー製の重厚なデスクに突っ伏していた。
「……あ……うぅ……ログ、イン……デイリー、ミッションの……更新時間が……過ぎてしまう……」
焦点の合わない真紅の瞳。生気を完全に失い、半ば幽体離脱しかけているかのような虚ろな表情。
かつて、漆黒の大鎌を一振りするだけで星系の要塞を両断し、全宇宙の裏社会を恐怖のどん底に陥れた『黒き死神』ローゼリア・エーベルヴァインの姿はそこにはなかった。
今の彼女は、過酷なブラック企業で三日連続の徹夜労働を強いられ、心身共に限界を迎えた社畜よりも酷い、完全なる精神崩壊を引き起こしていたのである。
「ローゼリア! いけません、インクがドレスの袖に付いてしまいますよ! さあ、顔を上げて。第七星系のレアメタル採掘権に関する特措法の決裁と、第三セクターの農業プラント視察のスケジュール調整がまだ残っています!」
そんな干からびたナメクジのような主の肩を揺さぶるのは、純白の騎士リアンヌであった。
彼女の現在の正式な肩書きは**『戦乙女副団長 兼 帝国皇女親衛隊長』**である。
本来、彼女の指揮権は戦乙女の団長であるブリュンヒルデが握っている。しかし、フェイト女帝から「帝国の公式な護衛」という甘い称号を与えられたリアンヌに対し、休暇を満喫したいブリュンヒルデは「我々がバカンスを楽しんでいる間、副団長としてお姫様の公務をしっかりと補佐(監視)しなさい。それが今の君の任務だ」と、あっさりと彼女の出向を許可してしまったのだ。
結果として、リアンヌは「団長からの正式な命令」と「ローゼリアのお側にずっといられる喜び」の二つを胸に、かつてないほどのモチベーションでローゼリアの執務を物理的にサポート(という名の強制執行)していた。
「り、リアンヌぅ……もう嫌じゃ……。妾の右腕は、すでに感覚がないんじゃ……。サインのしすぎで、自分の名前のゲシュタルト崩壊が起きておる……。エーベルヴァインの『エ』って、どんな形じゃったか……?」
「甘えないでください! 帝国民は皆、ルーンベイト連合との激戦で帝国を救った英雄たる皇女殿下の復帰を、今か今かと心待ちにしているのです! これも誇り高き皇族としての義務! さあ、気合を入れて!」
「お主、妾の護衛じゃろうが! なぜ監視官になっとるんじゃ! 姉上と団長に上手いこと使われおって……っ!」
ローゼリアは最後の力を振り絞り、デスクから逃げ出そうと足掻く。
しかし、彼女の壊滅的な運動神経では、帝国一の膂力を誇る近衛騎士のホールドを振り解けるはずもなく、ズルズルと最高級のベルベットチェアに引き戻される。
連日の逃走の失敗。
窓から飛び降りようとすれば、特殊な魔力結界がトランポリンのように彼女を跳ね返し、部屋のど真ん中へポーンと戻す。
換気扇のダクトから抜け出そうとすれば、途中で肩がつっかえて身動きが取れなくなり、リアンヌに足を引っ張られて大根のように引っこ抜かれる。
そして、愛機『タナトス』が眠る軍事ドックは、帝国の最精鋭部隊と自動迎撃システムによって完全に封鎖されており、近づくことすら叶わない。
逃げ場のない密室での、終わりの見えない書類仕事。
それは、前世から「面倒くさいこと」を徹底的に避けて生きてきた元・限界ゲーマーにとって、死よりも辛い拷問であった。
しかし——ローゼリアにとっての『真の地獄』は、このデスクワークなどではなかったのだ。
**——コンコン。**
重厚な扉がノックされ、優雅な所作で数人のメイドたちが入室してきた。彼女たちの手には、フリルとレースが過剰なまでに施された、目も眩むような豪奢なドレスと、大量の化粧道具が握られている。
「ローゼリア殿下。お時間でございます。午後からの『お茶会』の準備に入らせていただきます」
「……ひっ!!」
『お茶会』という単語を聞いた瞬間、ローゼリアの体がビクンッと大きく跳ねた。
顔面からサッと血の気が引き、カタカタと奥歯が鳴る。
「い、嫌じゃ! 今日はもう体調が悪い! 腹痛じゃ! いや、未知の宇宙ウイルスによる流行り病じゃ! 飛沫感染で全滅するから絶対に誰も妾に近づくなぁぁぁっ!」
「往生際が悪いですよ、ローゼリア。これもフェイト女帝陛下が直々にセッティングされた、極めて重要な公務なのですから。さあ、立ってください」
リアンヌが容赦なくローゼリアの腕を掴み、メイドたちの前へと突き出す。
「さあ皆様、ローゼリアを世界で一番美しく飾り立ててください!」
「かしこまりました、親衛隊長殿」
メイドたちが一斉にローゼリアに群がり、手際よく、しかし一切の慈悲もなく、彼女の衣服を剥ぎ取っていく。
そして、息が止まるほどにキツい純白のコルセットでウエストを限界まで締め上げ、何層にも重なった重いペチコートを穿かせ、その上に息を呑むほど美しい、しかし恐ろしく動きにくい真紅のドレスを着せ掛けていく。
「ぐふっ……! くる、苦しい……! 息が、内臓が口から出そうじゃ……!」
「我慢してください。殿下の美しいプロポーションを際立たせるためです」
(妾のプロポーションなどどうでもいい! 妾の中身は前世からずっとジャージで過ごしてきた中年男なんじゃぞ! なぜこんな鉄の処女のような拘束具を着せられねばならんのじゃ!)
ローゼリアは、自分が元・地球の男性であるという秘密を誰にも——エインヘリアルの仲間たちにすら——打ち明けていない。もしバレたら、その瞬間に羞恥で全身の血が沸騰して死ぬ自信があるからだ。
だからこそ、この悲痛な叫びは口に出すことができず、ただひたすらに脳内で絶叫することしかできない。
誰もローゼリアの魂の叫びには耳を貸さない。
熟練のメイドたちの手によって手早く化粧が施され、金色の長い髪が複雑で芸術的なシニヨンに結い上げられ、星の瞬きを閉じ込めたような宝石が散りばめられる。
鏡の前に立たされたのは、誰もが息を呑むような、可憐で、儚げで、そして圧倒的な美貌を誇る「帝国の至宝」たる皇女の姿であった。
だが、その絶世の美少女の中身は、これから待ち受ける『真の地獄』に対する恐怖とストレスで、完全に泡を吹く寸前であった?
帝城の南側に位置する、空中に浮かぶ広大な『空中庭園』。
そこは、帝国が誇る気候制御システムによって一年中美しい花々が咲き乱れ、色鮮やかな小鳥が囀る、帝国でも最もロマンチックで美しい場所であった。
その中央に設置された、純白のガゼボ(西洋風の東屋)。
ローゼリアは、ガチガチに緊張で体を硬直させながら、最高級のレースで編まれた椅子にちょこんと座らされていた。背後には、護衛のリアンヌが彫像のように直立不動で控えている。
「……ローゼリア殿下。本日は、このようにお美しいあなた様とお会いできたこと、我が一族の至上の喜びにございます」
テーブルを挟んで向かい側に座っているのは、金髪をオールバックに撫で付けた、いかにも高慢そうな、しかし容姿だけは無駄に整った貴族の令息(二十代前半)であった。
彼の瞳は、ローゼリアの美貌に完全に魅了されており、熱を帯びた視線がねっとりと彼女の顔からドレスの胸元へと這い回っている。
そう。この『お茶会』の真の目的。
それは、フェイト女帝がローゼリアを帝国の政治の表舞台に完全に縛り付けるために用意した、**有力貴族たちとの『お見合い』**なのである。
「あ……う、うむ。よ、良き天気じゃな……」
ローゼリアは、引きつった笑顔を顔に貼り付けながら、震える手でティーカップを持ち上げた。カチャカチャと、カップとソーサーが小刻みにぶつかる音が鳴る。
(帰りたい。今すぐ帰りたい。あのデスクトップの電源ボタンを押して、暗い部屋でFPSゲームに没頭したい……っ!)
心の中で血の涙を流しながら叫ぶローゼリア。
しかし、向かいの令息はそんな彼女の苦悩など露知らず、甘く、そして絶望的に気持ちの悪い台詞を吐き出し始めた。
「ああ……殿下。噂には聞いておりましたが、あなたはまるで、この庭園に咲く白百合のように可憐で、そして儚い……。あの凶悪なルーンベイトとの激戦をくぐり抜けてきたとは到底思えない、守ってあげたくなるような華奢なお体だ」
**ゾワワワワワワワワワワッ!!**
その言葉を聞いた瞬間。
ローゼリアの背筋から首筋にかけて、まるで数万匹の毛虫が一斉に行進したかのような、凄まじい鳥肌が立った。
(き、き、き……っ!きっっっっっっっっっっっっっっしょおおおおおおおおおいぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!!)
ローゼリアの魂が、断末魔の叫びを上げた。
無理もない。彼女の精神構造は、根本的には地球でゲームに明け暮れていた「男」のままである。もちろん、その秘密は誰一人として知らない。
だからこそ、周囲から見れば「美しき皇女と高貴な青年のロマンチックなひととき」にしか見えないこの状況は、ローゼリア本人にとっては、見ず知らずの、しかも無駄に顔が整った同年代の「男」から、甘く囁きかけられ、熱を帯びた目で見つめられ、「儚い」「可憐だ」「守ってあげたい」などという乙女ゲームも真っ青のセリフを浴びせられ続けるという、凄惨極まる精神的リンチなのである。
(誰が儚いじゃ! 妾はタナトスに乗ればお主の領地ごと更地にできるわ! 守ってあげたいじゃと!? お主のようなヒョロガリの腕で、妾の絶対防壁の代わりが務まると思っているのか!!)
脳内で暴言の嵐が吹き荒れるが、皇女としての体裁上、それを口に出すことは許されない。
ローゼリアは必死に吐き気を堪え、紅茶を喉に流し込む。帝国最高級の茶葉であるはずなのに、味がしない。ただの苦い泥水にしか感じられない。
「殿下。その……美しい真紅の瞳。まるで最高級のルビーのようだ。私は、この瞳に吸い込まれてしまいそうです。……どうか、私のこの手を、取っていただけないでしょうか?」
令息が、立ち上がってテーブル越しに身を乗り出し、ローゼリアの華奢な手を握ろうと手を伸ばしてきた。
「ヒッ!?」
ローゼリアは反射的に椅子ごと後ろにのけぞり、ガタンッと大きな音を立ててしまった。
「お、おおっと! すみません殿下、少し情熱が過ぎましたかな? ははは、あなたのその小動物のように怯える仕草も、たまらなく愛らしい……!」
「あ、はは……。そ、そうじゃな……。少し、風が冷たいようじゃ……」
(愛らしいじゃとぉ!? 妾は今、お主の顔面に極大の火球を叩き込みたい衝動を必死に抑え込んでいるだけじゃ!! 誰か、誰か助けてくれ! 妾の尊厳(男としてのプライド)が、粉々に砕け散ってしまう!!)
テーブルの下で、ローゼリアは両手を強く握りしめ、ドレスの布地が破れるほどに力ませていた。
胃液が逆流しそうになるストレス。精神をゴリゴリと削り取られるような、圧倒的な不快感。
ユグドラシルの大艦隊と相対した時ですら、彼女はこれほどの恐怖とストレスを感じたことはなかった。
しかも、絶望的なことに、この「お見合い」は彼一人で終わるわけではない。
フェイトが手配した釣書は、ダンボール三箱分。今日だけで、あと四人の貴族の令息と、同じような「地獄の甘い時間」を過ごさなければならないのだ。
「……ローゼリア様。お顔の色が優れませんね。大丈夫ですか?」
背後からリアンヌが小声で心配そうに尋ねてくる。
「(お主のせいじゃ! お主が姉上と団長に丸め込まれたせいじゃろうがポンコツ騎士!)」
声に出せない怨嗟を視線だけで送りながら、ローゼリアは虚ろな目で宙を見つめた。
「……うわぁ。お姫様、完全に魂が抜けてるッスね」
「ええ。顔面が青を通り越して、土気色になっていますわよ。……全く、信じられませんわ」
お見合いの会場となっている空中庭園のガゼボから少し離れた、見晴らしの良い高台にあるVIPテラス席。
そこでは、帝国から支給された最高級のフルーツタルトをつつぎながら、傭兵団『戦乙女』の面々が、高倍率の軍用双眼鏡を片手に、ローゼリアの地獄のお見合いを「優雅な昼下がりの見世物」として鑑賞していた。
長女ランドグリーズが双眼鏡を覗き込みながら、心底不思議そうに首を傾げる。
「なあ、ロスヴァイセ。さっきの令息、帝国でも有数のエネルギー産業を牛耳る公爵家のご嫡男だろ? 背も高くて、顔もすげぇ整ってるし、おまけに金持ちだ。なんでお姫様は、あんな『超優良物件』を前にして、苦い虫を百匹噛み潰したような顔をしてるんだ?」
「さあ? きっと、あの方の脳内はオンラインゲームのことで腐りきっているのでしょうね。あのようなハイスペックな殿方の価値も理解できないなんて、本当に度し難いお子様ですわ」
次女ロスヴァイセが、呆れたように紅茶を飲む。
そう。彼女たちは、ローゼリアの中身が「男」であることを知らない。
だからこそ、若くて美しく、莫大な財産と権力を持つ貴族の令息たちからの熱烈なアプローチを、なぜローゼリアがここまで全身全霊で拒絶し、怯えているのかが全く理解できなかったのである。
「……本当に、もったいない話ね。まあ、あの子にとっては、イケメンの貴族よりも、最新型のグラフィックボードの方が価値があるんでしょうけど」
アルティナが、タブレット端末で帝国のニュースを流し見しながら、同情と呆れが入り混じった視線を向ける。
「でも、これも彼女が背負うべき『皇族としてのカルマ』よ。私たちには関係のない話だわ」
「そうだな。我々は我々で、フェイト女帝陛下が手配してくれたこの素晴らしいバカンスを、最後まで堪能する義務がある」
ふかふかのテラスチェアに深く腰掛けたブリュンヒルデ団長は、いつの間にか帝国の高級スパで全身マッサージを受けてきたのか、肌をつやつやに輝かせながら、心底リラックスした表情で微笑んだ。
「リアンヌも、副団長としての任務(護衛)を立派にこなしているようだしな。お姫様には悪いが……彼女が皇族としての責務を果たして気を引いてくれている間に、私はもう一度、温泉に行ってくるとしよう。……ああ、部下の不始末で胃が痛まない生活というのは、なんて素晴らしいんだ」
『いってらっしゃいませ、団長!』
完全に「他人事」として見捨てられたローゼリア。
ガゼボの中では、二人目のお見合い相手である、今度は筋肉質で暑苦しいタイプの貴族令息が、「僕のこの鍛え上げられた大胸筋で、殿下を一生お守りします! さあ、僕の胸に飛び込んでください!」と熱烈なポーズを決めており、ローゼリアの口からついに一筋の白い泡が吹き出し始めていた。
「(ああ……神よ……。どうか妾に、タナトスと、キーボードと、マウスを……。さもなくば、いっそこのまま、安らかなる電子の海へと、妾を導き給え……)」
自分が元・男であると言い出せないが故に、誰にもこの地獄の苦しみを理解してもらえない。
一切の同情も得られないまま、銀河最強の死神は、甘く吐き気のするような愛の言葉の集中砲火を浴び続け、その精神(HP)を完全にゼロへとすり減らしていくのであった。




