第二幕 第七話:星詠みの娘と、世界樹の追手
「……ん、ぁ……」
アルティナが次に目を覚ました時、彼女を包み込んでいたのは、冷たい培養液でも、無機質な尋問室の拘束椅子でもなかった。
まるで雲の上に沈み込むような、とろけるほど柔らかく、微かに陽だまりの香りがする「ふかふかのベッド」だった。
「あら、おはようございます、アルティナ。よく眠れましたか?」
ベッドの脇で、純白のエプロン姿のリアンヌが、聖母のような笑みを浮かべて覗き込んでいた。彼女の手には、湯気を立てる焼きたてのパンと、甘い香りのするミルクティーが乗ったトレイが握られている。
「……っ!?」
アルティナは弾かれたように身を起こし、周囲を見回した。
そこは、エインヘリアルの母艦内にあるゲストルーム——というより、明らかに「過保護な親が娘のために一晩で全力で飾り付けた」としか思えない、可愛らしい調度品で溢れた部屋だった。
自分が着ているのも、漆黒の戦闘スーツではなく、フリルのついた肌触りの良いパジャマである。
「な、なにこれ……。私、どうして……」
「ローゼリアからの厳命です。**『育ち盛りの子供には、まず良質な睡眠と糖分を与えよ』**と。さあ、冷めないうちにどうぞ。あーん」
「あ、あーんって……私を子供扱いしないで! 私はユグドラシルの幹部で、あなたたちの命を……むぐっ!?」
抗議の声を上げようとしたアルティナの口に、リアンヌは躊躇なく甘いフレンチトーストを放り込んだ。
(……美味しい)
極限まで計算された栄養剤しか口にしたことのなかったアルティナの脳に、暴力的なまでの「美味しさ」と「温かさ」が押し寄せる。彼女は無意識のうちに、もぐもぐと口を動かしてしまった。
「ふふっ、良い食べっぷりですね。やはり私の見立て通り、あなたは甘いものが好きなのですね。ローゼリアとそっくりです」
「ち、違うわよ! これはただ、エネルギー補給として最も効率が良いと判断しただけで……!」
顔を真っ赤にして言い訳をするアルティナの頭を、リアンヌは優しく撫でた。
その手のひらの温もりに、アルティナの目頭が再び熱くなる。兵器として扱われてきた彼女にとって、この「無条件の優しさ」は、どんな激しい拷問よりも彼女の心を溶かしていく猛毒だった。
朝食(という名目の強制的な餌付け)を終えたアルティナは、リビングへと連行された。
そこでは、相変わらずスウェット姿のローゼリアが、巨大なモニターの前であぐらをかき、ゲームのコントローラーを握りしめていた。
「おお、起きたか小娘。ちょうど良いところに来たのじゃ」
「……何よ。私に、なんの用?」
アルティナが警戒しながら尋ねると、ローゼリアは手元にあったもう一つのコントローラーをポイッと放り投げた。
「このゲームの素材集めが面倒でな。お主、ユグドラシルの最高傑作で演算能力が高いんじゃろ? 妾の代わりに、一番効率の良い周回ルートを導き出して、レベル上げを手伝え」
「……はぁっ!?」
アルティナは、渡されたコントローラーを震える手で握りしめた。
「ふざけないで! 私は銀河の理を書き換えるために作られたのよ! なんでそんな、ただのゲームのレベル上げなんかに私の天才的な頭脳を……!」
「良いから座れ。ほれ、マルチプレイの画面じゃ」
強引に隣に座らされ、ゲームがスタートする。
アルティナは不承不承ながらも、画面に映る敵のステータス、ドロップ率、マップの構造を一瞬で解析した。
「……右のルートから敵を誘導して、このタイミングで範囲魔法を撃てば、0.5秒の短縮になるわ。そっちのアイテムは無視して、ボスに直行して。……ああもう、あなたの動きは無駄が多いのよ! 私がやるから見てなさい!」
「おお……! すごいぞアルティナ! 過去最高のクリアタイムじゃ! さすがは妾の娘、ゲームの才能に溢れておるな!」
「ゲームの才能じゃないわ! 戦術演算の応用よ!! ……あっ、でも次のマップは、水属性の武器に持ち替えた方が……」
数十分後。
そこには、ユグドラシルの冷徹な幹部としての面影を完全に失い、ローゼリアと肩を並べて画面に釘付けになりながら、真剣な顔でゲームをプレイするアルティナの姿があった。
(……おかしい。私は、あんなに彼女を憎んでいたはずなのに)
コントローラーのボタンを弾きながら、アルティナは自身の心境の変化に戸惑っていた。
ローゼリアは、怠惰で、わがままで、どうしようもない人間だ。でも、彼女の隣にいると、自分が「何者でなければならないか」というプレッシャーが、嘘のように消えていく。
「……ねえ」
「ん? なんじゃ」
「どうして、私を信じるの? 私はまだ、あなたたちを殺すようにプログラムされた存在かもしれないのに」
アルティナがぽつりとこぼした疑問に、ローゼリアは画面から目を離さずに答えた。
「プログラムなど知らん。お主が妾を殺したくなったらいつでもかかってくれば良い。妾が全部返り討ちにして、ついでに尻を叩いてやるわ。……だがな、アルティナ」
ローゼリアは、少しだけ真面目な声で続けた。
「お主はもう、自分の意思で『歌うことをやめた』んじゃろう? ならば、それで十分じゃ。お主の魂は、もう誰のプログラムにも縛られてはおらんよ」
その言葉に、アルティナは息を呑んだ。
自分は空っぽだと思っていた。だが、ローゼリアは、アルティナが「歌いたくない」と泣いたあの瞬間に、彼女の中にある「本当の意思」を見出していたのだ。
一方その頃。
銀河の暗黒星雲に隠された『ユグドラシル』本部では、冷酷な決断が下されようとしていた。
巨大なホログラム・テーブルを囲む幹部たちが、アルティナの生体データと、完全に途絶したハルファスの通信記録を見下ろしている。
「……被検体アルティナ・アスフィの精神波長が、我が結社の統制下から完全に逸脱した。オリジナルとの接触により、感情の不要なノイズが許容量を超えたと推測される」
「失敗作め。あれほどの時間と資源を投じながら、結局は『親』の情にほだされたか」
「廃棄処分を決定する。これより『プロジェクト・ラグナロク』をフェーズ2へ移行。——**『粛清部隊』**を出撃させろ」
幹部の一人が冷酷に言い放つ。
「目標は、エインヘリアル母艦。および、欠陥品アルティナ・アスフィの完全破壊。我が結社の技術の粋を集めた無人殺戮兵器群『フェンリル・シリーズ』を全機投入せよ」
暗闇の中で、無数の赤いカメラアイが一斉に光を放つ。
アルティナという「最高傑作」を失ったユグドラシルは、ついに手段を選ばない力による殲滅へと舵を切ったのである。
エインヘリアルの母艦のリビングで、アルティナがローゼリアと共に三つ目のダンジョンをクリアしたその時。
突如として、艦内にけたたましい第一級の戦闘警報が鳴り響いた。
『総員、直ちに戦闘配置につけ!!』
ブリュンヒルデの緊迫した声がスピーカーから響く。
『エインヘリアル周辺宙域に、所属不明の無人戦闘機群が多数ワープアウト! その数、およそ三千! 完全にこちらを包囲している!』
「……三千じゃと? 帝国の軍隊でもないのに、そんな数をどこから……」
ローゼリアがコントローラーを置き、面倒くさそうに立ち上がる。
しかし、アルティナの顔は青ざめていた。
その機体群の正体を、彼女は誰よりもよく知っていたからだ。
「……ユグドラシルの、『フェンリル』部隊。純粋な破壊のためだけに作られた、自律型の殺戮兵器よ」
アルティナは震える声で呟いた。
「私の……私の中の認識コードを追ってきたのね。私が裏切ったと判断して、私を、あなたたちごと消し去るために……」
恐怖と、強い罪悪感がアルティナを襲う。
自分のせいで、ようやく見つけた温かい場所が壊されてしまう。リアンヌが淹れてくれた紅茶も、ローゼリアと遊んだゲームの時間も、すべて自分の存在が引き寄せてしまった破滅によって消えようとしている。
「ごめんなさい……私のせいよ。私がここにいたら、あなたたちまで……っ」
アルティナがパジャマの裾を強く握りしめ、後退りしたその時。
純白の騎士が、静かに彼女の前に立った。
「何を怯える必要があるのですか、アルティナ」
リアンヌは、虚空から白銀の長槍を顕現させ、美しく、そして絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべた。
「あなたはエインヘリアルの客であり、私とローゼリアの大切な……その、娘です。親が子供を守るのに、理由など必要ありません」
「リアンヌ……」
「それにのう」
ローゼリアが、ポンとアルティナの肩に手を置いた。
「たかが三千の無人機ごときで、この『黒き死神』がどうにかなると思っておるのか? 妾の休日をこれ以上邪魔するようなら、世界樹だろうが宇宙の果てだろうが、根こそぎ燃やし尽くしてやるわ」
ローゼリアの周囲に、空間を軋ませるほどの圧倒的な漆黒の魔力が渦巻き始める。
その姿は、先ほどまでゲームで文句を言っていた怠惰なオタクとは別人の、銀河最強の存在そのものだった。
その背中を見て、アルティナの中の恐怖は、不思議と霧散していった。
代わりに湧き上がってきたのは、ユグドラシルのプログラムには存在しなかった、全く新しい感情。
**(……守りたい)**
自分が生み出された意味なんて、もうどうでもいい。
この、少しおかしくて、規格外に強くて、最高に温かい「家族」との日常を、絶対に終わらせたくない。
「……ローゼリア、リアンヌ」
アルティナは顔を上げ、紫色の瞳に強い光を宿して二人を見つめた。
「私にも、戦わせて。……ユグドラシルの操り人形としてじゃなく。**『私の意思』**で、この場所を守りたいの」
そのまっすぐな眼差しを受け、ローゼリアはニヤリと笑った。
「……良い覚悟じゃ。リアンヌ、こやつの機体『ハルファス』の修理は終わっておるな?」
「はい。動力系のバイパスを再構築し、いつでも出撃可能です」
「よーし。ならば行くぞ、エインヘリアルの新入り! 妾たちの平和な日常を取り戻すための、お掃除の時間じゃ!」
星詠みの歌姫から、死神の娘へ。
アルティナ・アスフィの本当の戦いが、今、エインヘリアルの戦乙女たちと共に幕を開けようとしていた。




