第百二十話:英雄の迷走と、連邦という名の巨大な病巣
イプシロン宙域での敗退は、連邦軍の若き英雄レオン・クライスにとって、耐えがたい屈辱であった。
旗艦アポロンの自室に籠もった彼は、鏡に映る自身の傷ついた顔を見つめ、激しく拳を壁に叩きつけた。
「なぜだ……なぜ、私が掲げる『正義』が、あの帝国の魔女の『私利私欲』に敗北する……!?」
レオンの心は、激しい自己矛盾に苛まれていた。
連邦軍内部から送られてくる戦況報告書には、自分たちが信じていたはずの「正義の進軍」の裏側が、赤裸々に綴られていたからだ。
連邦上層部が求めていたのは、旧帝国の人々を救うことでも、平和をもたらすことでもない。単なる旧帝国領の資源プラントの略奪、そして、自分たちの権力基盤を揺るがす「神帝機リヴァイアサン」の技術奪取と、その所有者であるローゼリアの抹殺のみ。
「嘘だ……そんなはずはない。上層部は、銀河の平和のために……!」
レオンの翡翠の瞳が、疑念で揺れる。
その時、部屋の扉がノックされた。入ってきたのは、連邦軍の軍事監察官——レオンの父親であり、軍部内でも最強の権力を持つクライス元帥の側近であった。
「レオン。イプシロンでの戦果、不満だぞ。なぜあの時、貴様は艦隊の全火力を集中して、あの死神を確実に仕留めなかった?」
「父上……。あの戦場には、帝国の軍艦だけでなく、多くの民間人の資源プラント労働者がいました。艦隊砲撃を行えば、彼らもろとも……」
「民間人? そんなものは『悪の軍勢の盾』にすぎん」
冷酷な言葉が、父の口から放たれる。
「良いか、レオン。我々連邦が勝てば、それが正義になる。そして、あの『死神』を討ち取った者が、新しい銀河の聖人となるのだ。お前は英雄としての責務を果たせ。それ以外は何も考えるな」
「……」
レオンは沈黙した。
彼が信じていた「連邦の正義」が、実は単なる「暴力の正当化」にすぎなかったという事実に、彼の正義感は悲鳴を上げていた。
父が去った後の部屋で、レオンは自分の胸に輝く『星十字勲章』を外した。その裏には、かつて彼が掲げた「銀河の守護」という誓いが刻まれている。しかし、今の彼には、その言葉が酷く冷たく、虚ろなものに感じられた。
一方、補給を終えたエインヘリアルは、静かな宙域で停泊していた。
広大な宇宙に浮かぶ、戦乙女たちの安息の地。
ラウンジのソファで、ローゼリアは最新のポータブルゲーム機を片手に、眉間に皺を寄せながら画面を見つめていた。
彼女は今、シリウス防衛戦で手に入れた戦利品(軍資金)を使って、ずっと欲しかった限定版のゲームソフトをクリアしようと必死になっていた。
「……くっ、このボス、第二形態で攻撃パターンが変わるのか! まったく、調整がなっておらんな!」
「ローゼリア。あまり画面に近づきすぎると、目が疲れてしまいます。さあ、こちらへ」
リアンヌが、淹れたてのハーブティーと、冷たいタオルを持って現れる。
彼女は手際よくローゼリアの肩を揉みほぐし、顔に冷たいタオルを当てて、眼精疲労をケアした。
「ああ……生き返るのじゃ……。リアンヌ、お主がいれば妾は一生ゲームをして暮らせる自信があるぞ」
「ふふっ。それは最高に嬉しいお言葉です。私はそのために、全宇宙の連邦軍を敵に回しているのですから」
リアンヌは幸せそうに微笑む。彼女にとって、この静かな時間は、戦場での血なまぐさい光景などどうでもよくなるほどの至福であった。
その隣で、ランドグリーズたちが酒を酌み交わしている。
「連邦の英雄様、次はどこで顔を出すッスかね。あの顔、絶対にお姫様に執着してるっスよ」
「ええ。英雄という名の、不器用な迷い子……。ああいうタイプは、追い詰められると何をしでかすか分かりませんわ」
ロスヴァイセの言葉は、的中していた。
イプシロン宙域の敗戦から、連邦軍内部では「英雄レオン」に対する不信感が芽生え始めていた。
そして、レオン自身もまた、自分が守るべき正義と、連邦という組織の腐敗した現実との間で、破滅的な一歩を踏み出そうとしていたのだ。
銀河を包む大戦の嵐は、個人の正義を飲み込み、より深い絶望へと向かって加速していく。
ローゼリアがゲームのセーブデータを書き換えている間にも、宇宙の運命は、取り返しのつかない破局の秒読みを始めていた。
イプシロン宙域での敗退以来、連邦軍の軍事監察官たちがレオン・クライス大佐を監視する目は、かつてないほど冷ややかなものになっていた。連邦軍総司令部は、彼の「英雄」としての名声を利用しつつも、その戦い方——民間人の安全を過剰に配慮し、帝国の魔女を追い詰めることを躊躇する態度を、「甘さ」として切り捨てようとしていたのである。
「レオン・クライス、貴様は我々の期待を裏切った。あの戦場において、なぜ民間の資源プラントを盾に取る悪魔の兵器を、全艦隊の砲撃で根絶やしにしなかったのか」
連邦軍の防衛会議において、上級将校たちがレオンを弾劾する。
レオンは背筋を伸ばし、翡翠の瞳に静かな怒りを宿したまま、あえて感情を殺して答えた。
「民間人を犠牲にしてまで得た勝利に、何の意味があるのですか? 我々が戦っているのは、銀河の平和と民主主義のためではなかったのですか?」
その言葉は、会議場に冷笑の渦を巻き起こした。
「平和と民主主義? 貴様、プロパガンダを真に受けているのか? 我々が戦っているのは、勢力圏の拡大と、エーベルヴァイン帝国が独占するエーテル資源の奪取だ。きれいごとは兵士の士気を高めるための餌にすぎん」
上層部の言葉は、レオンの胸に突き刺さる毒矢のようなものだった。彼の信じていた「正義」という名の城郭が、音を立てて崩れ去っていく。
もし、戦っている自分たちこそが真の侵略者だというのなら、自分は一体何のために多くの部下を死なせ、あの「死神」と対峙してきたのか。
会議を退出する際、レオンはすれ違いざまの士官たちが「あの英雄様も、そろそろ処分の対象だな」と囁き合っているのを耳にした。
彼はその夜、旗艦アポロンの独房に拘束された。理由は「独断専行による作戦失敗と、反逆の疑い」である。
一方、エインヘリアルでは、ローゼリアがまたしても頭を抱えていた。
事の発端は、オルトリンデが持ってきた「戦時経済」に関するレポートである。
「報告します。イプシロン宙域の戦いにより、資源プラントの一部が損傷。……ローゼリア様が予約していた限定版デバイスの製造ラインが、一時的にテロリストの爆破工作によって完全に停止しました」
「……あ?」
ローゼリアの周囲の気温が、氷点下二十度まで急落した。
彼女の愛機『タナトス』の魔力が、コックピットの中で制御不能な暴走を始め、格納庫の壁面に亀裂を走らせる。
「……誰じゃ。誰がやった。その爆破工作をしたのは、どこのどいつじゃぁぁぁッ!!」
「解析の結果、連邦軍が『帝国側の兵器供給源を断つ』という名目で行った無差別爆撃の余波だと思われます」
その言葉を聞いた瞬間、ローゼリアはブリッジに転がり込み、ブリュンヒルデの襟首を掴んだ。
「団長ぉぉぉっ!! 連邦を滅ぼす! 今すぐ奴らの本拠地に殴り込むぞ! 妾のデバイスを壊した奴らに、この世の終わりの恐怖を味合わせてやるッ!!」
「落ち着けッ! ……いや、落ち着かなくていい。今回の連邦の無差別爆撃は、中立星系のインフラすら巻き込んでいて、各地で暴動が起きている。連邦軍内でも、武力による制圧を恐れる派閥と、強硬派の対立が激化しているんだ」
ブリュンヒルデは、画面に映る銀河ニュースを見せた。そこには、連邦の圧政に苦しむ市民たちが、帝国軍ではなく「連邦軍」に対して抗議デモを行い、それを連邦軍が実弾で鎮圧する凄惨な映像が流れていた。
「……連邦は、内側から腐りかけている。あの英雄レオン・クライスが失脚したという噂もある。奴らが混乱すればするほど、無関係な一般市民や、我々のような商売人が割を食うんだ」
ローゼリアは、画面の中で泣き叫ぶ子供を見て、小さく息を吐いた。
彼女は限界オタクだが、冷酷な悪魔ではない。自分の娯楽が守られる範囲でなら、他者の平穏もまた尊重されるべきだと考えている。
「……リアンヌ」
「はい、ローゼリア」
後ろに控えていた純白の騎士が、いつものように甘く、しかし芯のある声で答える。
「戦争に、正義などないのかもしれんな。だが、妾たちのゲーム機を壊し、平穏を乱す屑どもを排除することには、多少の正当性があるはずじゃ」
「仰る通りです。ローゼリアが仰るのなら、それがこの銀河の唯一絶対の正義となります」
ローゼリアは操縦桿を強く握りしめた。
彼女は、レオンという「英雄」を討つことではなく、この腐りきった戦争そのものを終わらせるために、リヴァイアサンという「最終兵器」をいつ使うべきか、その重い決断を迫られていたのである。
独房の重厚な扉を、レオンはたった一撃で粉砕した。
彼は、自分を監視していた兵士たちを、殺さぬよう、しかし確実に気絶させて次々と倒していく。彼にはもう、守るべき「連邦」など存在しなかった。
「……私は、何のために戦っていたんだ」
廊下の向こうから、彼を追って警備兵が駆けつけてくる。
レオンは無言のまま、かつて「英雄の証」として授与されたアロンダイトの起動キーを取り出した。
「私は、私の正義を探す。たとえ、それが『悪魔』と呼ばれるあの娘と手を組むことであったとしてもだ」
連邦という巨大な病巣を切り裂くため、彼は一人、軍を脱走した。
彼が向かう先は、帝国側の重要拠点——ではない。彼が向かうのは、あの死神との「対話」だった。
銀河を揺るがす大戦は、連邦という組織の崩壊と、一人の英雄の変節により、誰も予想しなかった方向へと加速していく。
「ローゼリア・エーベルヴァイン……貴様とは、一度きちんと話さねばならん。我々がそれぞれ抱える『偽りの正義』についてな」
アロンダイトが漆黒の宇宙へと飛び立つ。
同じ頃、エインヘリアルのレーダーが、正体不明の機体——かつて自分たちを狙ったはずの英雄の接近を捉えていた。
「団長……変な反応がある。どうする?」
ブリュンヒルデはモニターを見つめ、苦い顔で胃薬を飲み込んだ。
「……来させてみろ。お姫様、お前がその『英雄』とどう向き合うか。それが、この銀河の結末を決めるのかもしれんな」
銀河の運命を左右する対話は、間もなく訪れる。
そしてそれは、物語の終焉に向けた、静かなるカウントダウンでもあった。
エインヘリアルの戦乙女たちは、その英雄を撃ち落とすのか、それとも——。
静寂に包まれた宇宙で、両者の距離が、少しずつ、しかし確実に縮まっていく。




