第百九話:決壊する胃袋と、夜のコロニーでの奇妙な連帯感
自由貿易コロニー『シャングリラ』の中央通りで起きたテロリスト騒圧事件から、数時間が経過した頃。
母艦エインヘリアルのブリッジは、重く、息苦しい沈黙に包まれていた。
団長であるブリュンヒルデのデスクの上には、三つの山が築かれていた。
一つは、コロニー運営委員会から送られてきた『中央通り半壊に伴う莫大な損害賠償請求書』。
もう一つは、同じく運営委員会からの『武装テロリスト集団鎮圧に対する報奨金と感謝状』。
そして最後の一つは、銀河連邦の監査局から届いた『エインヘリアル所属員の過剰防衛に関する始末書提出の要求』である。
「……」
ブリュンヒルデは、血走った目でそれらの書類を交互に睨みつけながら、手元にある特大の胃薬の瓶に手を伸ばした。
しかし、カラカラと虚しい音を立てるだけで、中身は一粒も出てこない。この数時間で、一ヶ月分の備蓄をすべて噛み砕いてしまったのだ。
「……限界だ」
ポツリと、ブリュンヒルデの口から地の底から響くような声が漏れた。
「限界だ。私の胃壁も、精神力も、忍耐も。……すべてが、キャパシティをオーバーした」
彼女はゆっくりと立ち上がると、無言のままブリッジを後にした。その背中からは、歴戦の傭兵たちでさえ道を譲るほどの、ドス黒い負のオーラが立ち昇っていた。
向かった先は、エインヘリアルの居住区画の最奥——黒き死神、ローゼリアの私室である。
その頃、ローゼリアは。
「ふはははっ! ついに手に入れたぞ、『スター・ギャラクシー・クエストV』限定特装版! さあ、今から四十八時間ぶっ通しでゲーム合宿の始まりじゃ! 誰にも邪魔はさせんぞ!」
コロニーで買ってきたばかりのゲームソフトを胸に抱き、ふかふかのベッドの上で歓喜の舞を踊っていた。死神としての威厳など欠片もなく、そこにあるのはただの限界オタク男子の無邪気な姿であった。
シュンッ。
自動ドアが開き、ブリュンヒルデがヌッと姿を現す。
「だ、団長? いかがした? 妾はこれから忙しく……ひゃんっ!?」
ローゼリアの言葉が終わる前に、ブリュンヒルデは無言で歩み寄り、ローゼリアの着ている漆黒のゴシックドレスの襟首を、まるで仔猫を摘み上げるかのようにガシッと掴んだ。
「付き合え」
「えっ? ちょ、まっ……ゲームが! 妾の限定特装版のインストールがァァァッ!」
ジタバタと暴れるローゼリアを引きずりながら、ブリュンヒルデは再び廊下へと歩き出す。生身の運動神経が絶望的なローゼリアに、歴戦の戦士である団長の腕力を振り解けるはずもない。
「団長!? お待ちください!!」
そこへ、騒ぎを聞きつけたリアンヌが血相を変えて飛んできた。
美しい金髪を振り乱し、サファイアのような碧眼を大きく見開いている。
「私の……私の愛しいローゼリアに何をするおつもりですか! そのように乱暴に扱えば、彼女の雪のように白い肌に痕が残ってしまうではありませんか! 今すぐその手を離し——」
「リアンヌ」
ブリュンヒルデが、ピタリと足を止め、振り返った。
その目に宿る、すべてを投げ打ったような虚無の光。普段の頼れる団長とは違う、本物の『ヤバい目』を見たリアンヌは、思わず息を呑んだ。
「今日、今この瞬間から明日の朝まで。お前をエインヘリアルの団長代理に任命する」
「……はい?」
「ブリッジの私のデスクに、今日の『お前たちが起こした騒動』の書類の山がある。損害賠償の相殺計算、始末書の作成、運営委員会への謝罪文。すべて、明日の朝までに完璧に終わらせておけ。一文字でも誤字があったら、タナトスの修理費用はお前の給料から天引きする」
「なっ……!? そ、そんな事務作業のために、私をローゼリアから引き離すというのですか!? お断りします! 私はローゼリアの絶対の護衛——」
「お前が一緒だと、私が休まらないんだよッ!!」
ブリュンヒルデの魂の叫びが、エインヘリアルの廊下に木霊した。
「私とお姫様の二人だけで、このコロニーでストレスを発散してくる! お前がついてきたら、また『ローゼリアの御前です!』とか言って街の半分を吹き飛ばしかねないだろうが! いいから黙って留守番をして、書類にハンコを押してろ!!」
その凄まじい気迫の前に、さしもの『冷槍の聖女』も言葉を失い、ビクッと肩を震わせた。
「行こうか、お姫様」
「ひぃぃぃぃっ! 団長が壊れたァァァッ! 助けてリアンヌゥゥゥッ!」
「ああっ、ローゼリア! 私のローゼリアァァァッ!!」
ブリュンヒルデにズルズルと引きずられていくローゼリアと、その背中に向かって悲痛な叫びを上げるリアンヌ。
引き裂かれる恋人たちのような(片方は完全に迷惑しているが)光景を残し、胃痛の限界を迎えた傭兵団長は、コロニーの夜の街へと消えていった。
自由貿易コロニー『シャングリラ』の地下歓楽街。
そこは、荒くれ者の傭兵や裏社会の住人たちが、日頃のストレスを金と暴力で発散するための様々な施設が立ち並ぶエリアである。
「だ、団長……ここは一体……?」
「合法的に暴れられる場所だ」
ブリュンヒルデがローゼリアを連れて入ったのは、『クラッシュ・セラピールーム』という看板が掲げられた薄暗い施設だった。
防音壁に囲まれた広い部屋の中には、廃棄された旧式の装甲車や、スクラップ同然の家具、ガラス瓶の山が無造作に置かれている。そして壁には、バール、スレッジハンマー、金属バットなどの物理破壊用ツールがズラリと並んでいた。
「金さえ払えば、時間内でここにあるものを好きなだけぶっ壊していいという、素晴らしい施設だ。……武器を持て、お姫様」
「いや、妾は生身じゃと金属バットすらろくに振れんのじゃが!?」
ローゼリアの抗議を無視し、ブリュンヒルデは自ら最も重いスレッジハンマーを軽々と肩に担ぎ上げた。
そして、目の前にある廃装甲車に向かって、渾身の力を込めてハンマーを振り下ろした。
**ガガァァァァァァンッ!!**
凄まじい金属音と共に、分厚い装甲がひしゃげ、火花が散る。
「どうしてっ!!」
ドゴォォォンッ!
「うちの連中はっ!!」
バキィィィンッ!
「誰も彼もっ!! 私の胃袋をっ!! 痛めつけるんだァァァッ!!」
メシャァァァッ!!
ハンマーが振り下ろされるたびに、装甲車が原型を留めないほどの鉄屑へと変わっていく。
その一撃一撃には、長年溜め込み続けた中間管理職としての悲哀と、規格外の部下たちに対する怨嗟の念がたっぷりと込められていた。
「特に! お前と! あの過保護な金髪騎士が! 一番の原因だァァァッ!!」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
自分に矛先が向いた瞬間、ローゼリアは部屋の隅で頭を抱え、ガタガタと震えながら平謝りした。
(団長がマジじゃ! ハンマーの風圧がここまで来てるんじゃが!? リアンヌゥ! お主のせいで妾までとばっちりを受けとるぞ!!)
三十分後。
部屋の中のすべてのオブジェクトを完全な塵へと変えたブリュンヒルデは、汗を拭いながら「……ふう。少しスッキリした」と、ようやく本来の落ち着きを取り戻した。
「さあ、次は飯だ。腹が減った」
ヘロヘロになったローゼリアの首根っこを再び掴み、ブリュンヒルデが次に向かったのは、歓楽街の路地裏にある大衆居酒屋だった。
高級なカフェやレストランではなく、油の匂いと煙が充満し、酔っ払いたちの怒号が飛び交う、いかにも『裏社会の底辺』といった風情の店である。
「おやっさん! 生ビール特大ジョッキと、激辛ホルモン炒め、それに串焼きを適当に三十本だ!」
「あいよォ!」
ベタベタするパイプ椅子に腰掛け、ブリュンヒルデは運ばれてきたジョッキを一気に半分ほど煽った。
「ぷはぁっ! 効く……空きっ腹と荒れた胃壁にアルコールが染み渡るぜ……」
「だ、団長、胃が痛いのにそんな刺激物とアルコールを摂取して大丈夫なのか……?」
ローゼリアは、自身の前に置かれた烏龍茶のグラスを両手で持ちながら、おずおずと尋ねた。
「いいんだよ。胃薬で無理やり抑え込むより、たまにはこうして毒を喰らって麻痺させた方がマシな時もある。……お姫様、お前も食え」
「う、うむ」
(……辛っ!? なにこのホルモン、火を吹くほど辛いんじゃが!?)
舌が痺れるほどの辛さに涙目になりながらも、ローゼリアは黙々と箸を進めた。
そこから先は、ブリュンヒルデの独壇場だった。
酒が進むにつれて、彼女の口からはとめどない愚痴が溢れ出した。
「お前なぁ、少しは自覚を持て。自分がどれだけ規格外のバケモノか。一歩も動かずに要塞の主砲を飲み込むとか、前代未聞にもほどがあるだろうが。連邦軍の諜報部から、うちの技術力を探る通信が毎日のように来てるんだぞ」
「す、すまん……」
「ランドグリーズは突っ走るし、ロスヴァイセは底意地が悪いし、オルトリンデは淡々としてるくせに請求書だけはキッチリ回してくるし……。そして何より、あのリアンヌだ! あいつの過保護っぷりは異常だぞ! 今日だって、お前の護衛だと言ってコロニーのメインストリートを半壊させやがって!」
ブリュンヒルデがジョッキをテーブルに叩きつける。
ローゼリアは、ただひたすらに烏龍茶を啜りながら、コクコクと頷き続けた。
実は、中身が限界オタク男子であるローゼリアは、前世での『社畜時代』に、上司の飲み会に付き合わされて愚痴を聞くというスキルを極めていたのである。
「さようですか。それは大変じゃな」
「うむ、団長の言う通りじゃ。彼らも少しは自重すべきじゃな」
「おお、そこを上手くまとめるのは、やはり団長の手腕あってこそじゃのう」
『さしすせそ(さすが、知らなかった、すごい、センスある、そうなんですね)』の法則を完璧に使いこなし、絶妙なタイミングで相槌を打ち、空いたジョッキにはすかさず次のお代わりを注文する。
「……お前、意外と聞き上手だな」
ブリュンヒルデは、五杯目のジョッキを傾けながら、ふと毒気を抜かれたような顔でローゼリアを見た。
「ふん。妾は死神じゃぞ。人の魂の声に耳を傾けるなど、造作もないことよ」
(ふぅ……前世で鍛えた接待スキルがこんなところで役に立つとはな。まあ、ヒモとして養ってもらっている身じゃし、これくらいはスポンサーへの奉仕としてやっておかんとな)
内心で安堵の息を吐くローゼリアであった。
居酒屋を出た後、二人は夜のコロニーのメインストリートを並んで歩いていた。
ネオンの光が、人工の夜空に毒々しく輝いている。
ブリュンヒルデの足取りはしっかりしていたが、その横顔は先ほどまでの怒りが嘘のように穏やかだった。
「……悪かったな、お姫様。休日のところを無理やり付き合わせてしまって」
「気にするな。たまにはこうして下々の者の生活を体験するのも、悪くない暇つぶしじゃ」
ローゼリアが腕を組み、精一杯の強がりで死神の威厳を保とうとする。
ブリュンヒルデは、そんな彼女を見てフッと笑った。
「お前がエインヘリアルに来てから、本当に毎日が騒動の連続だ。胃薬の消費量は跳ね上がるし、連邦やマフィアとの関係も綱渡りになるし……正直、頭を抱えることばかりだ」
「…………」
ローゼリアが気まずそうに目を伏せる。
「でもな」
ブリュンヒルデは、夜空を見上げながら静かに言葉を続けた。
「悪くない、とも思っているんだ」
「え?」
「お前が来る前のエインヘリアルは、ただ任務をこなすだけの、冷え切った傭兵の集まりだった。リアンヌなんて、それこそ『冷槍の聖女』の名の通り、誰にも心を開かない氷の彫像みたいだったからな。……それが今じゃ、あんなポンコツ過保護オカンになっちまったが」
「それは妾のせいではないぞ! あやつの本性が目覚めただけじゃ!」
「ははっ、違いない。ランドグリーズたちも、お前という規格外の存在に触発されて、以前よりずっと楽しそうに空を飛んでいる」
ブリュンヒルデは、立ち止まり、ローゼリアの赤い瞳を真っ直ぐに見下ろした。
「だから……まあ、なんだ。これからも、うちの看板として好きに暴れてくれ。その後始末をするのが、団長である私の仕事だからな」
それは、普段は口うるさい苦労人の団長が、初めて見せた本音のデレであった。
(……この人、本当に良い上司じゃな)
ローゼリアは、柄にもなく胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「ふん。大船に乗ったつもりでいるがよい。妾の力があれば、この銀河の覇権を握ることも——」
「ただし、タナトスの修理代と今日の損害賠償の半分は、お前の給料から引いておくからな」
「前言撤回じゃ! やはりお主は鬼じゃァァァッ!!」
コロニーの夜に、黒き死神の情けない悲鳴が響き渡った。
「……終わりました。損害賠償の相殺計算、完了。監査局への始末書、完了。運営委員会への謝罪と報奨金の交渉、すべて完了です」
母艦エインヘリアルのブリッジ。
リアンヌ・ヴァーミリオンは、デスクに積まれていた書類の山を、常人では考えられないほどの超高速で処理し終えていた。
その美しい金髪は少し乱れ、サファイアの瞳には血走った狂気が宿っている。
「ローゼリア……ああ、私のローゼリア。今頃、団長と二人きりで何をされているのでしょうか。あの薄汚いコロニーの空気に当てられて、体調を崩してはいませんか? いえ、それ以上に……お酒の勢いに任せて、団長がローゼリアの美しいお身体に無礼を働いていたら……ッ!」
ギリィッ、とリアンヌの手の中で、チタン製のペンがひしゃげた。
「許せません。ローゼリアのすべては、この私のもの。たとえ団長であろうと、指一本触れさせるわけにはいきません!」
リアンヌは猛然と立ち上がると、エインヘリアルのメインハッチへと向かい、そこで正座をして二人の帰還を待ち構えた。
——数十分後。
ウィィィン、とハッチが開き、少し千鳥足のブリュンヒルデと、それに手を引かれたローゼリアが帰還した。
「ふぅ……やはり母艦の空気が一番落ち着くのう。団長、今日は——」
「おかえりなさいませ!! ローゼリアァァァッ!!」
「ひゃうっ!?」
言葉を終える前に、弾丸のような速度で突撃してきた金髪の美少女に、ローゼリアは激しく抱きしめられた。
「ああっ! ご無事で何よりです! 私がいない間に、寂しい思いをさせて申し訳ありませんでした! さあ、私の胸でたっぷりと甘えて——」
リアンヌがローゼリアの金髪に顔を埋めようとした、その瞬間。
彼女の動きが、ピタリと止まった。
「……ん?」
「ど、どうした、リアンヌ?」
リアンヌは、スンスンと鼻を鳴らし、ローゼリアの首筋から服の匂いを嗅ぎ始めた。
「……煙草の匂い。油っこい料理の匂い。アルコールの匂い……。そして何より……」
リアンヌの碧眼が、スーッと細められ、絶対零度の冷気を放ち始める。
「ローゼリアの純粋無垢な香りに混じって、団長の匂いがべっとりと染み付いていますね……?」
「えっ!? い、いや、これはただ狭い居酒屋で隣に座っていただけで……!」
「許せません。私の愛しいローゼリアが、他の人間の匂いに汚染されるなど……万死に値します!」
リアンヌは、ローゼリアを軽々と『お姫様抱っこ』で抱き上げると、恐ろしいほどの笑顔(ただし目は笑っていない)を浮かべた。
「すぐにお風呂です、ローゼリア! 私が全身の隅々まで、毛穴の奥まで、くまなく洗浄して、私の匂いで上書きして差し上げます!!」
「ひぃぃぃぃぃぃっ!! だ、団長! 助けてくれェェェッ!」
ローゼリアは、助けを求めてブリュンヒルデに手を伸ばした。
しかし。
「……私は疲れた。寝る。おやすみ」
「見捨てないでェェェェェェッ!!」
ブリュンヒルデは、無慈悲に背を向け、自室へと歩き去っていった。
少しだけ芽生えた上司と部下の奇妙な連帯感は、金髪碧眼の騎士の狂気的な嫉妬の前にはあまりにも無力であった。
「さあ、ローゼリア! 朝までたっぷり、浄化の時間を楽しみましょうね!」
「いやじゃああああああっ!!」
自由貿易コロニー『シャングリラ』の夜は更けていく。
圧倒的な力で星の海を震え上がらせる黒き死神は、今宵もまた、絶世の美少女からの逃げ場のない重すぎる愛の海に溺れ、平和なヒモ生活から遠ざかっていくのであった。




