第百二話:白銀の人たらしと、抗えぬ甘美な名前の響き
副団長室での『暴走する愛のシンドローム』事件から数日後。
母艦エインヘリアルの中で、ある明確な『変化』が起きていた。
黒き死神ローゼリアの私室。
ふかふかの絨毯の上に置かれたアンティーク調の長椅子で、ローゼリアはデータ端末を片手に、次の任務の資料を眺めていた。
そこへ、静かな足音と共に白銀の騎士が現れる。
「ローゼリア。少し目を休めませんか? あなたのお好きな、星屑ベリーのタルトを焼いてまいりました」
「おお、ご苦労……」
振り返ったローゼリアは、思わず言葉を失った。
ティーワゴンを押して微笑むリアンヌの姿が、以前とは明らかに『違っていた』からだ。
これまでのリアンヌは、ローゼリアを前にすると、どこか忠誠心と過保護さが空回りして、一人で赤面したり鼻息を荒くしたりする「暴走気味のオカン(あるいは狂犬)」であった。
さらに、主従の境界線を守るように、頑なに『姫君』という呼称を崩さなかった。
しかし今の彼女は、そのドス黒いまでの重い愛と独占欲を【完璧なまでにコントロール】し、洗練された微笑みの奥に隠し持っている。
かつて、一切の感情を見せない『冷槍の聖女』と呼ばれながらも、その不器用な優しさと圧倒的なカリスマ性で荒くれ者の傭兵たちをまとめ上げてきた、リアンヌ・ヴァーミリオン。
彼女の真の恐ろしさは、その槍の腕前だけではない。息をするように他者の懐に入り込み、心酔させてしまう【天性の人たらし】という才能にあった。
そして今、自身の感情を隠すことを完全にやめ、「合法的に愛しい主をオトす」と決意した白銀の騎士は、その『人たらし』の才能を100パーセント解放し、あえて距離を詰めるように名前で呼び始めたのである。
「さあ、ローゼリア。どうぞ」
リアンヌは、ローゼリアの隣に腰を下ろすと、タルトを一口大に切り分け、フォークで優しく差し出した。
その所作は流れるように美しく、サファイアのような碧眼は、とろけるような甘い熱を帯びてローゼリアの赤い瞳を真っ直ぐに見つめている。
「あ、うむ……あーん(な、名前で呼ばれた!?)」
パクリ、とタルトを口に含むローゼリア。
その瞬間、リアンヌの白く滑らかな指先が、ローゼリアの頬にそっと触れた。
「んゅ?」
「……ふふっ。美味しいですか? あなたの長くふわふわとした美しい金髪に、少しクリームがついてしまいそうでしたから」
リアンヌは、極上の微笑みを浮かべながら、ローゼリアの金髪を優しく耳にかけ、そのまま彼女の頬から首筋にかけて、羽で撫でるように指を滑らせた。
(————ッ!? な、なんじゃこの破壊力は!?)
ローゼリアの心臓が、ドックン! と大きく跳ねた。
今までの「過剰なスキンシップ」とは違う。力任せのハグでも、むせ返るような重いオーラでもない。
ただひたすらに甘く、優しく、そして逃げ場のないほどに『雄み』の強い、洗練された誘惑のアプローチ。
「り、リアンヌ……。お主、なんか今日、やけに……その……」
「やけに?」
リアンヌは、首をこてんと傾け、ローゼリアの顔を下から覗き込んだ。
長いまつ毛に縁取られた碧眼が、潤んだように輝いている。
「ローゼリアのそばにいると、私はどうしても……心が満たされて、自然と笑みが溢れてしまうのです。あなたは、私のこの笑顔……お嫌いですか?」
「き、嫌いなわけないじゃろ! むしろ国宝級じゃ!」
「ああ……嬉しい。世界で一番愛しい方にそう言っていただけるなんて、私は銀河で一番の果報者ですね」
リアンヌは吐息混じりに甘く囁くと、ローゼリアの手を取り、その手の甲に恭しく、しかし熱を込めた口づけを落とした。
チュッ、という小さな音が、静かな私室に響く。
「ひゃうっ……!」
ローゼリアの顔が、瞬く間に自身の赤い瞳と同じくらい真っ赤に染まった。
(あ、あかん! これはあかんやつじゃ! 中身が健全なオタク男子とはいえ、絶世の美女からこんな百合ルート(あるいは乙女ゲームのトゥルーエンド)ばりの猛烈なアプローチを受けたら、理性が保たん!)
限界オタクであるローゼリアの脳内処理能力は、リアンヌの『天性の人たらし』スキルの前には無力だった。
彼女の甘い声、完璧なタイミングでのボディタッチ、そして「あなただけを深く愛しています」という絶対的な肯定感。それは、自己肯定感の低いオタクにとって、致死量の劇薬である。
「ねえ、ローゼリア」
リアンヌは、ローゼリアの手を握ったまま、さらに距離を詰めてきた。
二人の顔が、お互いの吐息がかかるほどの至近距離で見つめ合う。リアンヌの甘いアロマの香りが、ローゼリアの思考をフワフワと麻痺させていく。
「昨夜は、遅くまで資料をご覧になっていたのでしょう? 目元に少し、お疲れが出ているようです。……どうか、私に甘えてください。ローゼリアの重荷は、すべて私が半分背負いますから」
「……りあ、んぬ」
「もっと、私を頼ってください。もっと、私に触れてください。……ローゼリアのすべてを、私に預けてほしいのです。これからは、二人きりの時も、皆の前でも……こうして愛を込めて、名前で呼ばせてくださいね」
その言葉と共に、リアンヌの腕がローゼリアの細い腰に回り、優しく、しかし決して逃がさない強さで抱き寄せられた。
リアンヌの柔らかな胸の感触と、規則正しい心音。そして、耳元で囁かれる甘い愛の言葉の数々。
(————ああ、もう、ダメじゃ……)
ローゼリアは、必死に保とうとしていた『気高き死神』の仮面が、ドロドロに溶け落ちていくのを感じていた。
最初は「ヤンデレ彼氏みたいでヤバい!」と怯えていたはずだった。
しかし、こうして理性を保ち、洗練されたアプローチで優しく包み込まれてみると……正直なところ、**全く満更ではなかった。**
(……むしろ、最高に気持ちいいんじゃが。絶世の美少女にここまで愛され、甘やかされるなんて、前世でどれだけ徳を積めば許されるんじゃ? これが『ヒモ』の行き着く究極の境地……! 妾、もう一生この腕の中から出たくない……っ)
限界オタクの魂は、あっさりと白銀の人たらしによって陥落した。
ローゼリアは、抵抗するのを完全にやめ、自身の長くふわふわした金髪をリアンヌの胸元に擦り寄せるようにして、その腕の中にすっぽりと収まった。
「……なら、もう少しだけ、こうしておる。……お主の匂い、落ち着くんじゃ」
顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、リアンヌの服の裾をキュッと握りしめるローゼリア。
「——ッ!」
その瞬間、リアンヌの背中で、見えない尻尾が千切れるほどの勢いで振られる音がした(ような気がした)。
「……ええ。ええ! もちろんです、私の愛しいローゼリア! このまま何時間でも、何日でも! 私の腕の中でゆっくりとお休みください……ッ!」
リアンヌの口調が一瞬だけ素の『限界過保護』に戻りかけたが、彼女は驚異的な精神力でそれを抑え込み、再び極上のイケメンボイスで優しくローゼリアの背中をポンポンと叩き始めた。
(勝った……! ついに私は、ローゼリアの理性の壁を打ち崩したのです! ああ、なんという幸福! なんという至悦! この『人たらし』の才能を親から授かって、今日ほど感謝した日はありません!!)
内心でガッツポーズを決め、歓喜の涙を流さんばかりのリアンヌ。
そして、その甘い罠にすっかり絡め取られ、フワフワと心地よい気分で目を閉じるローゼリア。
「……おい。あの部屋のモニター、もう切っていいか? アタシ、なんか見てて全身に蕁麻疹が出そうなんスけど」
エインヘリアルのブリッジ。
ローゼリアの部屋の監視カメラ映像を見ていた長女のランドグリーズが、自身の腕をさすりながらげんなりとした声を上げた。
「完全に手玉に取られてますね、お姫様。リアンヌさんが本気で『落とし』にかかったら、あのチョロいお姫様が抗えるわけがありません」
次女のロスヴァイセが、呆れたようにカクテルグラスを揺らす。
「お姫様の脳波、完全にリラックス状態……というか、アルファ波が出まくって溶けかけています。リアンヌさんの作戦勝ちですね」
三女のオルトリンデも、タブレットを操作して映像のウィンドウをそっと閉じた。
「……お前ら、次の寄港地に着いたら、最高級の胃薬を箱買いしておけ。私の一生分の胃薬だ」
ブリュンヒルデ団長は、真っ白に燃え尽きた顔で天井を仰ぎ見ていた。
かくして。
『気高き死神』と『冷槍の聖女』の奇妙な主従関係は、リアンヌの天性の人たらしスキルによって、完全に【甘やかされる死神と、すべてを支配する伴侶】という、底なしの甘い沼へと変貌を遂げたのであった。




