第百一話:白銀の密室と、すれ違う死神の心配
母艦『エインヘリアル』の専用ラウンジ。
先ほどまで、スプーンに乗せられた特製ハーブスープを口まで運んでもらうという、極上の(そして羞恥心に満ちた)甘やかしタイムを堪能していたローゼリアは、たった一人で豪華なソファに取り残されていた。
目の前のローテーブルには、まだ温かいスープが入った皿と、リアンヌが慌てて立ち上がった際に少しだけこぼれた水滴が残っている。
「……なんじゃったんじゃ、今の」
ローゼリアは、自身の長くふわふわとした金髪を指先でくるくると弄りながら、ぽつりと呟いた。
その赤い瞳には、明らかな困惑の色が浮かんでいる。
団長ブリュンヒルデの『お前らは新婚夫婦か』という、呆れ果てたツッコミ。
いつもであれば、「姫君のためですから」と涼しい顔で、むしろ誇らしげに胸を張って言い返すはずのリアンヌが、なぜか顔を真っ赤にして、茹でダコのように激しくどもりながら逃げ出してしまったのだ。
「……まさか、本気で怒ってしまったのか……?」
限界オタクであるローゼリアの脳内コンピューターが、先ほどのリアンヌの反応を必死に解析し始める。
(リアンヌは、真面目で厳格な『冷槍の聖女』じゃ。妾のお世話をしてくれるのは、あくまで『主君への忠誠』と『騎士としての職務』という大義名分があってこそ。……それなのに、団長に『新婚夫婦のイチャイチャ』などと不純なからかわれ方をしたせいで、彼女の気高い騎士道精神を深く傷つけてしまったのではないか!?)
ローゼリアは、ハッとしてソファから立ち上がった。
(そうじゃ! きっとそうに違いない! 妾のようなポンコツな主君のお世話をするだけでも苦労をかけているのに、その上、夫婦などという冗談を言われて、プライドがズタズタになってしまったんじゃ! だからあんなに顔を赤くして……あれは照れではなく、怒りと屈辱で顔を赤くしていたんじゃ!)
中身が鈍感なオタク男子であるローゼリアは、リアンヌの限界突破した乙女のデレ(暴走する愛)を、見事に『騎士としての怒りと屈辱』だと完全に勘違いしてしまった。
「こ、これはマズいぞ……! リアンヌの機嫌を損ねてしまったら、妾のこの快適なヒモ生活……もとい、安全な艦内生活が脅かされてしまう! それに、あんなに優しくしてくれるリアンヌに嫌われるのは、普通に辛い……っ!」
居ても立っても居られなくなったローゼリアは、残っていたスープを一気に飲み干すと、慌ててラウンジを飛び出した。
目指すは、先ほどリアンヌが逃げ込んでいったであろう、彼女の個室——副団長室である。
母艦エインヘリアルの居住ブロックは、上位の幹部になるほど奥まった静かなエリアに配置されている。
黒き死神として恐れられるローゼリアが、フリルのついた漆黒のドレスを翻しながら早足で廊下を歩いていくと、すれ違う整備兵や一般の傭兵たちは、慌てて壁際に寄って敬礼をした。
「(……いかんいかん、妾は気高き死神。焦っている姿を羽虫どもに見せるわけにはいかん)」
内心では「リアンヌ様に嫌われたらどうしよう!」と半泣きになりながらも、表面上はツンと澄ました冷徹な表情を作り、ローゼリアは優雅な足取りで副団長室の前へと辿り着いた。
分厚い金属製の自動ドア。その横にあるインターホンのパネルを見つめ、ローゼリアはごくりと生唾を飲み込んだ。
(よし……。まずは団長の無礼を妾から謝罪し、お主の忠誠は深く理解しておると伝えるんじゃ。そうすれば、真面目なリアンヌのことだ、きっと機嫌を直してくれるはず……!)
意を決して、ローゼリアはインターホンのボタンを押した。
ピンポーン。
静かな電子音が鳴り響く。
しかし、十秒待っても、二十秒待っても、中からの返事はない。
「……リアンヌ? 妾じゃ、ローゼリアじゃ。少し、入ってもよいか?」
ドア越しに声をかけてみるが、やはり反応はない。
しかし、ローゼリアの優れた魔力感知能力(と、限界オタク特有の推しに対する嗅覚)は、ドアの向こう側から、尋常ではないレベルの魔力が漏れ出しているのをはっきりと感じ取っていた。
(……おかしい。中にいるのは確実じゃ。それに、なんだこのドス黒い……いや、やけに甘ったるいピンク色の魔力の気配は。……まさか、怒りのあまり部屋の中で暴れておるのか!? それとも、魔力暴走を起こして倒れているとか!?)
最悪の事態を想像してしまったローゼリアは、血の気が引くのを感じた。
「リ、リアンヌ! 返事がないなら、マスター権限で開けるぞ! 非常事態じゃ!」
ローゼリアは、自身の端末をドアのパネルに叩きつけ、強制解錠のパスコードを入力した。
ウィィィィン……という重々しい音と共に、分厚いドアがゆっくりとスライドして開いていく。
「リアンヌ! 大丈夫か——ッ!?」
部屋の中に飛び込んだローゼリアの目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景であった。
「————ひゃわっ!?」
部屋の中央。
キングサイズのベッドの真横で、リアンヌは両手で何かを抱きしめたまま、信じられないほど奇妙な姿勢でフリーズしていた。
その顔は、先ほどラウンジで見た時よりもさらに赤く茹で上がっており、目には涙が浮かび、口からは魂が抜け出しかけているような、アホっぽい声が漏れていた。
そして、ローゼリアが最も驚愕したのは、部屋の中の【環境】であった。
「な、なんじゃこの部屋は!? サウナか!?」
むわぁっ……と。
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、ローゼリアは強烈な熱風と、むせ返るような甘いアロマの香りに襲われた。
リアンヌの体から無意識に放出された過剰な魔力が熱に変換され、部屋の温度を異常なまでに引き上げていたのだ。
「ひ、姫君……ッ!? な、ななな、なぜここに!? い、今、ドアのロックはかかっていたはず……ッ!」
「返事がないからマスター権限で開けたんじゃ! それより、お主、その格好とこの部屋の熱気は一体……」
リアンヌは、はっと我に返ると、抱きしめていた『何か』を、目にも留まらぬ神速で自身の背後——開いていたクローゼットの中へと放り投げ、バタンッ! と扉を閉めた。
「な、なんでもありません! なんでもありませんよ姫君! 少々、その、次回の作戦におけるシミュレーションを頭の中で行っていたところ、熱が入りすぎてしまいまして……っ! そ、それより、このようなむさ苦しい部屋に姫君をお通しするわけには! 今すぐ空調を最強にして、紅茶を淹れてまいりますので、ラウンジでお待ちを!」
リアンヌは両手をバタバタと振って必死に誤魔化そうとするが、その声は上擦り、目は泳ぎまくっている。
そして何より、彼女の背後にあるベッドのシーツは、まるで大型の猛獣が暴れ回ったかのように、ぐちゃぐちゃに乱れていた。
ローゼリアは、赤い瞳を細めた。
(……おかしい。いくら真面目なリアンヌでも、作戦のシミュレーションだけでここまで取り乱すはずがない。それに、あのベッドの乱れよう……。まさか、妾の想像以上に、団長の『新婚夫婦』という言葉に傷つき、部屋で一人泣き叫んで暴れていたというのか……!)
ローゼリアの胸が、ズキンと痛んだ。
自分のせいで(正確には団長のせいだが)、この気高く美しい騎士を、ここまで追い詰めてしまったのだと。
「……リアンヌ」
ローゼリアは、静かに、しかし威厳のある足取りでリアンヌに歩み寄った。
「ひぃっ! ひ、姫君、そんなに近づかないでください! 今の私は、今の私の頭の中は、姫君に見せられないような邪な……いえ、その、汗ばんでいて不衛生ですので!」
後ずさるリアンヌだが、ローゼリアは構わず距離を詰め、彼女の逃げ場を塞ぐように壁ドン(正確には身長差があるので、ローゼリアの手はリアンヌの胸の高さくらいにしかならないが)をした。
「……無理をするな。妾には分かっておるぞ」
「わ、分かっている……!? 姫君が、私のこの、隠しきれないドス黒い妄想と独占欲にお気づきになられたと……!?」
リアンヌが絶望の表情を浮かべ、膝から崩れ落ちそうになる。しかし、ローゼリアは彼女の両肩をガシッと掴み、真剣な瞳で見つめ上げた。
「さっきのラウンジでのことじゃろう? 団長のあの無礼な言葉……。お主の気高い騎士としてのプライドを傷つけてしまったこと、妾からも謝罪する。すまなかった」
「……へ?」
リアンヌの動きが止まる。
「お主が妾のために尽くしてくれているのは、すべて『騎士としての絶対の忠誠』ゆえのこと。それを、あのように不純な……新婚夫婦などという茶化し方をされて、お主が激怒するのも無理はない。部屋で一人、荒れたくなる気持ちも分かるぞ」
「あ、荒れた……? 激怒……?」
リアンヌの頭に、はてなマークが浮かぶ。
「だから、安心せい。お主の忠誠心は、誰よりもこの妾が一番理解しておる。お主は妾の『オカン』でもなければ、『新婚の伴侶』などでもない。……世界でただ一人、妾が背中を預けるに足る、最高で無二の『騎士』じゃ」
ローゼリアは、自身の長くふわふわした金髪を揺らしながら、最高にクールで気高い(と自分では思っている)微笑みを浮かべた。
「だから、もうあんな言葉は気にするな。……お主のその美しい顔には、困惑や怒りなど似合わん。自信に満ちた、いつもの涼やかな笑顔を見せてくれ」
——静寂。
異常な熱気に包まれた副団長室に、沈黙が降り下りた。
ローゼリアの言葉を聞いたリアンヌは、口を半開きにしたまま、瞬きもせずにローゼリアを見つめていた。
(……どうじゃ? 完璧なフォローじゃろう! 騎士としての彼女の存在意義を全力で肯定し、あまつさえ『最高で無二』とまで言い切った! これでリアンヌの機嫌も直り、再び平穏な日々が……)
「……ふふっ。あははっ……」
突如、リアンヌの口から、低く、押し殺したような笑い声が漏れた。
「り、リアンヌ……?」
「ああ……。ああ、姫君。あなたは……あなたは本当に、どこまで私を狂わせれば気が済むのですか」
リアンヌがゆっくりと顔を上げる。
そのサファイアのような碧眼は、怒りでも悲しみでもなく——ドロドロに溶け出した、極上の蜂蜜のような、狂気的なまでの【愛と歓喜】に満ち溢れていた。
「へっ?」
「姫君は、私のこの醜い心を、すべてお見通しだったのですね。……私が団長の言葉に動揺し、一人で苦しんでいたことを。そして、それを『騎士としての怒り』という優しい言葉で包み込み、私の逃げ道を用意してくださった……!」
(ち、違う! 全然違うぞ! 妾は本気でそう思って言っただけじゃ!!)
ローゼリアの背筋に、冷たい汗が流れる。
「その上! 『世界でただ一人、背中を預けるに足る最高で無二の存在』だなんて……ッ! そんな、そんなプロポーズまがいの殺し文句を、こんな密室で、こんなにも無防備な上目遣いで放たれるなんて……ッ!!」
「プ、プロポーズ!?」
リアンヌの身体から、先ほどまでとは比にならないレベルの、超高濃度のピンク色の魔力オーラが大爆発を起こした。
部屋の温度がさらに急上昇し、置いてある観葉植物が急成長し始めるほどの異常事態。
「姫君のその海よりも深い御心、しかと受け止めました! ええ、そうです! 私はあなたの騎士! 伴侶でもオカンでもなく、あなたのすべてをお守りし、あなたのすべてを管理し、あなたのすべてを私の瞳に焼き付ける、ただ一人の『絶対の盾』です!」
リアンヌは、ローゼリアの肩を掴んでいた手をそっと払い、逆にローゼリアの細い腰に腕を回して、彼女をぐいっと自身の身体へと引き寄せた。
「ひゃうっ!?」
「ですが……『最高で無二』と言ってくださったからには。これからは、今まで以上に、一分一秒たりとも姫君のそばを離れるつもりはありませんからね。……ええ、お風呂の中も、トイレの前も、そしてベッドの中でも。……騎士として、完璧な護衛を遂行させていただきます」
リアンヌの顔が、ローゼリアの顔の数センチの距離まで近づく。
その瞳の奥には、もはや隠す気すらない、重すぎる愛と独占欲が渦巻いていた。
「ま、待てリアンヌ! 近い! 距離感がバグっておる! そして部屋が暑い! 息が苦しいんじゃが!!」
「大丈夫です、姫君。息が苦しいのなら、私が人工呼吸をして差し上げます。……さあ、その愛らしい唇を」
「ひぃぃぃぃぃぃッ!! 助けて団長ォォォォォッ!!」
——かくして。
ローゼリアの不器用な(そして完全に的外れな)気遣いは、リアンヌの暴走する愛のシンドロームにさらなる燃料を投下する結果となった。
「新婚夫婦」という言葉の呪縛から解き放たれ(都合よく解釈し)、『無二の騎士』という最強の大義名分を手に入れた白銀の狂犬は、もはや誰にも止められない。
母艦エインヘリアルの奥深く。
異常な熱気を放つ副団長室から響き渡る、黒き死神の情けない悲鳴と、白銀の騎士の恍惚とした笑い声は、今日も戦乙女たちの平和(?)な日常のBGMとして、星の海へと溶けていくのであった。




