第百話:白銀の騎士の密室と、暴走する愛のシンドローム
母艦エインヘリアルの無機質な金属の廊下を、ただひたすらに駆け抜ける。
普段であれば、傭兵団『戦乙女』の副団長としての威厳を保つため、いかなる緊急時であろうとも廊下を走るなどという無作法な真似は絶対にしない。背筋をピンと伸ばし、冷ややかな視線を前方に据え、靴音すらも正確なリズムを刻んで歩くのが『冷槍の聖女』たるリアンヌ・ヴァーミリオンの日常であった。
しかし、今の彼女にそんな余裕は一ミリ、いや、一ミクロンたりとも残されていなかった。
「はぁっ……はぁっ……! うぅっ……!」
自身の個室である副団長室へと向かう道中、すれ違う整備班の団員たちが「ふ、副団長!? どうされたんですかその顔!?」と驚愕の声を上げて道を譲っていくが、リアンヌはそれに答えることすらできなかった。
彼女の白く美しい顔は、まるで高熱を出したかのように首の根元から耳の先まで真っ赤に茹で上がっており、サファイアのような碧眼はぐるぐると行き場をなくして泳いでいる。そして何より、彼女の全身からは、隠しきれない【猛烈なピンク色の魔力オーラ】が、蒸気のようにプシューッ! と吹き出していたのである。
(逃げなければ! 今すぐ、誰の目にも触れない場所へ、私一人きりになれる密室へ逃げ込まなければ……! このままでは、私の内側から湧き上がるこの得体の知れない熱で、私の理性も、騎士としての誇りも、すべてが焼き尽くされてしまう……ッ!)
バンッ!
自身の部屋の前に辿り着くなり、リアンヌは生体認証パネルに乱暴に手を押し当て、自動ドアが完全に開き切る前に滑り込むように部屋の中へと飛び込んだ。そして、背後のドアが閉まり、ロックがかかった音を確認した瞬間。
ズルズルズル……。
リアンヌはドアに背中を預けたまま、まるで糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
冷たい金属の床にへたり込み、両手で自身の真っ赤な顔を覆い隠す。
「ああ……あああ……っ」
防音性の高い密室の中に、リアンヌの震えるような、泣き出しそうな、それでいてどこか甘く熱を帯びた吐息だけが響き渡る。
「私としたことが……。私としたことが、なんという醜態を……ッ。あんな、あんなに取り乱して、姫君の前で顔を真っ赤にして逃げ出すだなんて……。騎士として、いや、一人の大人として、到底許されることではありません……ッ」
言葉では自分を責め立てているものの、彼女の脳裏にリフレインしているのは、団長ブリュンヒルデが放ったあの一言であった。
(——『おい。朝からラウンジで何をイチャついている。お前らは新婚夫婦か』)
「……し、新婚、夫婦」
リアンヌの口から、熱を帯びた、とろけるような声が漏れる。
その四文字の言葉は、今のリアンヌにとっては致死量の猛毒であり、同時に、魂を天国へと導く究極の麻薬であった。
「姫君と、私が……新婚夫婦。ふうふ。伴侶。パートナー。一生を共に添い遂げる、特別な存在……」
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ。
リアンヌの心臓が、肋骨を突き破らんばかりの勢いで激しく警鐘を鳴らす。
「ダメです! ダメですダメです! 私のようなただの騎士が、気高く美しい姫君と夫婦だなんて……っ! 恐れ多すぎます! しかし……しかし……ッ!」
リアンヌは床を這うようにして部屋の中央にあるキングサイズのベッドへと向かい、そのままシーツの上へと顔面からダイブした。
純白の高級シーツに顔を埋めながら、手足をバタバタと激しく動かし、ベッドの上で悶え苦しむ。シーツがくしゃくしゃになり、枕が宙を舞うが、そんなことはもうどうでもよかった。
「姫君は私にすべてを委ねてくださっている! スープを飲むそのお姿も、髪を撫でさせてくださるその信頼も! それは騎士としての特権であり、私の至上の喜び! なのに、団長があんな言葉を言うから……っ! 『新婚夫婦』だなんて、一度意識してしまったら、もう元の『ただの忠義に厚い騎士』の目線に戻れるわけがないじゃないですかぁぁぁッ!!」
リアンヌの部屋の室温が、彼女の放つ熱気と魔力によって急上昇していく。
環境センサーが異常を感知し、「ピーッ、ピーッ、警告。室温が異常上昇しています」と無機質なアナウンスを流すが、今のリアンヌの耳には全く届いていない。
ひとしきり暴れ回った後、リアンヌはベッドの上で丸くうずくまり、ハァハァと荒い息を吐きながら、自身の手のひらを見つめた。
今朝、ローゼリアの肩を抱いた手。
微かに残る、彼女の甘い匂い。
「この感情は、隠さなければならない。私は騎士。……表向きは、絶対にこの狂おしいほどの情動を悟られてはならないのです。もし姫君が、私のこの重すぎる感情を知ってしまったら……きっと、困惑されてしまう……」
それは、リアンヌにとって死よりも恐ろしいことであった。
あの気高く、そして時折見せるどうしようもなくポンコツで愛らしい黒き死神の隣に立つ資格を失うこと。それだけは、絶対に避けなければならない。
「……ええ。そうです。私は、完璧な騎士を演じ続けます」
リアンヌは、ベッドの上に正座し、両手で自身の熱く火照った頬をパンッ! と強く叩いた。
「姫君へのこの溢れんばかりの愛は、すべて私の胸の奥底に、厳重にロックして閉じ込めておきます。姫君の前では、あくまで忠実で、優秀で、少しだけ心配性な『絶対の盾』であり続けるのです」
そう決意を固めるリアンヌ。
しかし、彼女の碧眼には、隠しきれないハートマークのような狂気の光が宿っており、その口角はどうしようもなく緩んで、だらしない笑みを作ってしまっていた。
「……ですが。……ふふっ。ですが、裏を返せば。姫君に気づかれない範囲であれば、どれだけ過剰にお世話をしても、どれだけ密着しても、『騎士としての護衛』という大義名分のもとに許されるということ……!」
リアンヌの思考回路は、自己嫌悪と羞恥心を一周して、完全にポジティブなストーカー思考へと振り切ってしまった。
「ええ、そうです! 新婚夫婦と呼ばれるほどに姫君に尽くし、姫君の身の回りのすべてを私が管理し、姫君が私なしでは生きていけない身体(物理的にも精神的にも)にしてしまえばよいのです……!」
「ふふ……あはははっ! あーっはっはっはっはっ!!」
防音の効いた副団長室の中で、白銀の騎士の、隠す気もない重すぎる愛に満ちた笑い声が高らかに響き渡る。
「待っていてくださいね、私の愛しい愛しい姫君! このリアンヌ・ヴァーミリオン、あなたの騎士として! 今日も完璧な温度の紅茶と、絶対に誰も近づけない鉄壁の愛の牢獄をご用意して差し上げますからね!!」
リアンヌは、ベッドから勢いよく立ち上がり、クローゼットの奥に隠してある『ローゼリアの寝顔の隠し撮り写真コレクション(オルトリンデのハッキングデータから極秘裏に購入したもの)』に向かって、深々と、そして狂おしいほどの愛を込めて一礼した。
完全にブレーキの壊れた白銀の狂犬は、己の感情を「隠し通す」という名目で大いに肯定し、さらなる過保護と重すぎる愛の深淵へと、喜んで身を投じていくのであった。
一方その頃、ラウンジに取り残されたローゼリアは、「……なんか急に背筋に悪寒が走ったんじゃが……暗殺者か!?」と、まったく見当違いの恐怖に一人ガクガクと震えていたが、それはまた別の話である。




