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一口のパイとカロリーの倫理学

 零時半を過ぎた頃、部屋の空気はより一層深く、濃密な静けさに沈み込んでいた。

 ノートパソコンの発する「ウィーン」というかすかな冷却ファンの音と、ハルがテンキーを叩く不規則な打鍵音だけが、小波のように室内を漂っている。

 ハルは画面を凝視したまま、何度もマウスを動かしては「うーん」と唸り声を上げた。

「おい、ハル。お前のその顔、さっきから三ミリも変わってないぞ。行き詰まったか?」

 ソファの上で、掛け布団のようなピンクの布を被ったトンちゃんが、ジト目でハルを見つめていた。

 画像の中でも目立つその丸い瞳は、ハルの集中力が途切れかかっているのを完全に見抜いている。

「行き詰まってないよ……ちょっとだけ、線の着地点に迷ってるだけ」

「それを世間では行き詰まりと呼ぶんだ。ほら、首を回してみろ。ゴキゴキ音が鳴ってるぞ」

 トンちゃんに言われて首を傾けると、案の定「コキッ」と重い音が響いた。

 何時間も同じ姿勢で画面に向かい続けていたせいで、肩から背中にかけての筋肉が固まりつつある。

「……うー、確かにちょっと疲れちゃったかも」

 ハルは鍵盤から手を離すと、ぐっと両腕を上に伸ばして背伸びをした。

 その視線が、ローテーブルの左端、小さなサボテンの鉢植えの隣に置かれた小皿へと滑り落ちる。

 そこには、香ばしい焼き色のついた小さなクロワッサンパイがひとつ、ぽつんと載っていた。

 昼間、大学の帰り道にあるお気に入りのパン屋で購入しておいたものだ。

「よし、ちょっと休憩。パイを食べようっと」

「待て」

 トンちゃんが低い声で制した。

「お前、今日の夕飯の後に何と言っていた? 『最近運動不足だし、夜九時以降は絶対に何も食べない! ダイエット宣言!』と、堂々と叫んでいたはずだが?」

「うっ……」

 ハルは手をピタリと止めた。

 記憶に新しい自分の発言である。

「それは……それは『普段のハル』の宣言であって、今の私は『絶賛創作中のクリエイターハル』なの! 脳みそをフル回転させてるから、カロリーは全部消費されて実質ゼロカロリーなんだよ」

「出たよ、深夜特有のガバガバなカロリーの倫理学」

 トンちゃんは呆れたように大きな鼻を鳴らした。

「いいかハル。今そのパイを食べたら、明日のお前の体重計は容赦なく真実を突きつけてくるぞ。それでも食うのか?」

「食います!」

 ハルは迷いを捨て、パイを両手で持ち上げると、一口サクッと噛みしめた。

 はらりと崩れる繊細な生地と、中に閉じ込められていた濃厚なバターの香りが口いっぱいに広がる。

 至福の瞬間だった。

 画像のハルの瞳がさらにきらきらと輝いて見えたのは、きっと気のせいではない。

「ん〜〜っ! 美味しい! 脳に糖分が行き渡っていく感じがする……!」

「まったく、一口でそこまで幸せそうな顔ができるのは、お前の才能だな」

 トンちゃんは小さくため息をつきつつも、どこか満足そうにハルを見つめた。

「まあいい。燃料補給が終わったら、あと三十分でそのラフを完成させろ。食い損にはさせないからな」

「はいっ! トンちゃん監督!」

 パイのくずを丁寧に払い、ハルは再びマウスを握り直した。

 小さなパイひとつで充填された活力は、深夜の作業を再び力強く押し進めていくのだった。

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