混濁 ―3―
笑っていた。どうして、こんな状況で屈託のない純粋笑みを浮かべることができるのか、ルキドには理解できなかった。新しいおもちゃを手に入れた子供のように、そのおもちゃがどんな音で鳴るのか期待するような笑顔がそこにあった。
嗤っていた。それはまるで嘲笑うような、見下すような品のない笑みのようにも見えた。鮮やかな笑みと冷ややかな笑みというものは、同時に浮かべられることがあるのかと、ルキドは初めての表情を知った。
それと同時に、ルキドが感じ取ったのは逃げ場のない恐怖と敗北感であった。それは、決して目に見えるものではない。だが、境界の認識に長けたルキドだからこそわかる不可避がそこにはあった。
『逃げられない』
それを知るには十分すぎる絶望が立ちはだかる。
この試合は獄蝶のジョカが予め構成してあった強固な結界内で行われている。ある一定の威力までの魔法を完全に無力化し、獄蝶のジョカの意思以外では出入りもできない最高峰の結界魔法だ。
これは、パーシー以外の魔法使いにはできないであろう不可避の魔法。逃げ場のない結界内の、さらに外側まで効果範囲を拡大させるという盲点。これが旭の焔ならば、外側から魔法を放ったところで結界に阻まれて結界内までには侵入できないだろう。だからこれは、重力という、初めからそこに存在するものを操るパーシーにしかできない荒業である。
だが、当然これにはリスクが伴う。
「さぁ! 私とあんた、どっちが先に潰れるか、勝負しようか!?」
「……っぎ――!」
「とっておきをくれてやるわ!」
アドレナリンと『混濁』による思考の不安定さで冷静な判断など取れるはずもなく、パーシーは強硬策に出る。
最初のようにちまちまと遠距離から超重力で狙い撃ったところで、『混濁』によって避けられるか迎撃されるのが目に見えている。理想の動きは、確実にルキドを消耗させつつ、反撃の隙も与えないこと。その点だけを見れば、パーシーのこの強攻は間違いでもないと言える。
「超重力・超過!」
やってみたらできたはいいものの、使うことはないだろうと忘れかけていた超重力の最高到達点。
そもそも、重力の魔法の基礎、超重力とは、使用者の魔力出力に応じて、その重力が無限に強さを増していく魔法である。使い手を選ぶ魔法だが強力な魔法だ。本来ならば、全力でやっても三〜四倍の重力操作が限界だ。だが、これは一般の魔法使いにおける話であり、パーシー・クラウディアという人物は、およそ『一般』の枠には収まりきらない。
あくまで、これは瞬間的な話だ。一瞬だけ、風が強く吹くような、そんな感覚に過ぎない。
パーシーの重力操作の限界は、おおよそ百倍にも及ぶ。
だが、それもほんの一瞬の話。それも効果範囲をごく小さくした、理論値の場合だ。
効果範囲は全力で走って三〜四秒程の広さの結界よりも一回り大きいくらい。魔力の消費は激しいだろうが、そんなことを気にしてられる余裕はもうパーシーには残されていなかった。
自分自身が耐えられる寸前の重力負荷と、ルキドが耐えられないであろうギリギリの重力負荷。その狭間を見極める。
「我慢比べよ! 八倍!」
「ぐ、くっ…………そ!」
八倍の重力負荷。訓練された人間がギリギリ耐えられるボーダーライン。全魔法耐性などの高位な耐性が付与されていたら我慢比べは長引くだろう。むしろその場合、パーシーが限界を迎える可能性の方が高い。
(呼吸ができない! 視界も……! もう……耐えられない!)
(早く落ちなさいよ……! こっちだって一分と耐えられないんだから!)
お互いにお互いの限界を願う。早く、早くと繰り返す度に、一秒という時間の長さに嫌気が刺した。
例えようのない空間の軋む音が辺りに響き渡る。獄蝶のジョカが作り出した結界もたわみ出し、今にも壊れそうなほど歪んでいた。空間が悲鳴を上げて、やけに耳に残る独特な音がした。
「”混濁”!」
やられた
そう判断した時にはもう遅すぎた。『混濁』によって歪められた重力の魔法は制御を失って崩壊する。
パーシーの『混濁』に対する予想は概ね的中していた。間違っていたのは、『混濁』を魔法そのものに適用させた時の効果についてだ。
パーシーは魔法が及ぼす効果の変質、つまり、反転や歪曲と予想していたが、それは適切ではない。『混濁』によって歪められた魔法は制御を失い、効果そのものを消し去る。
(殺った――!)
呼吸すら困難になるほどの重力負荷。自分の魔法であり、日々自分を使って実験をして慣れているパーシーであっても、その重力負荷に耐えて無傷ではいられなかった。
緊張からの急激な弛緩。それと同時に再び襲いかかってくる『混濁』の歪み。ズキンと頭に響く痛みに悶えてパーシーは思わず目を閉じた。
そして、その瞬間をルキドは見逃さない。
完璧なタイミング。油断した相手を狩る理想の動き。
だからこそ――
「超重力・超過」
その動きを読むのは容易かった。




