混濁 ―2―
胃を逆流してくる不快感を飲み込み、パーシーは震える脚を押さえつけながら立ち上がった。やっとの思いで両の足で自立できたかと思った瞬間、込み上げてくる嘔吐感のあまりパーシーは口を閉ざした。目眩、浮遊感、どこからとやってくる不快感に加え、平衡感覚を奪われ、目の前に立つルキドを睨みつけることすらままならない。
パーシーにとって、それは初めての経験であった。
脳内をぐちゃぐちゃにかき乱されて思考すらできなくなることが、否。これまで自分が散々見せてきた歪んだ世界の景色を自分が見ることになったことが、否。目の前の相手に、敵意ではなく殺意を抱いたことが、否。
否、それらはすべて通ってきた道だ。どんなものであるかは知っている。もう理解した。だが、それだけは、体験してなお、パーシーの理解の及ばないものだった。制御が効かない。身体が感情に引っ張られていく。ぐちゃぐちゃになった思考を押しのけて、赴くままに本能が動いていく。
(あぁ……ダメ……抑えなきゃ、ダメ。まだ、次があるのに……)
感情は抑えきれない。導火線はじりじりと音を立てて燃えていく。解き放ちたくて疼き出す心臓をギュッと握りしめて、パーシーは再び前を向いた。ただ、目の前の相手と向き合った。
「な、何? 何する気? 言っとくけど、キミの魔法は――」
「もう喋らなくていいわ」
ルキドの言葉を遮り、不気味に俯いたままパーシーは言い放つ。荒い呼吸で白い吐息がルキドの視界に映る。消耗は明らかだった。強がっているだけ、ルキドは自分にそう言い聞かせる。
「あんたの魔法、『混濁』だっけ? それはだいたい三つの要素で構成されてる」
「……当ててみなよ」
「一つ目はこれ」
そう言ってパーシーは頭にトンと指を当てる。
「思考、あるいは精神に作用する効果。正直に言ってこれが一番厄介だけど、慣れようとすればできないこともない」
一歩、パーシーは歩み寄る。後退りするルキドを追い詰めるように、パーシーは近づいていく。
「二つ目はさっきの。よく見れば軋んだ地面の輪郭が歪んでる。あんたは私の超重力を受けて耐えてたんじゃない。効果範囲を歪ませて避けてただけ」
「……っ!」
「図星、顔に出てる」
静かに感情を燃やしてパーシーは饒舌に語っていた。淡々とルキドの行動と事実から魔法を解析していく。恐怖を覚えたルキドがまた一歩後ずさって、それを追うようにパーシーもまた一歩歩み寄る。
「三つ目、ここからは私の予想」
そして、もう一歩、パーシーが足を踏み出す。手を出せば触れられるか、触れられないかの距離まで近づいて、目が合った。全身の毛が逆立つ殺気を浴びて、ルキドはついに足を動かすこともできなくなってしまった。つぎつぎと明かされていく自分の魔法。的確に言い当ててくるパーシーに底知れない恐怖を覚え、ルキドは怯えた。
「もしかしてさぁ……」
仮にも『混濁』を食らった状態にも関わらず、躊躇うことなく、真っ直ぐにルキドへと向かって歩いていくパーシーは、さぞおぞましく見えただろう。ルキドの身体の震えは止まらない。
「それ、魔法そのものにも適応できるんじゃない?」
一度だ。ルキドはこの日、たった一度しか『混濁』を使っていない。それなのに、その一度ですべてを暴かれてしまった。腹の奥から、熱いものが込み上げてくる感覚がした。身体は震え、冷や汗が止まらない。ルキドは目の焦点の合わないまま、わなわなと顔を歪ませている。
「だから……例えばさぁ……」
背筋が凍る。ルキドは瞬時に敗北を、死を悟った。
「こんな風にしたら、あんたはどうなるのかしら」
結界のさらに外側へと効果範囲を広げる。歪みなど作りようのないこの場限りの必中。当然、範囲内にいるということは、発動者であるパーシーも超重力を食らうことになる。ハイリスクハイリターンの一撃。
昂る鼓動は収まらない。パーシーも知りえなかった逆境という未知。己すらも押しつぶされそうな状況で――
パーシー・クラウディアは静かに笑った。




