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婚姻届け(The marriage road)

よろしくお願いします。

 一ヶ月後、菜緒子は退職して愛媛の実家に帰って行った。家業の「麻宮ファーム」を継承することになったのが理由だそうだ。もう二人切りで会うことは無かったけど、帰って行く日にメールをくれた。


『洸君、私は今日実家へ戻って行きます。怪我の後遺症が残るお兄ちゃんに代わって「麻宮ファーム」を継ぐことになったからです。あなたと一緒にやりたいとも思いましたが、親族などの反対を抑え切れず断念しました。

 それでも、これは私の決断に違いありません。あなたと過ごした最高の毎日は一生忘れないけど、明日から新しい道を歩んで行きます。洸君も自分らしく頑張って下さい。八十三冊目の文庫本を手に出来ることを願っています。今まで本当にありがとう。サヨナラ……』


 俺は暫く経ってから短く返信した。菜緒子への最後のメールとして。


『菜緒、こちらこそ今までありがとう。一緒に過ごせた時間に感謝出来るのは、全て君のお陰です。菜緒と出会えて本当に僕は幸運でした。でも、お互いあの時以上のしあわせを求めて生きて行ければいいなと思ってます。どうか元気で……』


 もちろん未練は残ってるけど、気持ちの大部分で整理が着けられたのは牝猫の存在が寄与したのだと思う。飼っていていいことも有るんだなと感謝した。




 典子は3月に准看護師の国家資格を取得して、新年度入り後は看護助手からの昇格を果たした。そのまま正看護師資格を目指して看護学校に入学したので、一層ハードな毎日になってるようだ。


 でも、相変わらずお金は入れてくれない。確かに学費は掛かるけどさ。薄給でも一応収入が有るんだから、少しは助けてくれてもいいのに。こいつ、このまま看護学校を卒業するまで居座るつもりか?あと三年も有るってのにさ。


 よしッ!一回膝を交えて話し合ってみよう。典子も飛び込んで来てから三年程経つんだし、扶養家族ってわけじゃないからな。




 ゴールデンウィーク直前の週末、飼い猫は夜勤明けで午前中に帰って来て爆睡している。元々運転免許は取得していたが、夜勤が始まってからボロいミラを購入して通勤しているので、以前のようにお迎えに行くことは無くなった。でも、俺の暮らしは全く向上しない。いや、以前より自炊の回数が増えただけ悪くなってる。



 午後3時を過ぎた頃、やっと牝猫は起き出したようだ。洗顔を済ませてから擦り寄って来て「ねえ洸、コーヒー入れてよォ」と甘えて来やがる。「自分でやれ!」と言いたかったけど、話がしたいので飲み込んだ。ドリップ式のコーヒーをマグカップに入れ、目の前に置いてやった。


「ありがとう!洸ってホントにやさしいね。さすが私が見込んだ男だわ」


「典子、勝手に思い込むのは止めろ!それよりさあ、4月から晴れて准看になったんだし月収アップしたんじゃない?そろそろ俺の全面扶養状態から脱しようよ」


「まあ、雀の涙程はアップしたけど、月収は夜勤手当次第だね。何?もっといいアパートに引っ越したくなったの?確かにここは古くてボロい、安いだけしか取り柄のない物件だよね」


「いや、安いのは最大の魅力だから俺はここで我慢出来るよ。典子、少しは家計に金入れろよ。家賃も食費も取らないのは准看になるまでの約束だろ?お前に飛び込まれてから全然貯金出来なくなってるんだからさ」


「そうねえ。やっぱり共稼ぎらしく暮らすべきよねえ。じゃあ、入籍しましょう。いつまでも同棲時代じゃなくて、結婚生活にグレードアップするのよ」


 こいつの言動に連いて行けないのはいつものことだけど、やっぱり呆れてしまう。


「あのさ、何で今更典子と結婚しなくちゃいけないの?兄妹のように三年も暮らしてるのに」


「ひっどーいッ!じゃあ、あの夜は何だったの!?洸って無責任で近親相姦する変態の最低男だったのね!」


 あーあ、何でこうなっちゃったんだろう?今思えば、雪の降りしきる中を駅へ迎えに来てくれたのは策略だったのかも?と思えてしまう。あの日、帰ってから二人でチャンコ鍋を食べ、少しビールを飲んで典子とヤってしまったのが敗因だ。


 傷付いた心と寂しさにつけ込まれたとは思いたくないが、あれから飼い猫は時々主人に命令するようになった。初めての男という事実を逆手に取って。そのあとは何とか自制してるけど、誘惑して来ることなど日常茶飯事になってしまった。


「洸、深刻に考え過ぎじゃない?私たちが結婚すれば、全ての歪みが解消されるってのに。妹として見てるなら何でヤったの!?あの夜、私を好きだって言ってくれたじゃない!」


「うん、その通りなんだけど……」


 ダメだ!何も言い返せない!典子を好きなのは本当だし、言ってることは正論だと思う。でも、菜緒子に抱いた気持ちとは何か違うんだよなあ。今頃懐かしんでも過去に過ぎないけど。




 翌日、典子を連れて久し振りに「慈愛園」に行った。よっちゃん先生に飼い猫の准看合格報告をするためだ。よっちゃん先生は園長の立場になっていたけど、どうもピンと来ない。やっぱり俺にとってのお母さんは北里恵理子先生だけだから。


「典子ちゃん、准看護師合格おめでとう。お母さん先生には報告出来なかったけど、きっと天国で喜んでくれてると思うわよ。二人とも、相変わらず兄妹のように暮らしてるみたいだしね」


 よっちゃん先生は俺たちにお茶を勧めながら微笑んだ。ここで典子が言いやがった。


「先生、私たちは若夫婦のように暮らしてるんですよ。いつ入籍しようか相談してる段階なんです」


 やっぱりこいつはクソビッチだァ!どうして平気で嘘をつけるのか理解出来ない。いや、まんざら嘘でないのが問題なんだよなあ。


 よっちゃん先生から怪訝そうな顔を向けられた。


「洸君、本当なの?だったら私も嬉しいけど。その割には何かよそよそしいわね。あなたたち本当に仲良く出来てるの?」


「いや、ご心配には及びません。毎日仲良く暮らせてます。些細な口ゲンカくらいはしますけどね」


「そう。まあ、少しくらいはモメた方が健全よ。一方的になっちゃったら相手が持たないもん。洸君、典子ちゃんにやさしくしなきゃダメよ!」


 先生はわかってない。やられてるのは俺の方なのに。



「ところで洸君、あなたに話が有るの。本当は一人の時の方がいいかなって思ってたんだけど、典子ちゃんが結婚真近の相手だとわかったから今伝えるね」


 先生は立ち上がって金庫の扉を開け、一通の封書を取り出した。


「あなたの本当のお母さんからの手紙よ。4月になって届いたの。「慈愛園」への挨拶とは別に、中にもう一通小振りな封筒が入っていたわ。それは洸君当てだから未開封よ。ハイ、受け取って」


 小さな封筒を渡されたら頭がクラクラした。怒りとか憤りより、青天の霹靂でわけがわからない。身体がガタガタ震え出した。


「ちょっと洸!大丈夫?横になって落ち着くまで休んだら?先生、保健室のベッドをお借りしていいですか?准看の私が着いてますから」


「もちろんよ!さあ洸君、少し休みましょう。いきなり渡しちゃって悪かったわ」



 保健室のベッドで一時間程伏せていた。典子が心配そうに顔を見つめて聞いて来る。


「この手紙どうするの?今更だし燃やしちゃおうか?」


 俺は返事をしなかった。頭の中は混乱したままだ。只々、何で?というフレーズしか浮かんで来なかった。



 結局、夕方まで保健室で寝ていた。よっちゃん先生にお礼を言って、未開封の手紙を持ったまま典子の運転でアパートに戻った。


 封筒を茶ぶ台に放置してベッドに潜り込む。典子が顔を近づけて来て額にキスをした。


「洸、全部忘れなよ。私との未来だけ考えてくれない?それが最良の選択だと思うけど」


 俺は両腕を投げ出しグッタリしたまま返した。


「そうだな。典子はいつも現実主義(リアル)だから、それが一番正しいのかも知れない」




 それから一ヶ月、俺は手紙を読もうとしなかった。でも、捨てたわけでも燃やしたわけでもない。本棚の八十二冊の文庫本の横にずっと置いてある。




 今日は典子が夜勤で独りぼっちだ。牝猫が院長先生のお歳暮のお裾分けとやらで貰って来た「マッカラン」をソーダで割って飲んだ。ワイン通だけどウイスキーは飲まないからだそうだ。やっぱり医者っていい酒飲んでるよな。俺が買うにしても「角瓶」がいいとこなのに。


 ホロ酔い気分で立ち上がり、手紙とペーパーナイフを持って来て茶ぶ台の前に座り直した。テレビは映っているけど全く耳目に入って来ない。封筒を手に三十分くらい見つめていた。


「洸君へ」とだけ書かれた表面を眺めながら、キレイな字だなと思った。暫くして幼少期に思いを巡らし怒りがこみ上げて来た。絶対に許せない!これは俺の人生をブッ壊した女からの手紙だ。懐かしさなど感じない。そもそも、何を消化すればいいと言うのか!?憤り以外に感じることなど有るのだろうか?確かめたくなった。典子になじられてもしょうがないほどに。


 ペーパーナイフで封筒の端を切り落とし、淡いブルーの便せんを取り出した。俺を捨てた女が書いた文字が羅列してあるはずだ。ドキドキした。息苦しい程に。折り畳まれた数枚の紙を一気に開いた。


『まず、こうして文面を読んでくれてるのは、私の手紙を捨てずにいてくれたからだと感謝しています。ありがとう。


 洸君、元気に暮らせていますか?あなたはどうしているかと毎日考えますけど、私に想う資格はありませんね。あなたを捨てた鬼のような人間ですから。本当にごめんなさい。


 一人で人生をやり直したくなった私は、あれから東北の旅館の仲居さんなどをして各地を転々としました。今は東京のワンルームで暮らしています。小さな会社の事務員をしながら。


 許して欲しいなどとはもちろん言えません。ただ、大きくなったあなたを見たい。声が聞きたい。どうしようもなく気持ちを抑えられなくなってしまいました。どうか、どうか一度だけ私の願いを叶えて欲しいのです。


 もちろん、無視されてもあなたを恨むことなどありません。死ぬまであなたのことを想っています。しあわせに暮らしてくれることを願って止みません。


 大好きな洸へ。あなたを置き去りにした馬鹿な母より』


 最後に東京の住所とケイタイナンバーが書いてあった。


「フフッ、何だよこれ?くだらねえ文面に反吐が出るぜ」


 独り言をつぶやいて泣いた。茶ぶ台に突っ伏してずっとずうっと泣いた……。




 翌朝、電話で会社に病欠を申し出た。もう何一つしたくなかった。ベッドに潜ったままジッとしていた。


 午前10時に典子が帰って来た。寝室に入って来て頭の辺りの布団を剥がされた。


「やっぱり居たんだ。ヴィッツが有るからおかしいなあと思ったんだけど、会社は休んだの?体調悪いの?」


「体調は悪くないけど休んだ。今日は何もしたくない」


「朝ご飯はどうしたの?食べた形跡が無いけど」


「何もいらない。本当に食べたくないんだ」


 飼い猫はブスッとして布団の上に乗っかり、顔をツンツンと突きやがる。指を立てて思いっ切りやるので結構痛い!


「何すんだよォ!典子、止めろよォ!」


「洸、もしかして手紙読んだの?言わんこっちゃない。お伽話の映画でもあるまいし、あなたにいい事なんて何も無かったでしょ?手紙なんて無視無視!洸は私のことだけ考えてればいいの!」


 夜勤明けを物ともせず元気よくブッこく典子を、俺はクスッと笑って抱き寄せた。


「ねえ、結婚しよう。小川典子から望月典子になってよ。お前がいないと生きて行けないって、今回の件でよくわかった。だから、手紙もまんざらじゃなかったってことさ」


「ええー?どうしてそうなっちゃうの?でも、嬉しいな。私はずっと洸が好きだったし、絶対あなたしかイヤだもん!」


 典子の顔に手を添えて口づけした。少しだけ身体を離した時の彼女の笑顔が眩しかった。



「お母さんは洸に会いたがってるの?それをあなたは受け入れるの?」


「わからない。ちょっと考えるのに疲れちゃってるんだ。典子、俺を支えてよ。もうお前にしか頼らないから」


「いいわ。思った通りにやって見なさいよ。私、何処までもあなたに連いて行くから」




 次の土曜日、非番の飼い猫を伴って市役所に行き婚姻届けを出した。夫婦になる手続きは簡単なものだった。身分証明として運転免許証を提示し、署名捺印した書類を出すだけだ。結婚式は挙げない。することと言えばお互いの職場に家族状況の書類を提出することと、よっちゃん先生への報告だけだ。


 でも、その夜はフレンチディナーを食べに行った。典子だけシャンパンを飲んだ。相変わらず貧乏だけど、俺は嬉しかった。まだ二十三才と二十一才だ。若さだけはある。二人で力を合わせてしあわせになりたいと思った。




 翌日から何が変わるわけでもない。と思っていたら、典子の態度が変わった。今までは何処となく俺の顔色を伺う飼い猫らしさが有ったけど、もう遠慮など微塵も無い。夕食の配膳を手伝わされ、掃除の分担も決められた。こんなはずじゃなかったと早々に思い知らされ、共同作業の機会も増えてドンドン典子中毒に嵌まって行った。


 ベッドだけはダブルに買い替えた。でも、あとはそのままだ。三年間一緒に暮らして来て、少しは食器類も増えていたからだ。典子の物ばかりだけど。




 届いたばかりのベッドの中で牝猫が妖しげに言った。


「ねえ洸、ついに私はあなたを手中に収められたのね。ホントに長い道程だったけど、やっと辿り着けたんだ。いつまでも私の好きなキレイな顔でいてね」


 最後のフレーズにガクッと来た。こいつは飛び込んで来た頃と全然変わっていない。


「典子って俺の顔と結婚したの?気に入ってくれるのはありがたいけど、すごく複雑な気分だよ。他に長所って浮かばないの?」


「うーん、むずかしい質問ね。洸って怒りっぽいし口悪いし、ケチだし逆らうし。でも、すごく好きなんだよ。あなた以外いらないもん」


「まあ、とっても嬉しいと言っておく。それで子供はどうする?」


「私が正看になるまでは無理ね。ここは子育てするには狭過ぎるし、それまではお金を貯めましょう。何事も計画性を持ってやらなくちゃ。二人で頑張ろうね」


 計画性?どの口が言うんだ!三年前は何も考えずに飛び込んで来やがったくせに。


 俺は続けたい言葉が有ったけど、今日のところは飲み込んでおくことにした。今は典子を抱きしめよう。愛を確かめるために。


読んで下さりありがとうございます。次のお話でおしまいです。

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