思いのままに(Native style)
よろしくお願いします。
終業後、素早く着替えて会社を出る。いつもの路地裏で待っていた菜緒子を拾った。取りあえず喫茶店へ行こうとしたら、彼女は「ポピンピアリ」を指定した。まあ、ケンカしてもここからなら歩いて帰れるもんな。
店に入ってブレンドコーヒーを注文した。向かいの席から菜緒子が厭味ったらしくなじりやがる。ここへ来るまでは取り留めのない仕事の話しかしなかったのに。
「しょうがないよね。洸ってやさしい人だから。特に典子ちゃんにはね」
「いや、昨日は勝手に典子が電話に出やがって」
怒気を含んだ声を被せられた。
「彼女が出たから一緒に住むってわかったんでしょ!?洸!隠し事しないでよ!あなた、私のこと真剣に考えられないの?もちろん事情は有るんでしょうけど、何で話してくれないのよ!?」
菜緒子がすごく怒ってる。今さら弁解するつもりも無いし、確かに俺の見通しが甘かった。
「ゴメンなさい。菜緒に相談するべきだったと反省してる。でも、行き先の無い典子を放り出せないし、絶対に妹分なんだから落ち着くまで一緒に住むのは許してよ」
「典子ちゃんは洸をお兄さんとは見てないよ。女同士だからわかることも有るの。あなたを信じないわけじゃないけど、人間は魔が差す時って有るからね」
「そう言われたら何も返せないよ。菜緒もやっぱり俺を捨てちゃうの?」
「バカね。離したくないから言ってるのに。まあ、典子ちゃんに目標でも持ってもらえれば、少しは私も安心出来るかな」
「目標か……。ありがとう。今夜あいつとじっくり話してみるから。それから、明日は9時頃迎えに行くよ。一緒に施設へ行きたいんだろ?」
「ええ、園長先生にもお話を聞かせて頂きたいわ。洸がどんな男の子だったかって」
「イヤなこと聞きたがるよなあ。俺なんて平凡極まりなかったってのにさ。期待だけはするなよ。好きで裏切りたいわけじゃないんだから」
何故か彼女はクスクスと笑った。ホント女ってのは何を考えてるのかわからない。菜緒子も、典子も、俺の母親も……。
菜緒子を「ジョイハウス」に降ろして「南風荘」に帰った。階段を駆け上がるとカレーの匂いがした。出所は207号室だ。ドアを開けたら典子が花柄のエプロンを纏ってカレールーの味見をしていた。
「洸、お帰りィ!今夜はカレーライスだよォ!」
「ああ、鼻が詰まってなけりゃ誰でもわかる。匂いが換気扇から廊下に流れ出てたから」
「ホント可愛くないなあ。せっかく若奥さま気取りで作ってあげてるのに」
「別に可愛くなくていいよ。ところで、このエプロンはどうしたんだ?初めて見たぞ」
「一昨日、悟さんに買ってもらったの。私の食器もね」
昼休みの悟の顔が浮かんで申し訳ないと思った。
「お前なあ、もう悟におねだりするなよ。バイト代が入ったら自分の物は自分で買え!当面食費と家賃を寄こせとは言わないからさ。しょうがないからもう少し典子を飼ってやるよ」
あーあ、自爆だよ。これで典子も野良猫から飼い猫に昇格か。ホント俺も甘いよな。菜緒子が怒るわけだよ。
「わかった。洸が言うならそうする。それより、明日は園長先生に会えるのが楽しみだね」
「バカ!お前の事情説明で頭が痛てえよ。少しは自分の立場をわきまえろってえの!」
カレーライスはまあまあおいしかった。いや、この牝猫にしては上出来と言っていいだろう。スプーンを運びながら菜緒子の言葉を思い出した。目標か……。
「典子、お前が本当にやりたい仕事は何だ?なりたいものって何か有るのか?一応聞いてやるよ。どうせ考えたこともないんだろうけどさ」
「看護師さん!人の命の役に立ちたいとずっと思ってたの。でも、お金も無いし住むところも無いんじゃ無理な話だよね」
正直、俺は驚いた。自分では今まで将来を夢描いたことなど無かった。とにかく平凡に、淡々と独りで生きて行ければいいとしか考えなかったから。夢とか希望なんて持っちゃいけないと思い込んでた。それが人生をつまらなくしようとも。
「本当にそう思ってるのか?園長先生の前でも言い切れるの?」
「もちろんよ!いい加減な私だけど、この思いにだけは嘘をつきたくないもの。信じてよ、洸!」
「わかったよ。典子を信じてやる。でも、バカだよな。何でもっと早く言わなかったんだよ。まあ、お金の掛かる話には違いないから言えなかったんだろうけどさ。とにかく俺も調べてみるよ。やる前から夢をあきらめるな!」
こいつとは施設でも腐れ縁だったけど、初めて羨ましいと感じた。協力してやりたいとも思った。一緒に育って来た大切な妹なんだから。
翌朝、典子を乗せて8時半にアパートを出た。「ジョイハウス」には少し早く着いてしまったけど、菜緒子は準備万端だった。
和菓子屋によって「どら焼き」を三十個も買い込んだ。もちろん手土産なのだが、施設では圧倒的に甘い物が人気なのを知っている。多少は日持ちもするし、このセレクトは王道なのだ。
9時半に「慈愛園」に着いた。駐車場にヴィッツを駐め、受付で来園者名簿に三人の名前を記した。ストラップタイプの入園許可証を首からぶら下げ、園長室のドアをノックした。
「どうぞ」と柔らかい声と共に扉が開かれる。中から北里恵理子先生が迎えてくれた。一礼してから手土産を渡す。他の二人も俺に倣ってキチンとお辞儀をした。先生は三人掛けのソファに座った俺たちをゆっくり見廻し、真ん中の俺に焦点を戻した。
「洸君、お久し振りね。元気でやってるの?アパート暮らしは典子ちゃんに押し入られて大変みたいだけど。それと、お隣に座ってらっしゃる方とはどういうご関係?あなたの彼女さんかしら?」
いきなり色々聞かれてしまうけど、俺のご無沙汰がいけないのだ。今でも先生を心配させてしまう俺はちょっと後ろめたい。
「ええ、彼女は同僚で僕の初めての彼女です。大学出なので年上ですけど、すごくやさしくしてくれます」
「そうなの。良かったじゃない。やさしい方が一番よ」
ここで菜緒子が立ち上がって挨拶した。
「初めまして。麻宮菜緒子と申します。今日は洸君に連いて来てしまいました。どうしても彼が育った場所を見たくなってしまって。私の我がままでご迷惑をお掛けしてすみません。どうぞよろしくお願い致します」
ピシッと四十五度で身体を折る姿は、いかにも総合職らしい。現場配属の俺には見慣れない姿勢だ。
「北里です。こちらこそよろしくお願いします。洸君、ステキなお嬢さんね。大切にしなくちゃダメよ」
微笑んで返す先生に思わず恐縮した。もう一人のクソビッチは余裕を見せてやがるけど。
「典子ちゃんはどうなの?洸君や麻宮さんに迷惑掛けてない?」
「大丈夫です。洸も菜緒子さんもやさしくしてくれますから。私も住まわせてもらってる手前、洸のお世話をしてます。毎日感謝されてるんですよ」
カチンと来た。この牝猫だけはしつけてやらなくちゃいけない。
「先生、嘘ですよ!こいつが押し入って来たせいで僕の生活がブッ壊されました。菜緒もカンカンに怒ってます」
「イヤーね。私まで兄妹ゲンカに巻き込まないでよ。洸にとってカワイイ妹なら私にとっても同様でしょ?」
菜緒子にまで即行裏切られた。クッソー!女ってやつは罪の意識など持たない生き物なのか?
「アハハ、何かあなたたちを見て安心したわ。若いっていいわね。本当に羨ましいわ。麻宮さん、ありがとう。どうか二人を見守ってやって下さい。私はもう年だから、最後まで見届けることは叶わないの」
「先生、お身体どこか悪いんですか?僕に出来ることなら何でもしますよ。先生が、恵理子先生が僕の唯一のお母さんですから」
「私のお母さんも先生です。洸が悪さしたらいつでも言って下さいね。先生に代わってとっちめてやりますから」
どの口が言うんだと呆れたら、菜緒子がうっすらと涙を浮かべていた。やさしい気持ちはありがたいけど、それだけじゃ施設ではやっていけないんだぜ。クソガキの世界にもカーストは有るんだから。
「麻宮さん、洸君はヤンチャなところも有ったけど、とてもやさしくて気遣いの出来る人間に育ってくれたわ。私はそれが嬉しいの。よくケンカして来て部屋に籠ってたけどね。でもそれは、きっと彼の正義を信じてやったことだと感じてたから黙認したわ。本当はいけないんだけどね」
「洸、先生はお見通しだったみたいよ。でも、彼は先日、高校時代のケンカの話を私にしてくれました。だから、やましさは絶対に無かったと思います。私ごときが僭越ですが、洸を真っ直ぐに育てて下さってありがとうございます」
今しかないと思った。典子を応援してやるのは俺一人じゃ限界が有るから。
「典子、昨晩俺に言ったことをもう一度言ってみろ。お前の思いを聞いてもらうんだ」
イヤイヤと小刻みに手を振りやがるので、腕をガシッと掴んで促してやった。これくらいやさしいやり方さ。
「痛いッ!ん、モウ!洸ったらホント荒っぽいんだから!もう少しやさしくやってよ!」
それでも典子はうつむき加減で、ちょっと照れくさそうに話し始めた。頑張れ、俺の妹。
「先生、菜緒子さん、私、本当は看護師さんを目指したいの。でも、多少なりともお金も掛かるし夢なんか見ちゃいけないと思ってたけど、洸がやらずにあきらめるなって脅すから、頑張ってみたいと考えを変えたの」
「お前さあ、脅すって言い方はないだろう。せっかく応援してやろうと思ってるのに」
何とも情けない顔を見せた俺は、先生と菜緒子に大笑いされてしまった。典子は本当に出来の悪い妹だ。
「看護師さんなら、あなたたちの先輩に当たる卒園者の方もみえるから道筋は知ってるわよ。まず准看護学校に入学して二年間頑張るの。その間は看護助手として働きながらね。准看護師の国家資格を取ったら看護専門学校へ進むの。ここでは三年間ね。もちろん准看護師として働きながら通えるから、少しはお給料もアップしてるはずよ。そして看護師さんの国家資格を取ったら晴れて正看護師さんになれるの。
実際はそれからが大変みたいだけど、確かにやりがいのあるお仕事ね。典子ちゃんがその気なら資料を持って来てもらうわ。先生も応援するからね」
「ハイ!頑張ります!でも、入学するにしても来年の4月からだよね。その間に学費を貯めなくちゃ。洸、准看護師になれるまで居候してもいい?」
恨めしそうな目で見つめやがる。だいたい先生の前で拒否れるわけないじゃん。クッソー!これはやられたのかも知れない。でも「目標」の言い出しっぺは菜緒子だから、彼女も認めざるを得ないはずだ。
「わかったよ。来年の4月まではバイトと勉強に明け暮れろ。その代わり入学試験に落ちたら叩き出すからな!先生の期待を裏切ったら容赦しねえぞ!」
菜緒子が呆れた口調で割って入って来る。
「洸、その言い方って脅してるよ。でも、同居は認めてあげるわ。私も典子ちゃんを応援したいから」
「ヤッター!ありがとう!本当に先生のお陰です。洸はお母さんには絶対逆らわないからね」
確かに園長先生は俺にとって絶対的存在だけど、それを逆手に取る典子ってどうよ?まあいいか。これで飼い猫も少しはおとなしくなるだろう。
「慈愛園」をあとにした帰り道、菜緒子が焼肉パーティーをやろうと言い出した。でも、俺んちじゃ出来ないぞ。鉄板とか無いもん。
「私の部屋でやりましょう。ホットプレートを持ってるから。お肉とか野菜を買わなくちゃね。洸、スーパーへ寄ってくれない?」
「いいよ。俺も牛乳切らしてたから。典子が来てから食費が倍増でまいっちゃうぜ」
「ひどいなあ。私はそんなに食べないよ。可憐な乙女だもん」
口をとがらせる牝猫が可愛く映った。そう思うとやっぱり菜緒子は大人だな。そりゃそうか。典子より六つも年上なんだから。
焼肉はおいしかった。園長先生に会って気分も良くなったし、ビールが飲めないのだけが恨めしかった。典子は「おいしいおいしい」と牛肉をパクついた。お前なあ、可憐な乙女じゃなかったのか?「洸はいつも鳥か豚しか食べさせてくれないんだよ」とまで訴えやがった。誰の彼女に言ってるのかわからせてやりたくなったぜ。帰ったら覚えてろよ!今日が最良の日だったのは間違いなく典子だ。このまま終わらせてたまるかってんだァ!
牝猫と帰宅して冷蔵庫から缶ビールを取り出す。もう肉は無いけど思い出して飲み直しだ。クソビッチの前に白々しく紙パックのオレンジジュースを置いてやった。
「ええー?私もビールがいいよォ!洸だけ飲んでズルイよォ!」
「うるせえ!未成年がいっぱしの口叩いてんじゃねえぞ!ジュースがイヤなら水でも飲んでな」
「ホント意地悪だなあ。せっかく洸がやさしくなったと喜んでたのに」
不貞腐れたかと思ったら、チャッカリとグラスを持って来て俺の前に置きやがる。メゲない典子はやっぱり野良猫上がりだ。しょうがないから一杯だけ注いでやった。
一週間後、園長先生から連絡をもらい准看護学校の資料と入試に向けた教材を取りに行った。卒園者の樋口先輩が用意してくれたとのことだった。本当にありがたかったし、これも園長先生のお陰だ。でも、先生の顔色が少し悪いのが気になった。
珍しく典子がやる気を起こしたので「南風荘」に降ろし、俺だけ菜緒子のアパートへ向かった。誰の部屋かわかってんの?と言ってやりたいくらいだった。
菜緒子の部屋でコーヒーを片手にくつろいだ。
「典子ちゃん、バイトはちゃんと行ってるの?」
「ああ、あいつにしては珍しく頑張ってるよ。いつまで持つか知らないけどね。土日は学生さんがシフトに入って来るから、基本的に月曜から金曜までの日中だってさ。未成年だから夜勤は出来ないし」
「良かったじゃない。まあ、洸にとっては扶養家族だからね」
「うん、おとなしくなったので助かる。そして俺は菜緒を抱きしめるんだ」
彼女を引き寄せ口づける。ナチュラルボブの髪からいい匂いがした。髪越しに壁際を見たらボックスタイプの本棚が見えた。文庫本が整然と並んでいる。思わず菜緒子の身体を離して尋ねた。
「ねえ菜緒、あの本って何?」
「ああ、本棚の文庫本ね。学生時代に買い集めたの。全集とかじゃなくて私の嗜好で選んでるから、結構軽いものも含まれてるけどね。全部で丁度百冊、完全読破済みよ」
「いいなあ。俺も読みたいよ。テレビ見てて典子の勉強の邪魔も出来ないし」
「わかった。じゃあ洸にあげる。でも、一週間に一冊ずつね。全部で百週間よ」
「ありがとう。一度にもらっても却って読めないし丁度いいよ。俺、本棚買ってくる。そんなに立派な物は買えないけど」
「洸、百冊読んだら結婚して。私、あなただけが欲しいの」
「うん、いいよ。俺も菜緒と暮らしたい。本当は今直ぐにでもしたいけど、典子の将来もあるからね。百週間ってどれくらいの長さなのかな?」
「一年が五十二週だから二年弱ね。再来年の5月頃かな」
「楽しみだなあ。菜緒、それまでもそれからもよろしくお願いします」
「バカね。畏まられるとこちらが困っちゃうじゃない」
今度は彼女が抱き着いて来て口づけた。生まれて初めて未来に目を据えた。
読んで下さりありがとうございます。