10話 身悶え 3
ガラガラと音を立てて公道を行く馬車を横目に、カフェを出たアレックスとクローディアは街路を並んで歩いていた。
「珍しい毛並みの馬だったわ。今の馬車、どこから来たんでしょう?」
「えーと、ナンバーを見る限り、南部からですね」
クローディアは馬の毛並みに目を留めたが、アレックスは馬車のナンバーを見ていた。
その違いがおかしくて、クローディアはふふっと笑う。アレックスは不思議そうに尋ねた。
「何かありました?」
「あなたと私、同じものを見ているのに、違うものを見ているなって」
自分に合わせてほしいという意味ではないとクローディアは続けた。
「それがとても面白いんです。馬車一つとっても、小麦畑への道一つとっても、喫茶店への思い一つとっても」
「そう言われると……」
アレックスは照れくさそうに笑った。
「ところで、ですね?」
クローディアが肩越しにちらりと振り返ると、丸眼鏡をかけた追跡者が慌てて建物の陰に隠れた。
「気づいてます?」
「ええ、なんとなくは……」
アレックスは頷いた。
「貴族ですからね。護衛でしょう?」
クローディアは困った顔をした。
「護衛が必要なほど治安が悪い街でもないんですけどね」
アレックスはうんうんとしきりに頷いた。
「それは、フレデリック・ウィルゲンシュタイン公爵の手腕でしょう」
「あら、知ってるのね?」
「そりゃ、自分の住んでる領地でもありますし、実力のある人はやっぱり尊敬しますよ。
クロードのヤツ、間違えて伝えてる。
俺は貴族が嫌いなんじゃなくて、“貴族の歴史の上にあぐらをかく人間が嫌い”なんですよ」
父を褒められて嬉しくなったが、それを明かすわけにもいかない。クローディアは微笑んだまま話を続けた。
「それでね? 話を戻すと、私、あの護衛を撒きたいの。聞かれるの、なんとなく恥ずかしいじゃない?」
「それはそうですね」
クローディアはアレックスの少し前に出ると、両手を後ろで組んで振り返った。
「ねえ、場所を教えてくれない?
私、クロードから聞いてるの。あなた、古本屋で働いてるんでしょ?
でも場所は知らないの。走って逃げて、そこに隠れましょう?」
「撒けなかったら?」
「次のプランを考えましょう」
そう言って手を差し出すクローディア。アレックスが不思議そうにその手を見つめると、彼女はにこっと笑った。
「私、今日、ハイヒールなのよね。だから走るときは足元に気をつけなきゃ。あなたが連れていってくれない?」
「走るんですか?」
「その方が、追手の意表を突けるでしょ? 道は任せます」
これは責任重大だ、とアレックスは差し出された手を取った。
その指は細く、華奢で──
「足をひねっても知りませんよ?」
──そう言ってクローディアの手を引いて駆け出すと、追跡者は思わず声を上げた。
(手を繋いだ! 手を繋いだ手を繋いだ手を繋いだ!! アレックス様から手を取った!!)
追跡者の頭の中は、もはや追跡どころではなかった。
◆◆◆
区画をぐるりと回り、アレックスが「近道です」と裏路地へ駆け込むと、驚いた猫が二人の前から走り去った。
建物の隙間から二人が飛び出すと、公道の向こうにアレックスの勤め先である古本屋が見えた。
「あそこです!」
馬車が来ていないことを確認して公道を渡ると、アレックスはクローディアの手を引いたまま扉を押し開けた。カランカランとドアベルが鳴る。
「いらっしゃ……アレックス!?」
肩で息をするアレックスを見て、年老いた店主は驚いた。
「出勤日は昨日だぞ……?」
「はぁ……はぁ……ちょっと……隠れさせてもらえます?」
アレックスは苦笑いした。
その彼が手を繋いでいるのは、サファイアブルーのウィッグをつけた女性だ。店主は目を丸くした。
「お前……! 貴族の女性と何してるんだ!?」
「あ、いや、これは……」
アレックスが返答に困っていると、息を整えたクローディアが困ったように笑い、何でもないとばかりに顔の横で手をぱたぱたと振った。
「ちょっとした遊びです。私、護衛をつけられていて……このままじゃデートの話、全部聞かれちゃうので……」
その一言がアレックスを凍りつかせた。
デート。
クローディアの一言は、彼にそれを自覚させるには十分だった。
◆◆◆
しばらくしても、追手が古本屋に入ってくる様子はなかった。
本が山積みになった店の奥で、クローディアは確かめるようにアレックスに声をかけた。
「撒けましたかね?」
「おそらく」
その答えを聞いて、クローディアはほっとした。
すると、アレックスが不思議そうに尋ねる。
「撒く必要あったんです?」
「あーりーまーすー。あれは四六時中一緒にいる側近の一人。それこそ、事情を知ってる友人でもある。遊びの種にされるに決まってるわ」
その言葉に、アレックスはなるほどと頷いた。
「それで、ここがあなたの勤め先なのね?」
ようやく落ち着いて周囲を見回しながら、クローディアは尋ねた。店主の反応から間違いないとは思ったが、念のためだ。
「ええ、まぁ、はい。……つまらない場所でしょ?」
アレックスは、ははっと苦笑いした。しかし──
「自分の仕事をそんなふうに言うものじゃないわ」
──鼻先に人差し指を突きつけられ、アレックスは黙った。
クローディアは積み上げられた本を一冊手に取ると、内容には目を通さず、ぱらぱらとページをめくってその状態を確かめた。
「こんなにボロボロ。この本はどんな経緯で前の持ち主の手に渡り、どうして手放すことになったのかしら……?
お金に困ったのかしら? それとも総集編に買い替えた?」
アレックスは彼女の言葉にはっとした。
ここには、捨てるに捨てられないものが流れ着く場所という側面もある。
客の事情をこちらから尋ねることは少ないが、向こうから話してくれることもあった。
「その本は、遺族が持ち込んだものです。所有者が亡くなったので、という話でした」
その本はまだ整理前の山にあり、買い取ったときのことをアレックスも覚えていた。
「そう……」
クローディアは本を閉じ、表紙をそっと撫でてから元の場所に戻した。
「それじゃあ、あの開き癖のついたページは、その亡くなった人にとって、とても大事だった場面なのね」
クローディアは、その本に宿った歴史を想像していた。
アレックスにはない着眼点だった。彼が確かめるのは、ページ数が揃っているか、何版で何年の刊行か、どんな内容なのかといった情報ばかりだったからだ。
(馬車のときと同じだ)
彼女は毛並みを見た。自分はナンバーを見た。
どちらも間違っていない。ただ、視野の焦点が違う。
それでもアレックスは、少し恥ずかしくなった。自分は人を見ていなかったのかもしれない、と思ったのだ。
「あなたは……とても優しいんですね」
彼女のような視野を持ちたい。そう思っての一言だった。しかし──
「さぁね?」
──クローディアは笑って小首をかしげた。
◆◆◆
しばらく古本屋で時間を潰したものの、「これじゃ仕事してるみたいだ」というアレックスの一言で、二人は店を冷やかすのをやめた。
外へ出ると、ちょうどおやつ時だった。しかし、先ほどカフェで腹ごしらえをした二人は、特に空腹でもない。少し手持ち無沙汰になっていた。
そんな折、クローディアがふと口を開いた。
「学校はどう? 楽しい?」
さりげない探りだった。仕掛けたのはクローディア。
アレックスは複雑そうに苦笑した。
「……どっちかわかりません」
「そうなの?」
「俺も友達が多い方じゃないんです。それこそ、クロードとマールくらいなもので……」
「クロードのことを友達って認めるんだ?」
「楽しいですもん」
アレックスは笑った。答えはシンプルだった。
「俺、学校じゃ結構疎まれてて、邪魔されたりするんですよ。なるべくあいつらの目につかないようにしてるけど、クロードみたいにあっけらかんとした相手ばかりじゃないんです」
その言葉を聞いて、クローディアは状況の深刻さを改めて知った。
(……こいつ……まさか……!)
「統合後の一年目が一番ひどかった。連れ出されて殴られたことも、一度や二度じゃない。あいつら、殴り方まで工夫してて、青あざが服の下に隠れるようにしてたんです。ノートを破られたこともあるし、単語帳をトイレに流されたこともある。物がなくなるなんてしょっちゅうで、金を取られたこともあります」
その言葉を聞いて、クローディアは腸が煮えくり返る思いだった。
(……同じ人間のすることかよ……!)
「そして、いつも悪く言われるのは俺だった。
丸く収めようとすると、俺ばかりがもっと苦しむと思った。
納得もできなかったし、腹も立ったし、だから反抗した。そのせいでクラスからは孤立した。
そして、“もういいや”って思ったわけです」
その言葉は、ズドンとクローディアの胸を撃ち抜いた。
自分もまた、彼を傷つける側にいたからだ。
(……僕も、加担していた側だ……!)




