その41
## 大神官
神殿の正門前へ、王家の紋章が刻まれた豪華な馬車が静かに到着した。
待機していた御者がすぐに降り、恭しく扉を開く。
そこから姿を現されたのは、第五王子――ゼアル殿下だった。
今日は普段以上にきちんとした正装に身を包み、背筋を伸ばして歩いてこられる。その立ち姿は実に堂々としており、先日の茶会で楽しそうにプリンを召し上がっていた時とは、また違った印象を受けた。
神殿の入口では、聖女様がお待ちになっている。
……朝から何度も髪型を確認されていたことは、黙っておくことにしよう。
ゼアル殿下のお姿が見えると、聖女様はほんの少しだけ背筋を伸ばされた。
やはり緊張しておられるらしい。
ゼアル殿下はそんな聖女様の前まで来ると、侍従から一つの花束を受け取った。
そして。
「……まあ」
周囲の侍女たちが小さく息を呑む。
殿下は聖女様の前で静かに片膝をつき、五本の赤い薔薇を束ねた花束を差し出された。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
「え?」
聖女様が目を丸くする。
「こちらを、受け取っていただけますか」
「私に?」
「はい」
ゼアル殿下は少し照れたように笑った。
「薔薇は五本ございます」
「五本?」
「ええ」
そして、聖女様を真っ直ぐ見つめる。
「今日、あなたに出会えたことに、心からの喜びを――そのような意味を込めました」
「…………」
聖女様が固まった。
今度は先日のような嫌そうな半目ではない。
完全に不意を突かれたらしい。
そして。
「まぁ……」
「素敵……」
背後に控えていた侍女たちから、小さな歓声が漏れた。
聖女様はおそるおそる花束を受け取ると、胸元へ抱きしめた。
赤い薔薇を見つめ。
次にゼアル殿下を見る。
そして、ふわりと笑われた。
「ありがとう」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
「すごく嬉しい」
「それなら、よかったです」
聖女様の笑顔を見て、ゼアル殿下も自然と表情を和らげられる。
そのまま殿下は立ち上がると、聖女様へそっと手を差し出された。
聖女様も一瞬だけその手を見つめたあと、今日は嫌がることなく手を重ねる。
そしてゼアル殿下は、聖女様の歩調に合わせながら馬車までゆっくりとエスコートされた。
まるで一枚の絵画のような光景だった。
朝から何度も、
『髪、おかしくない?』
『服、変じゃない?』
と騒いでおられた聖女様と同一人物とは思えない。
もっとも。
少し離れた場所から見れば、聖女様の耳が真っ赤なのはよく分かったが。
護衛を務めるイーナ殿も、一定の距離を保ちながら二人の後ろを歩いていく。
私はようやく胸を撫で下ろした。
(……順調ですな)
少なくとも。
今のところ、誰も三十メートル吹き飛ばされていない。
非常に良い出だしである。
――その時だった。
「大神官様」
声を掛けられ、振り返る。
先ほどゼアル殿下に付き従っていた侍従が、大きな木箱を抱えて大神殿の入口までやって来ていた。
「何でしょう?」
「こちらをお預かりいただけますでしょうか」
私は箱を受け取りながら首を傾げる。
「これは?」
「神殿にお仕えする侍女の皆様へ、第五王子殿下からのお品でございます」
「侍女たちへ……ですか?」
「はい」
侍従は深く一礼した。
「殿下より、『いつも聖女様を大切にお世話してくださり、ありがとうございます。皆様で召し上がってください』とのことでございます」
「……なるほど」
私は箱を開けた。
その瞬間。
周囲にいた侍女たちの目が、一斉に輝いた。
中には、王宮御用達の菓子職人が作った焼き菓子やチョコレート、季節の果物を使った砂糖菓子が、隙間なく美しく詰められていた。
「…………」
数秒の沈黙。
そして。
「きゃーーーー!」
歓声が上がった。
「王宮のお菓子!」
「本物!?」
「見て、あのチョコレート!」
「王子様から私たちに!?」
「すごい!」
先ほどまで、
『聖女様、落ち着いてくださいませ』
などと言っていた侍女たちとは思えないほどの騒ぎである。
「皆さん!」
私は思わず声を上げた。
「まだゼアル殿下がいらっしゃいますぞ!」
「はっ」
侍女たちが一斉に口を閉じる。
だが遅い。
完全に聞かれていた。
ゼアル殿下は少し照れくさそうに笑いながら、こちらへ振り返っておられた。
「皆様には、いつも聖女様がお世話になっておりますので」
そして、穏やかに続ける。
「ほんの気持ちです。皆様で召し上がってください」
「…………」
その一言で。
侍女たちは完全に心を射抜かれた。
「なんてお優しい……」
「私たち侍女にまで……」
「素敵すぎます」
「これは応援したくなりますわ」
「本当にお似合いでは?」
私は思わず苦笑した。
(敵がおりませんな)
本人へ花束。
聖女様を日頃支えている侍女たちへ菓子。
しかも恩着せがましくなく、あくまで自然。
(気遣いが完璧です)
これは強い。
非常に強い。
聖女様ご本人だけでなく、その周囲から好かれることがどれほど重要か。
ゼアル殿下が計算しておられるのか、それとも純粋にそういう性格なのかは分からない。
ただ。
おそらく後者なのだろう。
だからこそ、余計に強いのである。
やがて聖女様が馬車へ乗られると、ゼアル殿下は何かを小声で問いかけられた。
聖女様は少し考えたあと、にこりと笑って頷く。
「?」
何の話だろう。
するとゼアル殿下が侍従へ目配せされた。
侍従はすぐに別の花束を取り出す。
私は首を傾げた。
(まだございましたか)
ゼアル殿下はその花束を受け取ると、今度はイーナ殿の前へ歩み寄られた。
「ニーナ殿」
「はい?」
突然名前を呼ばれたイーナ殿が姿勢を正す。
ゼアル殿下は、八本のピンク色の薔薇を束ねた花束を差し出された。
「本日、聖女様をお守りくださること、心より感謝いたします」
「えっ?」
「これは、そのお礼です」
ニーナ殿が慌てて首を横に振った。
「い、いえ! 私は護衛でございますので!」
「はい」
「聖女様をお守りするのは当然の務めです。ですから、そのようなお礼をいただくわけには――」
受け取ろうとしない。
さすがは騎士である。
職務に対して贈り物を受け取ることへ抵抗があるらしい。
だが。
その時。
馬車の窓から、ひょこっと聖女様が顔を出した。
「ニーナ」
「聖女様?」
「受け取って」
「ですが――」
「ゼアル様が『ありがとう』って言ってくれてるんだから」
「…………」
ニーナ殿は聖女様を見る。
次にゼアル殿下を見る。
もう一度、花束を見る。
そして。
観念したように小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
両手で、丁寧に花束を受け取る。
その顔は。
見事なまでに赤かった。
「よくお似合いです」
ゼアル殿下が穏やかに微笑まれる。
「っ……ありがとうございます」
さらに赤くなった。
私は思わず口元を緩める。
八本のピンクの薔薇。
その花束には、相手の思いやりや励ましへの感謝を示す意味が込められているという。
そして柔らかなピンク色には、感謝や上品さ、しなやかな優しさを表す意味もある。
聖女様を守る騎士へ贈るものとして、実に相応しい。
周囲の侍女たちも、その光景へ完全に見惚れていた。
「まぁ……」
「護衛の方にまで花束を……」
「私たちにはお菓子で……」
「気配りが完璧ですわ」
「これはもう……」
誰もがゼアル殿下へ好印象を抱いている。
私は小さく笑った。
(なるほど)
このお方は。
(人の心を掴むのがお上手ですな)
私は改めて、ゼアル殿下のお姿を見つめた。
礼儀正しい。
穏やかで。
優しく。
周囲への気遣いもできる。
美味しいものが大好きで、その話になると少し子供っぽく目を輝かせる。
王族だからと威張ることもなく、侍女や料理人にも自然に礼を述べられる。
実に良いお方である。
(これで……)
私は少し考える。
(もう少しだけ、すらりとしておられれば)
王子としては、ほぼ完璧なのかもしれない。
ゼアル殿下は少々ふっくらとした体格をしておられる。
兄である第四王子殿下と並べられ、そのことを何度も比較されてきた。
だが。
私はすぐに考え直した。
そもそも。
聖女様だって完璧ではない。
時々どころか、かなりおっちょこちょいである。
思いつきで行動され。
禁書を読まれ。
聖獣を召喚され。
神々と気軽に話し。
好きな人とのお出掛け前には、五分おきに髪型を確認される。
完璧とは程遠い。
けれど。
だからこそ周囲の人間が笑う。
助けたくなる。
一緒にいたいと思う。
ならば。
完璧すぎる人間同士より。
少しだけ足りないところのある者同士の方が、案外うまく寄り添えるのかもしれない。
ゼアル殿下は、美味しいものを前にすると少し夢中になる。
聖女様も同じ。
聖女様は時々、とんでもないことを始める。
ゼアル殿下なら、それを困りながらも笑って受け止めてくださるような気がする。
私はゆっくりと頷いた。
「……お似合いかもしれませんな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
やがて御者が手綱を取り、馬車がゆっくりと動き始める。
窓から聖女様が顔を出し、嬉しそうに手を振られた。
「いってきまーす!」
「お気をつけて!」
侍女たちが一斉に手を振り返す。
ゼアル殿下も窓越しに穏やかに微笑んでおられた。
そしてニーナ殿は、ピンクの薔薇を大事そうに抱えたまま護衛用の馬車へ向かっていく。
私は遠ざかっていく馬車を眺めながら、静かに祈った。
(どうか)
今日一日が。
(平和に終わりますように)
聖女様とゼアル殿下が美味しいものを食べ。
王都を歩き。
楽しく笑って。
何事もなく帰ってこられる。
それだけで十分である。
もっとも。
長年、聖女様にお仕えしてきた私には分かっている。
聖女様とご一緒する時の、
『何事もなく平和に終わる』
という言葉は――。
世間一般で使われる『平和』とは。
少々、意味が違うのである。




