その40
## 大神官
今日は朝から、聖女様のご様子がおかしかった。
何がおかしいのかと言えば――とにかく落ち着きがないのである。
朝の身支度を終えられてから、まだそれほど時間も経っていないというのに、聖女様は鏡の前へ立ったり、椅子へ座ったり、また立ち上がったりを繰り返しておられた。
「ねぇ」
聖女様が不安そうに鏡を覗き込む。
「髪の毛、おかしくない?」
すぐ傍に控えていた侍女が、優しく微笑んだ。
「大丈夫でございます、聖女様。今日はいつも以上にお綺麗ですよ」
「ほんと?」
「はい。とてもよく整っております」
「ならいいんだけど……」
聖女様は少し安心したように頷き、ようやく椅子へ腰掛けられた。
これで落ち着かれるかと思った。
――一分後。
すっと立ち上がる。
「ねぇ」
「はい?」
「この服、変じゃない?」
別の侍女が、思わずくすりと笑った。
「とてもお似合いでございますよ」
「本当に?」
「はい。今日の聖女様は特別お美しいです」
「そっかぁ」
聖女様は満足そうに頷かれる。
そして、もう一度椅子へ。
――三十秒後。
また立ち上がった。
「リボン曲がってない?」
「大丈夫でございます」
「靴は?」
「問題ございません」
「顔に何かついてない?」
「何もついておりませんよ」
「寝癖は?」
「先ほど整えたばかりでございます」
「ほんと?」
「本当でございます」
侍女たちは誰一人として嫌な顔をしない。
むしろ皆、微笑ましいものを見るような表情で聖女様のお世話をしていた。
「とても素敵ですよ、聖女様」
「可愛らしゅうございます」
「今日のお召し物も、よくお似合いです」
そこまで言われて、聖女様はようやく安心したように笑われた。
「それならいいんだけどー」
そして再び椅子へ腰掛ける。
私は小さく息を吐いた。
今度こそ落ち着かれるだろう。
――そう思ったのだが。
数秒後。
聖女様はまた立ち上がった。
「…………」
さすがに私は、ため息を隠せなかった。
「聖女様」
「はい?」
「淑女たるもの、身だしなみだけでなく落ち着きも大切でございますぞ」
「うっ」
聖女様は少し困ったように頬をかかれた。
「でもー」
「でも?」
「だって……」
もじもじと指を合わせる。
そして、小さな声で続けられた。
「緊張するんだもん」
その言葉に、侍女たちは一斉に顔を見合わせた。
やがて、くすくすと小さな笑い声が広がる。
聖女様が頬を膨らませた。
「笑わないでよー」
「申し訳ございません」
「ですが、聖女様がこのように緊張されるお姿は珍しいものですから」
「だって初めてなんだもの」
「初めて?」
「王子様と一緒に町へ行くの」
なるほど。
そういうことであったか。
今日は、第五王子殿下――ゼアル様と、聖女様たちがお出掛けになる日である。
先日の茶会で意気投合され、
『今度みんなで王都へ遊びに行きましょう』
という話になった。
その時はあれほど嬉しそうにしておられたというのに、いざ当日となれば、この有様である。
私は少しだけ微笑んだ。
「聖女様」
「なぁに?」
「ゼアル殿下は、誠実なお方でございます」
「……うん」
「先日も、食べ物のお話をされる時のお顔を拝見すれば、そのお人柄は十分に伝わってまいりました」
聖女様が少しだけこちらを見る。
「そうかな?」
「はい」
私は頷いた。
「人の話をきちんと聞き、料理人にも礼を忘れず、誰に対しても穏やかに接しておられました。ご一緒に町を歩かれたからといって、何か心配なさる必要はございません」
「……そっか」
聖女様は少しだけ肩の力を抜かれた。
だが。
まだ完全には安心していないらしい。
鏡へちらりと視線を向ける。
私は続けた。
「それに」
「なに?」
「ゼアル殿下も、今頃は聖女様と同じように緊張しておられるかもしれませんぞ」
「え?」
聖女様が目を丸くする。
「王子様も?」
「もちろんでございます」
「でも王子様よ?」
「王子殿下であっても、一人の男性でございますからな」
私は穏やかに笑った。
「好きな方とのお出掛けとなれば、男性でも緊張するものです」
「…………」
聖女様はしばらく黙った。
どうやら、その発想がなかったらしい。
「王子様も……緊張するの?」
「おそらくは」
「髪の毛とか気にしてる?」
「そこまでは存じませんが」
侍女たちがまた笑いを堪え始めた。
聖女様は少し考え込んでいたが、やがて。
ふわりと笑われた。
「そっか」
その笑顔は、先ほどまでよりずっと自然だった。
「私だけじゃないんだ」
「左様でございます」
私は頷く。
「ですから、いつもの聖女様でよろしいのです」
「いつもの私?」
「はい。美味しいものを食べて、楽しくお話をして、皆様と笑っておられれば、それで十分でございましょう」
「……うん」
聖女様は素直に頷かれた。
その様子を見ていた侍女たちも、ほっとしたように顔を見合わせる。
私もようやく胸を撫で下ろした。
これで少しは落ち着かれるだろう。
そう思った。
――五分後。
「ねぇ!」
神殿中に、聖女様の声が響き渡った。
「本当に髪の毛大丈夫!?」
「…………」
私は静かに天を仰いだ。
どうやら。
何も解決していなかったらしい。
侍女たちはとうとう笑いを堪えきれず、口元へ手を当てている。
「大丈夫でございますよ、聖女様」
「ですが、念のためもう一度整えましょうか?」
「お願い!」
聖女様はすぐに鏡の前へ座られた。
侍女たちが優しく髪を梳き、ほんの少しだけリボンの位置を直していく。
私はその光景を眺めながら、小さく息を吐いた。
これまで。
神々を前にしても怯まず。
王族を前にしても平然とし。
国の命運すら背負って笑っておられた聖女様が。
今日はたった一人の王子殿下とのお出掛けを前に、朝から髪型一つで大騒ぎしている。
何とも不思議なものである。
だが。
私はそんな聖女様の姿を見て、少し嬉しくもあった。
聖女という立場でも。
神々に愛された特別な存在でも。
こうして好きな殿方を前にすれば緊張し、少しでも可愛らしく見られたいと願う。
聖女様も。
やはり、一人の年頃の少女なのだ。
私は再び天井を見上げ、心の中で静かに呟いた。
(……ゼアル殿下)
どうか本日は。
この、可愛らしくも少々落ち着きのない聖女様を。
(よろしくお願いいたしますぞ)
そんな私の思いなど知らず。
聖女様は鏡へ顔を近づけながら、もう一度だけ侍女へ尋ねていた。
「ねぇ」
「はい?」
「本当に、可愛い?」
侍女はにっこりと笑う。
「はい。とても」
その答えを聞いた聖女様は。
ようやく。
ほんの少しだけ、安心したように笑われた。




