その39
## 帝国第二皇子 アルベルト
兄上が、プリン王国で開かれた国際会議から帰還された。
――丸坊主で。
その姿を初めて見た時、私は本気で自分の目を疑った。
「兄上……?」
出発前まで確かにあった髪が、一本残らず消えている。
たった一週間ほど外国へ赴いただけで、どうすればそんなことになるのか。まるで想像もつかなかった。
だが、兄上は何も語らなかった。
帰国するとすぐ自室へ閉じこもり、誰とも会おうとしなくなったのである。
第一皇妃殿下は毎日のように見舞いへ向かわれていたが、それでも兄上が部屋から出てくることはなかった。
侍従たちも口を閉ざし、国際会議へ同行した者たちまで、何かを恐れるように詳しい事情を話そうとしない。
何があった。
プリン王国で、一体何が。
そう思っていた矢先だった。
さらに数日後。
宮廷中を揺るがす知らせが発表された。
第一皇子、皇位継承権剥奪。
そして――皇籍離脱。
あまりにも突然の決定だった。
当然、第二皇子である私の継承順位が繰り上がる。
そして私は、その日を境に皇太子となった。
宮廷の空気は一変した。
これまで兄上の周囲に集まっていた者たちの一部は、驚くほど素早く私のもとへ集まり始めた。
「殿下、これで我らの時代でございます!」
「国内をまとめ、今こそ帝国の威光を大陸へ示すべきです!」
「いずれは大陸制覇を!」
「プリン王国など、恐るるに足りません!」
私は彼らの言葉を聞きながら、内心で冷めていた。
(……馬鹿だ)
兄上は、そのプリン王国から帰ってきた途端に丸坊主になり、自室へ閉じこもった。
そして数日後には、皇位継承権どころか皇籍まで失ったのだ。
その状況を見てなお、
『プリン王国など恐るるに足りない』
などと口にできる神経が、私には理解できなかった。
むしろ。
だからこそ知る必要がある。
兄上に、一体何があったのか。
皇太子となった今、それを知らぬままでは済まされない。
私は皇帝陛下へ謁見を願い出た。
「陛下」
父上――皇帝陛下の前で、私は深く頭を下げた。
「兄上に何があったのでしょうか」
父上は何も答えられなかった。
私は続ける。
「これまで私は、兄上が皇位を継がれるものと思っておりました。しかし今や、その立場は私に移っております」
「……うむ」
「皇太子となった以上、今回の件について知っておくべきかと存じます」
父上は長く沈黙された。
その表情は重い。
やがて宰相へ視線を向けると、静かに命じられた。
「人払いを」
「はっ」
侍従や護衛たちが部屋から退出していく。
最後に扉が閉じられた時、室内に残っていたのは父上と私、そして宰相だけだった。
しばらくして、父上がようやく口を開かれた。
「……よかろう」
その声には、普段の皇帝としての威厳とは別の重さがあった。
「お前ならば、知っておいた方がよい」
「ありがとうございます」
父上は椅子へ深く腰掛けると、静かに語り始めた。
「アルベルト。我が帝国ではあまり広く知られておらぬが、プリン王国には聖女様がおられる」
「存じております」
私は頷いた。
「神殿の象徴であり、王国でも高い権威を持つ女性だと」
「権威の象徴、か」
父上は僅かに苦笑された。
「……私の認識は間違っておりますか?」
「かなりな」
父上は首を横に振った。
「あのお方は、単に聖女という地位を与えられた少女ではない」
一拍置かれる。
「神々に愛された、本物の聖女だ」
「……神々に愛された?」
思わず眉を寄せる。
比喩かと思った。
だが、父上の顔は真剣だった。
「そうだ。プリン王国を覆っている結界については知っておるな?」
「魔物を寄せ付けない巨大結界、と聞いております」
私は少し考えてから付け加えた。
「もっとも、多少は誇張された話なのではないかとも思っておりますが」
父上は小さく笑われた。
だが、それは愉快だからではない。
「違う」
「……違う?」
「本当に、あの国にはほとんど魔物が現れぬ」
私は黙った。
「そして、あの結界は単なる魔物避けではない」
「では、他にも何か?」
「ある」
父上は少し遠くを見るような目をされた。
「これは、まだ聖女様が赤子であられた頃の話だ」
私は思わず姿勢を正した。
「お生まれになったその日、神託が下った。そして間もなく、プリン王国の国境を包み込むように巨大な結界が形成された」
「生まれた……その日に?」
「ああ」
にわかには信じ難い。
だが父上は、そのまま話を続けられた。
「当時、我が帝国とプリン王国は国境地帯の領有を巡って揉めていた」
「それは記録で読んだことがあります」
「ならば話は早い。そこへ突然、プリン王国側に有利な形で結界が形成された」
私は眉を寄せた。
「それでは、帝国側からすれば受け入れ難いでしょう」
「当然だ。先帝もそう考えられた」
「まさか……」
「戦になった」
父上は静かに言った。
「もっとも」
そこで、わずかに皮肉そうな笑みを浮かべる。
「戦と呼べるものだったかは怪しいがな」
私は意味が分からず、黙って続きを待った。
「先帝は親征を決断された。問題となった国境近くにはプリン王国側の砦があったが、それほど大きなものではなかった」
「ならば帝国軍なら容易に落とせると?」
「誰もがそう考えた」
父上は頷く。
「兵を整列させ、弓兵が一斉に矢を放った」
「結果は?」
「一本残らず、結界に弾かれた」
私は思わず目を見開いた。
「一本残らず……ですか?」
「一本残らずだ」
「偶然では?」
「数度繰り返した」
「……それでも?」
「同じだった」
言葉が出なかった。
「そこで先帝は、遠距離攻撃が通らぬなら接近戦だと判断された。兵を結界内へ突入させた」
それは自然な判断だろう。
私はそう思った。
だが。
「プリン王国側の兵へ剣を振るった瞬間――剣が溶けた」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出る。
父上は気にせず続けた。
「槍は真ん中から折れた。鎧は留め金が勝手に外れ、兵の身体から脱げ落ちた。盾は砕け、弓は弦が切れた」
「…………」
想像してみる。
敵へ斬りかかろうとすれば、剣がなくなる。
槍を構えれば折れる。
鎧さえ脱げ落ちる。
それでは。
「……戦いにすらならない」
私が呟くと、父上は頷かれた。
「その通りだ」
帝国軍は負けたのではない。
戦うことそのものを許されなかったのだ。
「先帝は、その場で戦闘続行を断念された。そして帰国後、プリン王国へ正式に謝罪し、今回の判断の責任を取って退位された」
「そこまで……」
「ああ」
父上は静かに紅茶へ手を伸ばした。
「プリン王国側も帝国の事情を理解してくださった。その後の外交や貿易では、むしろ様々な配慮までしていただいている」
私はしばらく何も言えなかった。
これまで私が学んできた帝国史では、あの国境紛争は曖昧に記されていた。
先帝が外交上の失敗を理由に退位した、と。
その裏に。
そんな出来事があったとは。
父上は真っ直ぐ私を見る。
「アルベルト」
「はい」
「お前は次の皇帝となる可能性が最も高い」
声が強くなる。
「ゆえに、皇帝としてではなく、父として命じておく」
私は背筋を伸ばした。
「決して、プリン王国を敵に回すな」
「…………」
「大陸制覇などと唱える貴族どもの言葉に耳を貸すな。もし、この大陸を武力で制することのできる国が存在するとすれば」
父上はそこで一度言葉を切った。
「それは帝国ではない」
そして。
「プリン王国だ」
私は息を呑んだ。
大陸最大の軍事国家。
そう自負してきた帝国の皇帝が、自らそう言ったのだ。
「ですが……プリン王国に、そのような動きはありません」
「そうだ」
父上の表情が少しだけ和らいだ。
「あの国は望んでおらぬ」
「……大陸制覇を?」
「領土拡大そのものに興味が薄い。そして何より、聖女様が戦をお嫌いだ」
「聖女様が?」
「ああ」
父上はゆっくりと頷かれた。
「だから世界は平和なのだ」
その言葉は妙に重かった。
プリン王国は。
世界を制する力を持ちながら。
それを使わない。
それがどれほど大きな意味を持つのか、皇太子となった今なら少し分かる気がした。
私は、ずっと聞きたかったことを尋ねた。
「……では」
「うむ」
「兄上は、一体何をなさったのですか」
父上が目を閉じた。
先ほどまでとは違う。
本当に頭が痛そうな顔だった。
「……聖女様を何度も侮辱した」
私は眉をひそめる。
「侮辱?」
「最初から、聖女様を神殿の飾り程度に考えていたらしい」
父上は重い声で続ける。
「『本物の聖女なら奇跡を見せてみろ』」
「……兄上が?」
「さらに」
父上は額を押さえた。
「『奇跡も見せられぬなら、帝国へ来て妾にでもなればよい』と」
「…………」
今度こそ言葉を失った。
しばらくして、ようやく声が出る。
「……それを、本人へ?」
「ああ」
「プリン王国の中で?」
「ああ」
「国際会議の席で?」
「……ああ」
私は両手で顔を覆いたくなった。
兄上。
何をしているのですか。
「それで……丸坊主に?」
「その場でな」
父上は淡々と答える。
「そして」
「……まだ何か?」
父上は一瞬、言いにくそうに私から視線を逸らされた。
宰相も同じように目を伏せている。
嫌な予感がした。
「兄は……不能になった」
「…………」
部屋が静まり返った。
私は何も聞かなかったことにしたかった。
しかし、もう聞いてしまった。
「……永久に、ですか?」
「今のところ、神官にも治療法が分からぬそうだ」
「…………」
兄上が自室から出てこない理由を、ようやく理解した。
髪だけではなかったらしい。
父上は深くため息をつかれる。
「だから皇位継承権を残すことはできなかった」
「……理解いたしました」
「アルベルト」
父上の声が変わった。
冗談の余地など一切ない、皇帝の声だった。
「誤解するな」
「はい」
「聖女様を恐れる必要はない」
「……恐れる必要がないのですか?」
ここまで聞かされた後では、むしろ恐れるなという方が難しい。
だが父上ははっきりと頷かれた。
「敬意を払い、礼を尽くせ。それだけでよい」
「それだけ?」
「それだけだ」
父上は少しだけ笑われる。
「あのお方は、普通に接する者には驚くほど優しい」
宰相も静かに頷いた。
「プリン王国の民が聖女様を慕っているのも、力を恐れているからではございません」
「では?」
「何年も民を守り、町を歩き、子供たちと話し、店で菓子を買い、困っている者がいれば助けてこられたからです」
私は少し意外に思った。
もっと。
神殿の奥深くで崇められている存在を想像していた。
「……普通に町へ出られるのですか」
「頻繁にな」
父上が苦笑する。
「聞くところによれば、最近は友人たちと菓子店巡りをしておられるそうだ」
「…………」
先ほどまでの話との落差が激しい。
世界最強級の結界を生まれた日に張り。
帝国軍を戦うことすらできない状態にし。
兄上を一瞬で丸坊主にした聖女が。
菓子店巡り。
「ですから」
父上は私を真っ直ぐ見つめた。
「礼を尽くせ」
「はい」
「だが媚びる必要もない」
「……はい」
「一人の女性として普通に接しろ」
私はゆっくり頷いた。
父上は最後に、重い声で付け加えた。
「ただし」
「はい」
「あのお方の優しさを、弱さだと勘違いするな」
部屋の空気が再び引き締まる。
「その優しさを踏みにじる者には――」
父上は一度、兄上がいるであろう宮殿の方角へ視線を向けた。
「神々すら、容赦しない」
「…………」
私は静かに立ち上がった。
そして皇太子としてではなく、一人の息子として。
父上へ深く頭を下げた。
「……肝に銘じます」
「うむ」
その日。
私は皇太子となって最初に学ぶべきことを知った。
帝国の軍備でも。
貴族派閥の扱いでも。
税でも外交でもない。
この大陸で決して見誤ってはならない相手。
プリン王国。
そして――。
その国で、今日も友人たちと笑いながら菓子でも食べているであろう。
聖女様という、一人の少女についてであった。




