その38
## 第一王子 メルヴィン
「陛下。また聖女様が何かやらかしたと聞きましたが」
私がそう切り出すと、父上――国王陛下は紅茶を一口飲み、どこか困ったように苦笑された。
「そうだな。まあ、実害がないのであれば良いではないか」
「実害がない、で済ませるのですか?」
私は思わず声を強めた。
「王族に直接手を上げたわけではありませんが、エドワードを三十メートルも吹き飛ばしたのですよ」
「そうだな」
父上は、まるで天気の話でもするように頷く。
「だが、エドワードに怪我はなかった。大げさにすることでもあるまい」
「しかし陛下」
私は納得できなかった。
「ここで王家の威信を示さなければ、貴族はもちろん、民にまで侮られます」
その言葉を聞いた父上は、深くため息をつかれた。
そして、先ほどまでの穏やかな表情を少しだけ引き締める。
「第一王子、メルヴィンよ」
「はい」
「我が国が、これほど長く平和を維持できている理由は何だ。答えてみよ」
突然の問いだったが、答えは明白だった。
「聖女が張る結界です。それは理解しております」
「ならば話は早い」
「ですが」
私は続ける。
「聖女が国を守る者であるなら、必要な時には王家が命じて結界を張らせればよいだけの話ではありませんか」
その瞬間。
父上の表情が、はっきりと険しくなった。
「……もし、聖女が拒んだら?」
私は迷わず答えた。
「騎士団を派遣し、必要であれば制圧いたします」
部屋の空気が変わった。
私はそれに気づかず、さらに続ける。
「あるいは、教会を禁教にするとでも通告すればよいでしょう。王家に逆らうことが何を意味するのか理解すれば、さすがに従うはずです」
「…………」
部屋が静まり返った。
父上は額へ手を当て、大きく息を吐かれる。
その顔には怒りよりも――失望が滲んでいた。
「お前は……何も分かっておらん」
「陛下?」
「王妃」
父上が母上へ視線を向ける。
「どうしたものか」
母上は少し困ったように微笑まれた。
「そうですね。知らぬままでは、理解しろという方が難しいのかもしれません」
そして、私を見る。
「メルヴィン」
「はい、母上」
「貴方は、神殿で保管されている神託の記録を見たことがありますか?」
「ございません」
私は首を横に振った。
「王族であっても、大神官や国王の許可がなければ閲覧できない記録があることは存じておりますが」
「では、今日だけ特別に見せましょう」
私は少し驚いた。
父上も静かに頷かれる。
「よい。大神官には私から話を通す」
そして、真っ直ぐ私を見られた。
「メルヴィン。お前はまだ、聖女殿を『非常に強い力を持った一人の少女』としか見ておらぬ」
「違うのですか?」
「違う」
父上は即答された。
私は眉を寄せる。
「何が違うのでしょう」
今度は母上が口を開いた。
「数年前、神殿で一つの神託が下りました」
母上の声は穏やかだった。
けれど、その表情は笑っていない。
「その内容を聞いた大神官と枢機卿たちは、全員顔面蒼白になったそうです」
「枢機卿全員が?」
「ええ」
そこまで言われれば、さすがに私も興味を引かれた。
身を乗り出して尋ねる。
「どのような神託だったのですか」
父上が静かに答えられた。
「神は、こう告げた」
部屋の空気が重くなる。
「『聖女がこの国を嫌うというなら、滅ぼそう』」
「…………」
「『聖女がこの世界を嫌うというなら、滅ぼそう』」
私は息を呑んだ。
父上はさらに続ける。
「そして――『聖女と、その魂を共にする者たちを連れ、新たな世界へ旅立つこととする』」
「…………そんな」
すぐには理解できなかった。
「それは……神話や比喩ではなく、本当に神託として下ったのですか?」
「そうだ」
父上は短く答えられた。
「神殿が正式に記録し、王家にも報告された神託だ」
私は何も言えなくなる。
父上は続けた。
「そして、その神託が下ってから三日後」
「……三日後?」
「聖女殿は、聖域へ引き籠もられた」
私は顔を上げた。
「なぜです?」
「当時の大神官と聖女殿の関係が悪化したことが原因だった」
母上が補足される。
「ほんの些細な行き違いから始まったそうです。ですが、聖女殿は傷つき、誰とも会おうとされなくなった」
「神殿は大混乱となった」
父上が続ける。
「なにしろ、その直前にあの神託が下っていたのだ」
もし聖女様が本当にこの国を嫌ったら。
もし世界そのものを嫌ったら。
神は――。
私はようやく、その意味を理解し始めた。
「まさか……本当に世界が滅びるかもしれないと?」
「誰にも否定できなかった」
父上は静かに答えた。
「神がわざわざ、あれほど明確な言葉を残されたのだ。『そんなことは起きない』と誰が断言できる?」
「…………」
「だから当時の大神官は即日交代となった。枢機卿たちも昼夜を問わず謝罪し、何とか聖女殿のお心を取り戻そうとした」
「それで……聖女様は戻られたのですか?」
母上が首を横に振られた。
「いいえ」
「では、誰が?」
「ヘレナ嬢とスージー嬢です」
「……あの二人が?」
「ええ」
母上は優しく微笑まれた。
「二人は聖域へ入り、聖女殿のお話を聞き、寄り添い、そして笑顔で外へ連れ戻してくださったそうです」
父上も頷かれる。
「その時、この国は救われたのだ」
「…………」
大げさな言い方には聞こえなかった。
もし神託が本当に神の意思を表していたのなら。
あの日、聖女様が笑顔を取り戻したこと。
それ自体が。
本当に国を――世界を救ったことになる。
私はしばらく何も言えなかった。
そんな私を見ながら、父上は少しだけ表情を和らげられた。
「メルヴィン」
「……はい」
「我々が聖女殿を大切にする理由は、怖いからではない」
「…………」
「感謝しているからだ」
その言葉は、とても静かだった。
「聖女殿は、国王に命じられたから国を守っているのではない」
父上は窓の外へ視線を向ける。
「民が笑って暮らせることを望んでおられる。その結果として、あの結界が張られているだけなのだ」
「結果として……?」
「ああ」
「誰一人、聖女殿へ『国を守れ』と命じたことなどない」
母上も優しく頷かれる。
「だから、王家は聖女殿へ命令しません」
「お願いをするだけ、ですか」
「ええ」
母上は微笑まれた。
「お願いして、断られたのであれば、それで終わりです」
「王家の命令に従わなくても?」
「もちろんです」
「しかし……」
母上は静かに私の言葉を遮った。
「聖女殿の自由を奪えば、聖女殿はこの国を嫌いになるかもしれません」
「…………」
「だから私たちは、あのお方が自由に笑って暮らせることを守るのです」
父上が頷く。
「それが結果として、国を守ることにも繋がる」
私は俯いた。
自分が先ほどまで口にしていた言葉を思い出す。
騎士団を派遣する。
制圧する。
禁教を盾に脅す。
今になって考えれば。
それはすべて。
聖女様へ、この国を嫌う理由を与える行為だった。
「……私は」
言葉が詰まる。
父上は黙って待っておられた。
「聖女様を、国に仕える者だと思っていました」
「多くの者が、最初はそう考える」
「力を持っているのだから、その力を国のために使う義務があるのだと」
「うむ」
「ですが……違うのですね」
父上は穏やかに頷かれた。
「違う」
「聖女殿が国のために存在するのではない」
一拍置く。
「我々が、聖女殿が笑って暮らせる国を作らねばならぬのだ」
その言葉を聞いた時。
私は初めて。
父上と母上が、なぜあれほどまでに聖女様へ敬意を払っているのか。
なぜ王家でありながら命令せず、お願いという形を取るのか。
そして。
なぜエドワードが三十メートル吹き飛ばされた程度で、
『まあ怪我がないなら良い』
などと言えるのか。
ほんの少しだけ――。
理解できた気がした。




