その31
## ルナ
その瞬間だった。
ゴォォォォ……。
低い唸りのような音が響いたかと思うと、稽古場の床一面に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
「……え?」
誰も動けなかった。
ついさっきまで笑い声が響いていた稽古場が、一瞬にして静まり返る。
魔法陣は眩い光を放ち、空気中の魔力が渦を巻くように集まり始めた。
「ちょっ……」
私は思わず一歩後ずさった。
「えぇぇぇぇ!?」
一番大きな声を上げたのはニーナだった。
先ほどまで格好よく槍を構えていた姿はどこへやら、顔を真っ青にして魔法陣を見下ろしている。
「な、何で!? 何で本当に来るのよ!?」
「ニーナが呼んだんじゃないの!?」
「違います!」
ものすごい勢いで否定された。
「私ではありません! そもそも私、召喚魔法など使えませんから!」
「でも、さっき『出でよ』って」
「あれは台詞です!」
「じゃあ何で出てくるの!?」
「私が聞きたいです!」
劇団員たちは慌てて壁際まで避難し、ヘレナとスージーも目を丸くしたまま魔法陣を見つめている。
ところが。
聖女様だけは違った。
「わぁぁぁ!」
ぱぁっと目を輝かせ、楽しそうに両手を合わせている。
「ニーナ! すごーーい! 本当に召喚しちゃった!」
「ですから私ではありません!」
「でも格好いいわ!」
「そういう問題ではございません!」
ニーナの必死の叫びが稽古場へ響く。
その一方で、元大神官様だけは額へ手を当て、すでに何かを諦めたような顔をしていた。
「……まあ」
深いため息を一つ。
「禁書庫に封じられていた神話時代の書物でございますからな」
「大神官様!?」
ニーナが振り向く。
「起きても不思議ではないのかもしれません」
「そんな簡単に納得しないでください!」
「私もできれば納得したくありません」
元大神官様の声には疲れが滲んでいた。
けれど、そんな私たちの騒ぎなどお構いなしに、魔法陣へ集まる魔力はさらに強くなっていく。
光が中央へ収束する。
「何か来る……!」
誰かが叫んだ。
私は反射的に身構えた。
魔王。
悪魔。
巨大な魔獣。
それとも神話に出てくるような、とんでもない何か。
頭の中に嫌な想像が次々と浮かぶ。
ニーナも槍を握り直し、聖女様の前へ出ようとした。
そして――。
パァァァァン!!
眩い光が一気に弾けた。
「きゃっ!」
全員が目を閉じる。
やがて光が収まり、稽古場に静寂が戻った。
私は恐る恐る目を開く。
魔法陣の中央に――。
何かいる。
小さい。
とても小さい。
四本足。
丸い身体。
くるんと巻いた尻尾。
そして。
「ぶー」
一匹の小さな子豚が立っていた。
「…………」
誰も声を出さない。
「ぶーぶー」
子豚はもう一度鳴いた。
「…………」
平和だった。
あまりにも平和だった。
つい数秒前まで、魔王でも出てくるのではないかと本気で身構えていた自分が馬鹿みたいだ。
そして私は――。
いや。
たぶん、その場にいた何人かは同じことを考えたと思う。
(……美味しそう)
ふっくらしている。
実に健康そうな子豚だった。
もちろん口には出さない。
そんな私たちの邪な考えなど知らず、子豚は尻尾をふりふりしながら辺りを見回した。
そして聖女様を見つけると、
「ぶぅ!」
嬉しそうに鳴いて、てくてくと歩き始めた。
真っ直ぐ聖女様のもとへ向かい、その足元でちょこんと座る。
「あら?」
聖女様がしゃがみ込む。
「ぶぅ」
子豚が鼻先を聖女様の手へ押しつけた。
その瞬間。
聖女様の顔が輝いた。
「かわいいーーー!」
両手でわしゃわしゃと頭を撫でる。
「ぶー♪」
子豚も実に嬉しそうだった。
その様子を見届けたニーナは、その場へ力なく座り込んだ。
「……よかった」
槍を抱えたまま、大きく息を吐く。
「本当によかった……魔王とかじゃなくて……」
元大神官様も心底同意するように頷いた。
「ええ。私も邪神か、少なくとも上位悪魔でも現れるのではないかと思いました」
「縁起でもないこと言わないでください!」
「終わったから言えるのでございます」
私も少しだけ緊張が解けたところで、首を傾げた。
「でも……どうして子豚なんでしょう?」
「確かに」
スージーも不思議そうに子豚を見る。
「神話時代の召喚魔法なんでしょう?」
「普通の子豚には見えるわね」
ヘレナがそう言うと、元大神官様が何か思い出したように禁書を手に取った。
「少々お待ちください」
ぱらり。
ぱらり。
古い頁を慎重にめくっていく。
「ああ……ございました」
「何て書いてあるの?」
聖女様が子豚を抱き上げたまま近づいてくる。
私たちも自然と本の周りへ集まった。
元大神官様が、古い文字をゆっくり読み上げる。
「『契約者の魂に応じ、もっとも相性の良い聖獣の幼体が現れる』……とございます」
「聖獣?」
私は思わず子豚を見る。
「これが?」
「ぶー?」
子豚も首を傾げた。
どう見ても子豚だ。
聖女様が抱きかかえている姿など、完全に牧場から連れてきた子豚にしか見えない。
けれど元大神官様は、さらに頁をめくった。
「待ってください。猪型の聖獣について記述がございますな」
「猪?」
「はい。神話時代に語られる神聖なる猪――グリンブルスティ」
元大神官様の声色が、わずかに変わった。
「豊穣神フレイに仕えたとされる聖獣でございます」
「へぇー!」
聖女様は嬉しそうに子豚を持ち上げる。
「この子、そんなに凄いの?」
「伝承通りの存在であるならば、ですが」
元大神官様は本へ視線を落とした。
「黄金のたてがみを持ち、その輝きは暗闇を昼のように照らす。また陸だけでなく、海や空すら駆けることができたと記されております」
「空も飛ぶの!?」
「成長すれば、ということでしょうな」
私たちは改めて子豚を見る。
「ぶー」
……飛びそうには見えない。
「さらに、豊穣と繁栄、太陽の象徴ともされ、神々の宝の一つとして数えられたともあります」
「…………」
稽古場が再び静まり返った。
さっきまで、
『美味しそう』
と思っていた子豚が、突然とんでもない存在になった。
私はそっと視線を逸らした。
(ごめんなさい)
心の中で謝っておく。
子豚――いや、聖獣はそんなことなど知らず、聖女様の腕の中で気持ちよさそうに鼻を鳴らしていた。
聖女様はその顔をじっと見つめる。
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「今日から、あなたのお名前は――」
元大神官様が僅かに身構える。
私も身構えた。
神話級の聖獣。
豊穣と太陽を象徴する存在。
きっと、それに相応しい荘厳な名前を――。
「ポークちゃん!」
「ぶー!」
子豚は元気いっぱいに返事をした。
「…………」
元大神官様が目を閉じた。
ニーナも目を閉じた。
私は何も言えなかった。
神話級の聖獣。
グリンブルスティ。
その名前が今――。
ポークちゃんになった。
「ポークちゃん!」
「ぶー♪」
聖女様は大満足である。
本人――いや、本豚も気に入ったらしい。
なら、もう誰にも止められない。
やがて劇団員たちも警戒を解き、一人、また一人と集まり始めた。
「かわいい……」
「触っていいですか?」
「毛、ふわふわしてる!」
「こっち向いた!」
「ぶー!」
すっかり人気者である。
ニーナまで最後には頭を撫でていた。
聖女様は嬉しそうにポークちゃんを抱きながら笑っている。
そんな光景を見ていた元大神官様は、禁書とポークちゃんを何度か見比べたあと、長い長いため息を吐いた。
「……禁書庫」
全員が振り返る。
「思っていたより平和でしたな」
「まだ一冊目よ?」
聖女様が何気なく答えた。
「…………」
元大神官様が固まった。
「聖女様」
「なに?」
「ほかにも、お読みになられたので?」
「いっぱい面白そうなのあったわよ?」
「…………」
元大神官様は静かに椅子へ腰を下ろした。
何となく。
また胃が痛くなったのだと思う。
結局その日の稽古は、ほとんど進まなかった。
神話級の召喚魔法が成功し。
伝説の聖獣らしき子豚が現れ。
その子に『ポークちゃん』という名前がつき。
最後は全員でその子豚を撫でて終わった。
劇団の稽古として正しかったのかは分からない。
ただ――。
聖女様が楽しそうだったので。
たぶん、これでいいのだと思う。




