その29
## ルナ
私の名前はルナ。
元旅芸人――だった。
今は、王宮と大神殿が共同で運営する常設劇場に所属する劇団員である。
……どうしてこうなった。
今でも時々そう思う。
少し前まで、父が率いる一座と一緒に国から国へ、町から町へと渡り歩いていたはずなのに、気がつけば王都に立派な住居まで用意され、毎日のように同じ劇場へ通っている。
最初の頃こそ戸惑ったけれど、最近ではもう諦めた。
というより――。
正直、今の生活はかなり気に入っている。
劇場は連日の大盛況。
旅芸人だった頃とは比べものにならないほど収入が安定し、雨の日に興行場所を探し回る必要もなければ、次の町で泊まる宿を心配する必要もない。
父も腰を治しながら演出係として働くようになり、一座の仲間たちもそれぞれ劇場内で仕事を見つけ、毎日楽しそうに過ごしている。
そして私はというと――。
「ルナー! 今日、お茶しましょう!」
頻繁に聖女様から呼び出されるようになった。
もっとも、呼ばれたからといって何か特別な仕事を頼まれるわけではない。
聖女様、ヘレナ、スージー、ニーナ、そして私。
五人でお茶を飲み、王都をぶらぶら歩き、新しくできたケーキ屋へ行ったり、服を見たり、雑貨屋を覗いたりする。
本当に、それだけ。
それだけなのに――。
不思議なくらい楽しい。
占いで見た、あの未来の光景を時々思い出す。
五人で笑って、お茶を飲んで、町を歩いていた未来。
もしかすると、もう始まっているのかもしれない。
そんなことを考えるようになっていた。
劇場の運営も順調だった。
中でも現在、一番人気を集めているのが――。
聖女様が脚本を書かれた演劇である。
これが、信じられないくらい面白い。
恋愛があり。
冒険があり。
思いきり笑える場面があれば、最後には思わず涙を流してしまう場面まである。
全部が一つの物語に詰め込まれている。
最初に台本を読んだ時、父が真顔で、
「聖女様は昔、劇作家でもやっておられたのか?」
と尋ねたほどだった。
もちろん、誰も答えられなかった。
そして何より画期的だったのが――男役まで女性が演じることだった。
最初に聖女様からその話を聞いた時、一座の誰もが同じ反応をした。
「女性が男性役を?」
「さすがに無理なのでは……」
けれど聖女様は、
「絶対格好いいから!」
と言って譲らなかった。
そして実際にやってみると――。
「きゃあああっ!」
「格好いい!」
「あの騎士役の人、誰!?」
「もう一回観たい!」
「次の公演はいつなの!?」
女性客から大絶賛された。
結果、連日の満員。
公演日のチケットは発売すればすぐに完売し、劇場前には次の公演日を確認する客まで集まるようになった。
男役を演じる女性劇団員には贈り物まで届き始めている。
正直。
聖女様の感覚は、時々よく分からない。
でも結果だけを見れば、だいたい当たるからもっと分からない。
そんなある日のこと。
いつものように五人でお茶を飲んでいると、聖女様が突然言い出した。
「格好いい人がいるの」
嫌な予感がした。
この人がこういう顔をして何かを言い出した時は、大抵ろくでもないこと――いや、新しいことが始まる。
「格好いい人?」
「うん!」
聖女様は大きく頷いた。
「ニーナと同じくらい格好いいわ」
ニーナがぴくりと眉を動かす。
「……私が基準なのですか?」
「うん!」
即答だった。
「その人にも劇に出てもらいたいの!」
「……本人の許可は?」
私が恐る恐る尋ねる。
「これから聞くわ!」
まだ聞いていなかった。
やっぱり嫌な予感しかしない。
そして聖女様に連れられ、私たちが向かった先は――王城だった。
その中でも、女性王族や高位貴族の令嬢たちを警護する女性騎士団の詰所。
私は建物を見上げた。
「……まさか」
その、まさかだった。
聖女様が嬉しそうに一人の女性を指差す。
「ほら、あの人!」
そこに立っていたのは、背の高い女性騎士だった。
すらりと伸びた背筋。
無駄のない身のこなし。
切れ長の瞳が印象的な、凛々しい顔立ち。
ただ立っているだけなのに、周囲の空気まで引き締まって見える。
近くの騎士へ指示を出す声も低く落ち着いていて――。
(……確かに)
私は素直に思った。
(格好いい)
しかも、ものすごく舞台映えしそうだ。
男役の衣装を着せたら、女性客から黄色い悲鳴が上がる姿が簡単に想像できる。
……でも。
この人は王城に勤める正式な騎士である。
そんな人が、
『劇に出てください』
と言われて、本当に出てくれるものなのだろうか。
私たちに気づいた女性騎士は、すぐにこちらへ歩いてきた。
「聖女様。お越しになられていたのですか」
胸へ手を当て、綺麗に一礼する。
「お声を掛けていただければ、こちらから伺いましたのに」
「んとね」
聖女様はそんな彼女へ、いつもの調子で話しかけた。
「劇をやるの」
「……はぁ」
女性騎士がわずかに首を傾げる。
「それでね、アリアがいるの」
「…………」
女性騎士――アリアさんは、一瞬だけ目を丸くした。
「……私が、でございますか?」
「うん!」
「舞台に?」
「そう!」
アリアさんは明らかに困惑している。
当然だと思う。
ところが聖女様は、なぜか真剣な顔で彼女を見つめた。
「アリアならできると思うの」
「何故でしょうか?」
「だって」
聖女様は自信満々に言った。
「アリアも腹筋がカチカチだから!」
「…………」
私は黙った。
ヘレナも黙った。
スージーは口元を押さえた。
そしてニーナが、深々とため息をついた。
「聖女様……」
また腹筋基準だ。
この人、本当に人を見る時に腹筋を重要視しているのではないだろうか。
アリアさんは何とも言えない表情を浮かべたあと、助けを求めるように元大神官様へ視線を向けた。
「大神官様」
「はい」
「少々、お話をよろしいでしょうか」
「もちろんです」
二人は私たちから少し離れた場所へ移動した。
私は聞いてはいけないと思いつつ――。
少しだけ聞き耳を立てた。
アリアさんが小声で尋ねる。
「大神官様。一つ確認したいのですが」
「何でしょう?」
「聖女様は以前も……腹筋を理由に護衛をお選びになったのでしょうか」
元大神官様は、しばらく黙った。
そして静かに目を閉じる。
「……はい」
「やはり、そうでしたか」
アリアさんまで遠い目をした。
「実は私、昨日……訓練場で腹筋をしておりまして」
「なるほど」
今度は元大神官様も遠い目になる。
「聖女様は、たまたまそれをご覧になられたのでしょうな」
「…………」
「…………」
二人の間に、何とも言えない沈黙が流れた。
なぜか、とても分かり合っているように見える。
やがてアリアさんが、小さな声で尋ねた。
「ですが、大神官様」
「はい」
「私は演技など一度もしたことがございません」
「ご安心ください」
元大神官様は、妙に穏やかな笑顔を浮かべた。
「演技の経験は、今のところ問題ではございません」
「……問題ではない?」
「はい」
そして、どこか悟ったような口調で続ける。
「必要なのは、聖女様が――」
一拍置いた。
「『格好いい』と思われたことだけでございます」
「…………」
アリアさんは静かに天井を見上げた。
私にも、その気持ちはなんとなく分かる。
しばらくして、アリアさんがもう一つ尋ねる。
「それは……断れるのでしょうか」
元大神官様はにこやかに微笑んだ。
「私も昔、それを考えたことがございます」
「大神官様も?」
「ええ」
「それで、答えは?」
元大神官様は少しだけ遠くを見つめた。
「ございませんでした」
「…………」
何の答えにもなっていない。
でも、ものすごく説得力があった。
その瞬間だった。
遠くから、聖女様の元気な声が響く。
「アリアー!」
全員がそちらを見る。
聖女様が紙の束を抱え、嬉しそうに手を振っていた。
「台本できたわよー!」
「…………」
早い。
まだ本人は引き受けると一言も言っていない。
いつ書いたのだろう。
というより――。
(もう出ること前提なの!?)
アリアさんはしばらく聖女様を見つめていた。
やがて小さく息を吐くと、騎士らしく背筋を伸ばす。
どうやら覚悟を決めたらしい。
「……承知いたしました」
聖女様の顔がぱっと輝く。
「本当!?」
「はい」
アリアさんは胸へ手を当て、一礼した。
「国のため――」
そこで一度言葉を止める。
元大神官様を見る。
元大神官様は、何とも言えない笑顔を返した。
アリアさんは少し考え直し、
「……いえ。聖女様のために、舞台へ立たせていただきます」
「やったー!」
聖女様が大喜びする。
ヘレナとスージーも笑い、ニーナはまた小さくため息をついた。
私はそんな光景を見ながら、思わず苦笑する。
元大神官様も、アリアさんを見てから聖女様へ視線を戻し、すべてを諦めたような顔で静かに息を吐いていた。
その表情を見れば、何を考えているのかくらい私にも分かる。
――また一人、巻き込まれましたな。
たぶん、そんなところだろう。
そして今日も。
聖女様の何気ない一言から、新しい物語が始まる。
この時の私はまだ知らなかった。
アリアさんが初めて舞台へ立ったその日――。
劇場が、開場以来最大の歓声に包まれることになるなんて。




