その25
## 冥界の女王ヘル
「冥界の女王ヘル様。この度は当神殿へご降臨いただき、誠にありがとうございます」
聖域の間へ入った私は、まず深々と頭を下げた。
「神官一同、精一杯お相手を務めさせていただきます。何かございましたら、私、大神官へ何なりとお申し付けください」
そう挨拶しながら顔を上げたのだが――。
「ん~~~~っ!」
そこに広がっていた光景は、私が想像していたものとはまるで違っていた。
冥界を統べる女王。
死者の国を治める神。
その名を聞くだけで神官たちが青ざめるほどの存在であるヘル様は、テーブルいっぱいに並べられたケーキと一心不乱に格闘しておられた。
口いっぱいにケーキを頬張り、満面の笑みを浮かべながら、椅子に座った足をぱたぱたと揺らしている。
「おいしいのぅ」
実に幸せそうである。
そして、その隣ではお供として連れてこられた小さな骨のドラゴンまで、一生懸命ケーキを食べていた。
「…………」
私は思わず骨竜を見つめた。
(お前は骨しかないのだから、食べても意味がないのではないか?)
クリームもスポンジも、その身体のどこへ消えているのだろう。
非常に気になる。
しかし、もちろん口には出さない。
命が惜しい。
そんなことを考えていると、ヘル様の口元に白いクリームがついていることに気づいた。
私はハンカチを取り出し、恐る恐る声をかける。
「ヘル様。お口の周りが汚れております。失礼いたします」
そっとクリームを拭き取る。
「ん。ありがと」
ヘル様は素直に顔を上げ、にこりと笑われた。
「…………」
可愛らしい。
見た目だけなら、本当に普通の幼い少女にしか見えない。
だが、このお方は冥界の女王である。
その事実を思い出した途端、また胃が痛くなってきた。
どうして、こういう役目はいつも私なのだろう。
枢機卿たちは、
『大神官殿なら大丈夫です』
などと言い残し、信じられないほどの速さで逃げていった。
まったく。
あの者たちは、少しは私と苦労を分かち合う気はないのだろうか。
ヘル様はそんな私の苦悩など知る由もなく、フォークを片手に尋ねてこられた。
「ところで、千絵はおらんのか?」
「……千絵、でございますか」
私は一瞬だけ考える。
なぜかヘル様は、聖女様のことを『千絵』とお呼びになる。
理由は分からない。
聖女様には別のお名前があるはずなのだが、神々の世界では何か特別な意味があるのかもしれない。
下手に尋ねるのも怖いため、今のところ誰も深く追及していなかった。
「聖女様でしたら、現在は町へお出掛けになっております。お呼びいたしましょうか?」
するとヘル様は、すぐに首を横に振られた。
「いや、よい。千絵が元気なら何も問題ない」
その一言には、どこか安心したような響きがあった。
どうやら本当に、聖女様の様子を確認しに来られただけなのかもしれない。
私は少しだけ胸を撫で下ろした。
これなら大きな問題にはならないだろう。
――そう思ったのだが。
「あと」
ヘル様がケーキをもう一口食べる。
「ヘルちゃん好みのイケメンはおらんのか?」
「…………」
私は固まった。
今日一番難しい質問が来た気がする。
少し考えた末、慎重に答える。
「神殿でも容姿が良いと評判の男性でしたら、お連れできますが」
「ほぉ?」
ヘル様が楽しそうに笑う。
「面白そうじゃな。連れてきてもよいぞ。暇つぶしじゃ」
「かしこまりました」
私は近くに控えていた神官へ声をかけた。
「伯爵家三男殿をこちらへ」
「承知いたしました」
しばらくして、一人の青年が聖域の間へ案内されてきた。
神殿でも容姿端麗で有名な青年だ。
整った顔立ちに、上品な服装。
社交界でも女性から人気があると聞いている。
青年は少し緊張しながらも、優雅に一礼した。
「お初にお目にかかります、女王陛下」
ヘル様は答えない。
ただ、じーっと青年を見つめている。
一秒。
二秒。
三秒。
そして――。
「……なんじゃ、こいつは」
心底嫌そうな顔をされた。
「え?」
青年の笑顔が固まる。
ヘル様は露骨に眉をひそめた。
「魂の色が腐っとるぞ」
「…………」
部屋が一瞬で静まり返った。
青年の顔色が変わる。
しかし、ヘル様はまったく容赦しなかった。
「女を騙しては金を貢がせ、飽きたら捨てる。それを何度も繰り返しておるではないか」
「そ、それは……!」
「しかも泣かせた女に謝るどころか、全部相手が悪いと思っておる」
青年の顔から、完全に血の気が引いた。
「ち、違います! 私は――」
「嘘をつくな」
ヘル様の声が、それまでとは別人のように冷たくなる。
その瞬間。
聖域の空気そのものが変わった。
先ほどまでケーキを頬張っていた幼い少女の姿はどこにもない。
そこにおられるのは――。
死者の魂を見定める、冥界の女王だった。
「お前の魂が、全部語っておる」
青年は何も言えなくなった。
ヘル様は冷たい目で一瞥すると、興味を失ったようにフォークを置く。
「もうよい。下がれ」
「は、はい……!」
青年は深く頭を下げると、逃げるように聖域の間を出ていった。
扉が閉じる。
私はすぐにヘル様へ頭を下げた。
「ヘル様。あのような者とは知らず、誠に申し訳ございませんでした」
「気にするでない」
ヘル様は何事もなかったかのように、再びケーキを食べ始める。
「大神官とやら」
「はい」
「人間というのは、見た目では分からんものじゃな」
「……まったく、お恥ずかしい限りでございます」
神殿での評判は良かった。
少なくとも私は、あの青年について悪い噂を聞いたことがなかった。
しかし神の目から見れば、そんなものは意味を持たないのだろう。
ヘル様はケーキを口に運びながら、何でもないことのように言われた。
「まあ、あやつは長くない」
私は思わず顔を上げる。
「……長くない、と申されますと?」
「自分で積み上げたものが、そろそろ返ってくるだけじゃ」
それ以上、ヘル様は説明されなかった。
ただ静かにケーキを食べ続ける。
私は何とも言えない寒気を覚えた。
やがてヘル様は、ふと遠くを見るような目をされた。
「しかし……やはり迅のような男は、なかなかおらんのぅ」
「迅……というお方でございますか?」
「そうじゃ」
ヘル様は少しだけ楽しそうに笑う。
「お前も、なかなかのイケオジじゃが」
「……私でございますか?」
まさか自分へ話が飛んでくるとは思わず、思わず聞き返してしまった。
「うむ。悪くはないぞ」
「は、はぁ……ありがとうございます」
どう反応すれば正解なのだろう。
冥界の女王に『イケオジ』と評価される人生など、想像したこともなかった。
しかしヘル様は、少し残念そうに首を振る。
「じゃが、やはり迅には敵わんな」
「それほどのお方なのですか」
「まあ、そのうち分かる」
「そのうち?」
ヘル様は意味ありげに笑った。
「千絵も、いずれ出会うじゃろう」
「聖女様が?」
「そうじゃ。その他の四人と一緒にな」
「四人……?」
聞き覚えのない話だった。
「それは、どういう意味でございましょう?」
「運命とは、そういうものじゃ」
それだけ言うと、ヘル様は再びケーキへ手を伸ばされた。
どうやら、それ以上説明する気はないらしい。
私は困惑したまま頭を下げるしかなかった。
その時の私は、ヘル様のお言葉の意味をまったく理解できなかった。
ただ――。
最初の言葉だけは、すぐに現実となった。
三日後。
あの日、聖域へ呼ばれた伯爵家三男が死亡したという報告が神殿へ届いた。
長年関係を持っていた女性との間で大きな揉め事が起こり、その末に命を落としたという。
私は報告書を見た瞬間、あの日のヘル様の言葉を思い出した。
『あやつは長くない』
偶然なのだろうか。
それとも――。
神殿は事件に関わった女性を保護し、事情を詳しく調査することになった。
調べれば調べるほど、伯爵家三男が複数の女性を騙し、金銭を貢がせていた事実が明らかになっていった。
さらに一週間後。
今度は、その伯爵家そのものに対する調査が始まった。
そして出てきたのは、信じられないほどの不正だった。
横領。
違法な徴税。
領民への不当な扱い。
帳簿の改竄。
調査を進めるたび、新しい問題が次々と見つかっていく。
最終的に王家は、伯爵家当主の爵位剥奪と領地没収を決定した。
長く続いた伯爵家は、事実上の取り潰しとなった。
私はその報告を受けたあと、一人で神殿の窓から空を見上げた。
ヘル様は、あの時すでに何かを知っておられたのだろうか。
未来そのものを見ていたのか。
それとも――。
魂に刻まれた行いから、その者がどこへ行き着くのかを知っていただけなのか。
私には分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
神々の目に映る世界は、人間が見ているものとはまるで違う。
そして、その神々がなぜか聖女様を『千絵』と呼び、気に掛けている。
迅という謎の人物。
そして、まだ見ぬ四人。
あの日ヘル様が残された言葉の意味を、私はまだ知らない。
いずれそれを知る日が来るのだろうか。
私は空を見上げながら、静かに息を吐いた。
その答えは――。
今の私には、まだ神のみぞ知ることだった。




