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聖女様物語  作者: Elle


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24/44

その24

## 大神官


「大神官様!」


若い神官が息を切らしながら、執務室へ飛び込んできた。


私は書類から顔を上げる。


「どうした?」


「聖域の間に、お客様がお見えです」


「……」


その一言で、私は手を止めた。


聖域。


その言葉だけで、胃の辺りがじわりと痛くなる。


そもそも、聖域へ直接現れる客など普通はいない。


通常ならば大神殿の正門を通り、受付で身分を確認し、神官の案内を受けて面会の手続きをする。


王族であろうと、高位貴族であろうと、それは変わらない。


それをすべて飛ばして、いきなり聖域へ現れた。


つまり――。


人間ではない可能性が極めて高い。


嫌な予感しかしなかった。


私はゆっくりと尋ねる。


「どのようなお姿をされていますか?」


若い神官は一度大きく息を吸い、記憶を確かめるように答えた。


「幼い少女のようなお姿でございます。お手には杖をお持ちで、黒と薄紫を基調とした、大変豪華なドレスをお召しになられております」


「……」


私は無言で額を押さえた。


まだ終わりではないらしい。


神官はさらに青ざめながら続ける。


「それから……」


「まだあるのか」


「はい」


神官は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「小さな骨の竜が一匹、お供をしております」


「…………」


私は静かに天井を見上げた。


もう確認する必要もない。


「……ヘル様であられますね」


「えっ?」


神官が固まる。


「ま、まさか……あの、冥界を統べるヘル様でございますか?」


「間違いないでしょう」


私は深いため息をついた。


「幼い少女の姿。黒と薄紫の衣装。杖。そして骨の竜。この特徴で、他に心当たりはございません」


神官の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「ど、どういたしましょう!? もし何か失礼でもございましたら……」


「落ち着きなさい」


私は椅子から立ち上がった。


「まず、失礼のないよう丁重にお迎えすること。最高のお茶をご用意なさい」


「は、はい!」


「お菓子もです。一番良い物を」


「かしこまりました!」


「ただし、妙に豪華すぎるものを山ほど並べる必要はありません。神を相手に取り繕ったところで、こちらの懐事情まで見透かされそうですからな」


「……た、確かに」


神官は妙に納得した顔をした。


そこで、はっとしたように尋ねる。


「聖女様へは、すぐにお知らせいたしますか?」


私は少しだけ考えた。


聖女様なら、ヘル様が来たと聞けば、


『あら、ヘルが来たの?』


くらいの調子で会いに行きそうである。


……むしろ、それが一番怖い。


「いや。まずは私が伺います」


「大神官様が?」


「はい。もしヘル様が聖女様へ御用であれば、その時に改めてご案内すればよろしいでしょう」


「承知いたしました!」


若い神官は何度も頷き、そのまま慌ただしく部屋を出ていった。


私は机の上を片づけ、大神官の杖を手に取る。


そして、ふと動きを止めた。


「……胃薬」


机の引き出しを開ける。


常備してある胃薬を一包。


少し考え、もう一包。


さらに念のため、三包目まで懐へ入れた。


「これでよし」


……何が「よし」なのか、自分でもよく分からない。


私は執務室を出て、聖域へ向かった。


大神殿の中は、いつもと同じようでいて、明らかに様子がおかしかった。


廊下を歩く神官たちの足取りが妙に速い。


すれ違う者たちは皆、一様に緊張した表情を浮かべている。


私の姿を見つけると、普段以上に深く頭を下げた。


「大神官様」


「……あちらへ向かわれるのですか?」


「ああ」


そう答えると、神官の顔が引きつった。


「ご、ご無事をお祈りしております」


「……まだ会談すら始まっておりませんぞ」


「し、失礼いたしました!」


逃げるように去っていく。


私は小さくため息をついた。


どうやら、噂はすでに大神殿中へ広がっているらしい。


次の角を曲がると、今度は数人の巫女たちが集まっていた。


私を見るなり一斉に頭を下げる。


「大神官様!」


「ヘル様がお見えになったというのは、本当なのでしょうか?」


「誰から聞きました?」


「えっと……」


全員が目を逸らした。


情報の伝達速度だけなら、神殿は大陸一かもしれない。


「余計な騒ぎを起こさぬように。通常通り務めを続けなさい」


「はい!」


「それから、聖域の間へ興味本位で近づかないこと」


「は、はい!」


……返事が妙に早い。


どうやら、近づくつもりだった者が何人かいたらしい。


私は再び歩き出す。


聖域へ近づくにつれ、神殿内の空気が変わっていった。


一般の礼拝堂から離れ、王族や高位神官すら滅多に足を踏み入れない区域へ入る。


白い大理石の床。


壁には歴代の聖女と神々を描いた壁画。


天井には、神代の物語を表す巨大な天井画が続いている。


普段なら荘厳で静かな場所だ。


だが今日は、その静けさが妙に重い。


聖域の方角から、かすかな魔力の揺らぎを感じる。


「……やはり、来ておられるな」


私程度でも分かる。


空気そのものが違う。


息苦しいわけではない。


威圧されているわけでもない。


それでも、本能が訴えている。


――この先に、人の理から外れた存在がいる。


私は無意識に歩調を緩めた。


途中、聖域を守る神殿騎士の詰所を通る。


いつもなら堂々と立っている屈強な騎士たちが、今日は全員妙に姿勢が良い。


「大神官様!」


隊長が敬礼する。


「異常は?」


「ございません!」


返事だけは立派だ。


だが、その額には汗が浮かんでいる。


「お客様は?」


「聖域の間にて、お待ちでございます」


「何かおっしゃっておられましたか?」


「いえ。ただ……」


「ただ?」


騎士隊長が少し言いづらそうに口を開く。


「お供の骨竜が、こちらをずっと見ております」


「……攻撃は?」


「ございません」


「威嚇は?」


「それもございません」


「では問題ないでしょう」


「はい。ただ……非常に怖いです」


「……正直でよろしい」


私も怖い。


大神官だから平然としているだけである。


いや、平然として見えているかどうかも怪しい。


さらに進む。


聖域へ続く最後の回廊には、普段なら香が焚かれ、穏やかな聖歌が流れている。


今日は聖歌が止まっていた。


「なぜ止めたのです?」


近くに控えていた神官が答える。


「その……演奏を担当していた者たちが、緊張で手が震えてしまいまして」


「…………」


「申し訳ございません」


「いや。無理をさせる必要はありません」


ヘル様の前で音を外し続けるよりは、その方がいいだろう。


私は再び歩く。


コツ。


コツ。


コツ。


自分の靴音だけが、長い回廊へ響く。


妙に大きく聞こえる。


この先にいるのは、冥界を統べる女王。


死者の国を治める神。


人が生涯を終えた後ですら、その名を聞くことになる存在だ。


それを今から、


『ようこそお越しくださいました』


と出迎えなければならない。


(大神官という仕事は……こういう仕事だっただろうか)


少なくとも、若い頃に聞いていた職務内容には入っていなかった気がする。


祭祀の管理。


神官の統括。


王家との調整。


聖女様の補佐。


各地の神殿との連絡。


そこまでは分かる。


だが、


『突然現れた冥界の女王を接待する』


などという項目は、どこにもなかったはずだ。


(最近……神様の来客が増えておらんか?)


少し前には、北欧最高神に連なる方の使い。


そして今度は、冥界の女王。


しかも、どちらも聖女様と何らかの関わりがある可能性が高い。


普通の神殿なら、一生に一度あるかどうか。


いや。


一度もないまま大神官を終える方が普通だろう。


それが、なぜ我が神殿だけこうも立て続けに。


答えは一つしか思いつかない。


(……聖女様であろうなぁ)


私は遠い目をした。


あのお方が関わると、常識というものが仕事を放棄する。


神器は勝手に動く。


神託は頻繁に降りる。


神の使いが現れる。


そして今日は、冥界の女王本人が訪ねてきた。


「そのうち……」


思わず小さく呟く。


「オーディン様ご本人までお見えになるのではあるまいな」


言ってから、すぐに後悔した。


こういうことを口にすると、本当に起こりそうだから困る。


「……いや、ない」


自分に言い聞かせる。


「さすがにそれはない」


数歩進む。


「……ないと思いたい」


さらに数歩。


「もし来られても、もう驚かない気がするな」


そこで自分の発言に首を振る。


「いや。やはり驚くだろうな」


間違いなく驚く。


そして胃が痛くなる。


私は懐の胃薬を確認した。


三包。


「……もう一包持ってくればよかったか」


今さら戻るわけにもいかない。


やがて、聖域の間へ続く巨大な扉が見えてきた。


扉の前には二人の神官が立っている。


どちらも顔色が悪い。


私を見ると、心底ほっとしたような表情になった。


「だ、大神官様……!」


「ご苦労」


「中で、ヘル様がお待ちでございます」


「何か変わったことは?」


「いえ。ただ静かにお茶を飲まれております」


「そうですか」


「それと……」


「まだ何か?」


神官は扉をちらりと見る。


「骨竜が、お菓子を食べております」


「…………」


私は数秒黙った。


「骨なのに?」


「はい」


「どうやって?」


「分かりません」


「……そうですか」


神とは、そういうものなのだろう。


深く考えるのはやめた。


私は一度大きく息を吸う。


大神官として。


この神殿を預かる者として。


どれほど相手が恐ろしい神であろうと、逃げ出すわけにはいかない。


「開けてください」


「はい!」


神官たちが左右から巨大な扉へ手をかける。


ゆっくりと扉が開いていく。


その向こうから、冷たく澄んだ空気が流れてきた。


私は背筋を伸ばす。


そして心の中で、最後に一つだけ呟いた。


(頼むから……今日は聖女様絡みの面倒事ではありませんように)


……たぶん無理だろう。


そんな予感を抱きながら、私は聖域の間へ足を踏み入れた。

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