その24
## 大神官
「大神官様!」
若い神官が息を切らしながら、執務室へ飛び込んできた。
私は書類から顔を上げる。
「どうした?」
「聖域の間に、お客様がお見えです」
「……」
その一言で、私は手を止めた。
聖域。
その言葉だけで、胃の辺りがじわりと痛くなる。
そもそも、聖域へ直接現れる客など普通はいない。
通常ならば大神殿の正門を通り、受付で身分を確認し、神官の案内を受けて面会の手続きをする。
王族であろうと、高位貴族であろうと、それは変わらない。
それをすべて飛ばして、いきなり聖域へ現れた。
つまり――。
人間ではない可能性が極めて高い。
嫌な予感しかしなかった。
私はゆっくりと尋ねる。
「どのようなお姿をされていますか?」
若い神官は一度大きく息を吸い、記憶を確かめるように答えた。
「幼い少女のようなお姿でございます。お手には杖をお持ちで、黒と薄紫を基調とした、大変豪華なドレスをお召しになられております」
「……」
私は無言で額を押さえた。
まだ終わりではないらしい。
神官はさらに青ざめながら続ける。
「それから……」
「まだあるのか」
「はい」
神官は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「小さな骨の竜が一匹、お供をしております」
「…………」
私は静かに天井を見上げた。
もう確認する必要もない。
「……ヘル様であられますね」
「えっ?」
神官が固まる。
「ま、まさか……あの、冥界を統べるヘル様でございますか?」
「間違いないでしょう」
私は深いため息をついた。
「幼い少女の姿。黒と薄紫の衣装。杖。そして骨の竜。この特徴で、他に心当たりはございません」
神官の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「ど、どういたしましょう!? もし何か失礼でもございましたら……」
「落ち着きなさい」
私は椅子から立ち上がった。
「まず、失礼のないよう丁重にお迎えすること。最高のお茶をご用意なさい」
「は、はい!」
「お菓子もです。一番良い物を」
「かしこまりました!」
「ただし、妙に豪華すぎるものを山ほど並べる必要はありません。神を相手に取り繕ったところで、こちらの懐事情まで見透かされそうですからな」
「……た、確かに」
神官は妙に納得した顔をした。
そこで、はっとしたように尋ねる。
「聖女様へは、すぐにお知らせいたしますか?」
私は少しだけ考えた。
聖女様なら、ヘル様が来たと聞けば、
『あら、ヘルが来たの?』
くらいの調子で会いに行きそうである。
……むしろ、それが一番怖い。
「いや。まずは私が伺います」
「大神官様が?」
「はい。もしヘル様が聖女様へ御用であれば、その時に改めてご案内すればよろしいでしょう」
「承知いたしました!」
若い神官は何度も頷き、そのまま慌ただしく部屋を出ていった。
私は机の上を片づけ、大神官の杖を手に取る。
そして、ふと動きを止めた。
「……胃薬」
机の引き出しを開ける。
常備してある胃薬を一包。
少し考え、もう一包。
さらに念のため、三包目まで懐へ入れた。
「これでよし」
……何が「よし」なのか、自分でもよく分からない。
私は執務室を出て、聖域へ向かった。
大神殿の中は、いつもと同じようでいて、明らかに様子がおかしかった。
廊下を歩く神官たちの足取りが妙に速い。
すれ違う者たちは皆、一様に緊張した表情を浮かべている。
私の姿を見つけると、普段以上に深く頭を下げた。
「大神官様」
「……あちらへ向かわれるのですか?」
「ああ」
そう答えると、神官の顔が引きつった。
「ご、ご無事をお祈りしております」
「……まだ会談すら始まっておりませんぞ」
「し、失礼いたしました!」
逃げるように去っていく。
私は小さくため息をついた。
どうやら、噂はすでに大神殿中へ広がっているらしい。
次の角を曲がると、今度は数人の巫女たちが集まっていた。
私を見るなり一斉に頭を下げる。
「大神官様!」
「ヘル様がお見えになったというのは、本当なのでしょうか?」
「誰から聞きました?」
「えっと……」
全員が目を逸らした。
情報の伝達速度だけなら、神殿は大陸一かもしれない。
「余計な騒ぎを起こさぬように。通常通り務めを続けなさい」
「はい!」
「それから、聖域の間へ興味本位で近づかないこと」
「は、はい!」
……返事が妙に早い。
どうやら、近づくつもりだった者が何人かいたらしい。
私は再び歩き出す。
聖域へ近づくにつれ、神殿内の空気が変わっていった。
一般の礼拝堂から離れ、王族や高位神官すら滅多に足を踏み入れない区域へ入る。
白い大理石の床。
壁には歴代の聖女と神々を描いた壁画。
天井には、神代の物語を表す巨大な天井画が続いている。
普段なら荘厳で静かな場所だ。
だが今日は、その静けさが妙に重い。
聖域の方角から、かすかな魔力の揺らぎを感じる。
「……やはり、来ておられるな」
私程度でも分かる。
空気そのものが違う。
息苦しいわけではない。
威圧されているわけでもない。
それでも、本能が訴えている。
――この先に、人の理から外れた存在がいる。
私は無意識に歩調を緩めた。
途中、聖域を守る神殿騎士の詰所を通る。
いつもなら堂々と立っている屈強な騎士たちが、今日は全員妙に姿勢が良い。
「大神官様!」
隊長が敬礼する。
「異常は?」
「ございません!」
返事だけは立派だ。
だが、その額には汗が浮かんでいる。
「お客様は?」
「聖域の間にて、お待ちでございます」
「何かおっしゃっておられましたか?」
「いえ。ただ……」
「ただ?」
騎士隊長が少し言いづらそうに口を開く。
「お供の骨竜が、こちらをずっと見ております」
「……攻撃は?」
「ございません」
「威嚇は?」
「それもございません」
「では問題ないでしょう」
「はい。ただ……非常に怖いです」
「……正直でよろしい」
私も怖い。
大神官だから平然としているだけである。
いや、平然として見えているかどうかも怪しい。
さらに進む。
聖域へ続く最後の回廊には、普段なら香が焚かれ、穏やかな聖歌が流れている。
今日は聖歌が止まっていた。
「なぜ止めたのです?」
近くに控えていた神官が答える。
「その……演奏を担当していた者たちが、緊張で手が震えてしまいまして」
「…………」
「申し訳ございません」
「いや。無理をさせる必要はありません」
ヘル様の前で音を外し続けるよりは、その方がいいだろう。
私は再び歩く。
コツ。
コツ。
コツ。
自分の靴音だけが、長い回廊へ響く。
妙に大きく聞こえる。
この先にいるのは、冥界を統べる女王。
死者の国を治める神。
人が生涯を終えた後ですら、その名を聞くことになる存在だ。
それを今から、
『ようこそお越しくださいました』
と出迎えなければならない。
(大神官という仕事は……こういう仕事だっただろうか)
少なくとも、若い頃に聞いていた職務内容には入っていなかった気がする。
祭祀の管理。
神官の統括。
王家との調整。
聖女様の補佐。
各地の神殿との連絡。
そこまでは分かる。
だが、
『突然現れた冥界の女王を接待する』
などという項目は、どこにもなかったはずだ。
(最近……神様の来客が増えておらんか?)
少し前には、北欧最高神に連なる方の使い。
そして今度は、冥界の女王。
しかも、どちらも聖女様と何らかの関わりがある可能性が高い。
普通の神殿なら、一生に一度あるかどうか。
いや。
一度もないまま大神官を終える方が普通だろう。
それが、なぜ我が神殿だけこうも立て続けに。
答えは一つしか思いつかない。
(……聖女様であろうなぁ)
私は遠い目をした。
あのお方が関わると、常識というものが仕事を放棄する。
神器は勝手に動く。
神託は頻繁に降りる。
神の使いが現れる。
そして今日は、冥界の女王本人が訪ねてきた。
「そのうち……」
思わず小さく呟く。
「オーディン様ご本人までお見えになるのではあるまいな」
言ってから、すぐに後悔した。
こういうことを口にすると、本当に起こりそうだから困る。
「……いや、ない」
自分に言い聞かせる。
「さすがにそれはない」
数歩進む。
「……ないと思いたい」
さらに数歩。
「もし来られても、もう驚かない気がするな」
そこで自分の発言に首を振る。
「いや。やはり驚くだろうな」
間違いなく驚く。
そして胃が痛くなる。
私は懐の胃薬を確認した。
三包。
「……もう一包持ってくればよかったか」
今さら戻るわけにもいかない。
やがて、聖域の間へ続く巨大な扉が見えてきた。
扉の前には二人の神官が立っている。
どちらも顔色が悪い。
私を見ると、心底ほっとしたような表情になった。
「だ、大神官様……!」
「ご苦労」
「中で、ヘル様がお待ちでございます」
「何か変わったことは?」
「いえ。ただ静かにお茶を飲まれております」
「そうですか」
「それと……」
「まだ何か?」
神官は扉をちらりと見る。
「骨竜が、お菓子を食べております」
「…………」
私は数秒黙った。
「骨なのに?」
「はい」
「どうやって?」
「分かりません」
「……そうですか」
神とは、そういうものなのだろう。
深く考えるのはやめた。
私は一度大きく息を吸う。
大神官として。
この神殿を預かる者として。
どれほど相手が恐ろしい神であろうと、逃げ出すわけにはいかない。
「開けてください」
「はい!」
神官たちが左右から巨大な扉へ手をかける。
ゆっくりと扉が開いていく。
その向こうから、冷たく澄んだ空気が流れてきた。
私は背筋を伸ばす。
そして心の中で、最後に一つだけ呟いた。
(頼むから……今日は聖女様絡みの面倒事ではありませんように)
……たぶん無理だろう。
そんな予感を抱きながら、私は聖域の間へ足を踏み入れた。




