その18
## 王都の酒場
「おい! 聞いたか!」
昼間から客で賑わう酒場の扉が勢いよく開き、一人の男が息を切らしながら飛び込んできた。
酒を飲んでいた者たちが一斉に振り向く。
「元聖女様がお戻りになられるらしいぞ!」
「本当か!?」
「ああ! 神殿から正式に発表があった!」
その一言で、酒場の空気が一変した。
「助かった……」
奥の席にいた男が、力が抜けたように椅子へもたれかかる。
「これで、これで家族も安心だ……」
隣では、年配の女が両手で口元を覆っていた。
「本当に? 本当に戻ってきてくださるの?」
「ああ、間違いないって!」
「よかった……」
女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
一方で、別の卓からはすぐに別の声が飛んだ。
「結界は!? 結界はどうなるんだ!?」
「そうだ! 戻ってくるだけじゃ駄目だろ!」
「俺の村、もう魔物がすぐ近くまで来てるんだぞ!」
すると、近くにいた商人が勢いよく立ち上がった。
「それなら、もう戻ってるらしいぞ!」
「え?」
「何だって?」
「昨日の夜から結界が元に戻ってるって、騎士団の連中が話してた!」
一瞬、酒場が静まり返る。
そして次の瞬間。
「うおおおおおっ!」
店中から歓声が上がった。
「本当か!」
「助かったぞ!」
「これで街道も通れる!」
「村へ帰れる!」
「荷馬車も動かせるぞ!」
商人たちは一斉に顔を見合わせ、早くも商売の算段を始める。
「明日から南街道を使えるな」
「だったら塩を仕入れられる!」
「待て、東の市場も再開するんじゃないか?」
「おい店主! 祝い酒だ! 一番いいの出せ!」
「勝手に決めるな! ちゃんと金は払えよ!」
「今日はめでたい日だろ!」
「めでたくても酒はただにならん!」
そんなやり取りに、店中から笑い声が上がった。
つい数日前まで、誰も彼も暗い顔で酒を飲んでいた。
家族の安否。
途絶えた街道。
上がり続ける物価。
魔物への恐怖。
そんな話ばかりだった。
それが今では、まるで重しを取り除かれたように皆の表情が明るい。
「さすがだな……」
一人の男が感心したように呟く。
「帰ってくると決まった途端、もう結界が戻ってるのかよ」
「仕事が早すぎるだろ」
「元聖女様だからな」
「やっぱり安心感が違う」
別の男がジョッキを高く掲げた。
「元聖女様、万歳!」
「「「万歳!」」」
「もう一回!」
「「「元聖女様、万歳!」」」
店主まで苦笑しながらジョッキを掲げる。
その横では、先ほど泣いていた女が涙を拭きながら笑っていた。
「この人たちったら、本当に……」
「泣いてるじゃねぇか」
「うるさいよ。安心したんだよ」
「俺だって安心したさ」
隣の老人が鼻をすすりながら答える。
「孫が北の村にいるんだ。昨日まで、もう会えないかもしれねぇと思ってた」
「じゃあ帰ってきたら、たらふく食わせてやれ」
「ああ。そうする」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
そこへ今度は、神殿勤めの知り合いらしい男が慌てて酒場へ入ってきた。
「そういや、もう一つ聞いたぞ!」
「何だよ、今度は!」
「また悪い知らせじゃないだろうな?」
「いや。たぶん違う」
男は息を整えながら続ける。
「神殿と王家が、新しい決まりを作ったらしい」
「新しい決まり?」
「ああ。王家も正式に承認したそうだ」
「へぇ……」
「どんな法律なんだ?」
男は首を横に振る。
「そこまではまだ分からん。詳しい内容は正式発表前らしい。ただ、かなり民に関係するものだって話だ」
その言葉に、酒場の熱気が少しだけ落ち着いた。
「民に関係するって……税か?」
「また何か取られるんじゃないだろうな」
「やめてくれよ。ただでさえ商売が止まって大赤字なんだ」
「兵役とかじゃないだろうねぇ」
パン屋の女将が不安そうに眉を寄せる。
その隣では、農夫が腕を組んで考え込んでいた。
「土地の話かもしれんな」
「何で分かるんだよ」
「分からん。なんとなくだ」
「なんとなくかよ」
また小さな笑いが起こる。
すると、酒場の隅で黙って話を聞いていた年配の商人が、ゆっくりジョッキを置いた。
「まぁ、元聖女様が決めたことなんだろ?」
「そうらしいな」
「だったら、そこまで心配しなくていいんじゃねぇか?」
周囲の者たちがそちらを見る。
商人は肩をすくめた。
「考えてみろよ。元聖女様が俺たちから金を巻き上げたことなんてあったか?」
「……ないな」
「困ってる村を見捨てたことは?」
「ない」
「偉い奴に言われたからって、俺たちを切り捨てたことは?」
「それもない」
「だったら、俺は信じるね」
別の男も頷いた。
「俺ぁ字なんてろくに読めねぇし、法律なんて説明されても半分も分からんけどよ」
ジョッキを傾けながら笑う。
「元聖女様が決めたんなら、少なくとも俺たちを苦しめるためのもんじゃねぇだろ」
「それは分かる」
「間違いねぇな」
カウンターの向こうから、パン屋の女将も笑って口を挟んだ。
「元聖女様って、いつも私たちのことで怒るものね」
「そうそう」
「悪いことをした貴族には怖いけど、普通に暮らしてる私たちには本当に優しいもの」
「前なんか、うちの店で普通にパン買ってたぞ」
「本当か?」
「本当よ。しかも『これ美味しい!』って二つ追加で買ってくれたんだから」
「それ、ただ腹減ってただけじゃねぇか?」
「あははは!」
店中が笑う。
農夫も楽しそうにジョッキを掲げた。
「また町へ買い物に来てくれるんだろ?」
「パン屋に寄って」
「八百屋にも寄って」
「市場で果物買って」
「子供たちに手を振ってな」
別の男が笑う。
「ヘレナ様やスージー様たちも一緒だろ」
「ああ」
「あの人たちが歩いてると、子供たちがすぐ集まるんだよな」
「分かる。うちの娘なんて、元聖女様を見かけた日、一日中その話してたぞ」
「『聖女様が手を振ってくれた!』ってか?」
「そうそう。それだけで三日は自慢してた」
「可愛いもんだな」
また笑い声が広がる。
一方で、若い商人が少しだけ真面目な顔で口を開いた。
「でもよ」
皆が振り向く。
「俺は、元聖女様が戻ったからって、全部前と同じでいいとは思わねぇ」
酒場が少し静かになる。
「今回、俺たちだって散々怖い思いしただろ。結界がなくなって、神殿が何もできなくて……」
「ああ」
「だから、何か変えようとしてるんなら、それは必要なんじゃねぇかと思う」
年配の商人が頷いた。
「そうだな。元に戻るだけじゃ、また同じことが起きるかもしれん」
「難しいことは分からんけどな」
「そこは偉い人たちに考えてもらおう」
「珍しく正論だな」
「珍しくは余計だ!」
再び笑いが起こった。
店主がカウンターを布で拭きながら、ぽつりと言う。
「まあ、俺たちにできるのは、新しい法律が出たらちゃんと話を聞くことくらいだろ」
「そうだな」
「分からなきゃ誰かに読んでもらえばいい」
「俺は教会の掲示板で聞くぞ」
「お前、字読めねぇだろ」
「だから聞くんだよ!」
また笑い声。
誰も、新しい法律の詳しい中身は知らない。
何が変わるのかも、まだ分かっていない。
それでも、先ほどまで不安そうだった者たちの顔には、少しずつ笑顔が戻っていた。
「法律のことなんざ、俺には分からん」
年配の商人が再びジョッキを持ち上げる。
「でも、元聖女様が決めたんだろ?」
「ああ」
「なら、まず話くらい聞いてみようじゃねぇか」
「それで俺たちの暮らしが良くなるんなら万々歳だ」
「違いねぇ」
「そうだな」
誰かが声を上げる。
「とりあえず今日は、結界が戻った祝いだ!」
「おお!」
「店主、もう一杯!」
「だから金は払えよ!」
「分かってるって!」
笑い声とジョッキの音が、酒場いっぱいに広がった。
元聖女様が決めたことなら、きっと民のためになる。
少なくとも、自分たちを苦しめるためのものではない。
それは、単なる盲目的な信仰ではなかった。
困った時に助けてもらった者がいる。
家族を救われた者がいる。
店を守られた者がいる。
子供へ笑いかけてもらった者がいる。
そんな小さな記憶が、王都のあちこちに積み重なっている。
だからこそ、人々は自然とそう思うのだ。
『元聖女様が決めたことなら、まず信じてみよう』
その信頼を疑う者は、王都にはもうほとんどいなかった。




