その17
## 新大神官
「お久しぶりでございます……聖女様」
紅茶を飲んでいた私は、その声に顔を上げた。
「あら、新大神官」
少しだけ笑ってから、すぐに訂正する。
「でも、私はもう聖女じゃないわよ。ただの市井の女の子」
新大神官は苦笑しながら、深々と頭を下げた。
「そうでございました。失礼いたしました」
その姿を見て、私は少し驚いた。
一か月ほど前に見た時より、十歳は老けたように見える。頬はこけ、目の下には濃い隈ができていた。
よほど大変だったのだろう。
「それで?」
私が続きを促すと、新大神官は一度息を整え、静かに報告を始めた。
「この度、新聖女は朝の務めを放棄し、国土結界を維持することもできませんでした。さらに、神殿に伝わる国土結界の神器を用いましたが、起動にも失敗しております」
「……そう」
「加えて、聖女に求められるほどの癒やしの奇跡も確認できておりません」
私は紅茶を一口飲んだ。
「まぁ。それは大変ね」
そして、首を傾げる。
「それで?」
新大神官は一瞬言葉に詰まったあと、震える声で続けた。
「……民のためにも、どうか――」
「違うでしょう?」
私は即座に遮った。
「……」
「民のためだけじゃないでしょう?」
新大神官は黙り込む。
私はティーカップを置いた。
「あなたたちが困ってるから、私に戻ってきてほしいんでしょう?」
重い沈黙が落ちた。
しばらくして、新大神官は静かにその場へ膝をついた。
「……おっしゃる通りでございます」
そして、そのまま深く頭を下げる。
「私たちは、愚かな選択をいたしました」
声が震えていた。
「自分たちの判断が正しいと思い込み、元聖女様のお言葉にも耳を貸さず、結果として民を苦しめることになりました」
さらに頭を下げる。
「どうか、お許しください」
私は何も言わず、その姿を見つめていた。
「何かご希望がございましたら、すべて受け入れます。可能な限り、全力で実現いたします」
「ですから……何卒」
一度、声が途切れる。
「何卒、我々をお助けください」
しばらく沈黙が続いた。
私は新大神官を眺め、それから小さく息を吐いた。
「まぁ……旅行もできたし、このくらいで許してあげるわ」
新大神官が驚いたように顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「民まで苦しませたいわけじゃないもの」
私は窓の外へ目を向けた。
「怒ってる民って、あんまり好きじゃないのよね。やっぱり、笑ってる民の方が好き」
そう言って、ティーカップを置く。
「だから、条件を言うわ」
新大神官の表情が引き締まり、真っ直ぐ姿勢を正した。
「何なりと」
「まず、神前契約へ署名したすべての貴族家について」
私は指を一本立てる。
「現在の当主は引退。今後、私の前には二度と顔を出さないこと」
部屋が静まり返った。
「……全家でございますか?」
「全家よ」
私は淡々と続ける。
「神紋については……たぶん出るでしょうね。でも今回は、あまり目立たないものにしてあげる。さすがに十分反省したでしょうし」
少しだけ考えてから、もう一つ付け加えた。
「その代わり、跡継ぎにはちゃんと教育しなさい」
「教育……でございますか?」
「そう」
私は新大神官を見る。
「民は守るもの。貴族は民がいるから貴族でいられる。民は貴族のために存在しているんじゃない」
少しだけ声を強める。
「それを忘れないように、きちんと教えること」
「必ず徹底させます」
新大神官は迷わず頷いた。
私はさらに続ける。
「それと、次に同じようなくだらないことをしたら――」
一瞬だけ笑みを消す。
「今度は本当に許さないわよ」
「……承知いたしました」
新大神官の顔がわずかに引きつった。
「次。新聖女について」
私は少し考えたあと、ため息をついた。
「もう駄目ね」
「……」
「神殿のお金で豪遊して、民を怒らせて、傷つけて、泣かせた。それでも、自分が悪かったと思っている様子がないのでしょう?」
「……はい」
「魂の色も、かなり危ないことになってるわ」
私はしばらく黙り、それから静かに告げた。
「公開の場で裁きなさい」
新大神官が顔を上げる。
「罪状をすべて明らかにして、民の前で正式に裁くの。神殿が都合の悪いことを隠したと思われないように」
そして、短く付け加えた。
「その裁きの結果、極刑となるのであれば、それも受け入れなさい」
新大神官は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「それから、この騒動で家族を失った人、怪我をした人、住む場所を失った人たちを、きちんと調べなさい」
私は指を二本目に変える。
「亡くなった人たちのために、合同慰霊祭を開きます」
「はい」
「神殿が責任を持って、心を込めて送りなさい。形式だけの儀式にはしないこと」
「必ず」
新大神官は目元を押さえながら、それでも必死に言葉を書き留めている。
私は最後に、もう一本指を立てた。
「あと――これが一番大事」
新大神官だけでなく、同席していた者たちも一斉にこちらを見た。
「領民に、領地を自由に離れる権利を認めます」
室内がざわついた。
「……領地を、自由に?」
「そうよ」
私はゆっくりと言葉を続ける。
「住む場所も、働く場所も、どこの領主のもとで暮らすのかも、自分で選べるようにする」
「しかし、それでは領主の税収が――」
「だから何?」
ざわめきが止まった。
「嫌なら、民が出ていかない領地を作ればいいでしょう?」
誰も何も言えない。
「ちゃんと守ってくれる領主。無茶な税を取らない領主。困った時に助けてくれる領主」
私は微笑む。
「そういう領主のところには、自然と人が集まるでしょう?」
「……なるほど」
「逆に、民を苦しめる領主の土地からは、人がいなくなる」
私は静かに告げた。
「それでいいのよ」
「民は領主の所有物じゃない」
一言一言、はっきりと伝える。
「人は、自分がどこで生きるのかを選んでいい」
「住む場所も、働く場所も、自分の人生も」
「人として生きる権利があるの」
しばらく誰も声を発しなかった。
やがて私は、いつもの調子に戻って微笑んだ。
「以上よ」
新大神官は、しばらく立ち上がることすらできなかった。
やがて両手を床につき、深く、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
声が震えていた。
「聖女様」
私は少し困ったように笑った。
「だから」
「……はい?」
「私はもう聖女じゃないって」
紅茶へ手を伸ばしながら、肩をすくめる。
「今はただの、市井の女の子よ」




