その16
## 新大神官
「……もう限界だな」
私は机に肘をつき、深く項垂れた。
「我々は、選択を誤った」
その一言で、部屋は静まり返った。
しかし、会議に集まっていた七人の枢機卿から返ってきたのは、同意ではなく冷ややかな視線だった。
「我々……ですか?」
一人の枢機卿が鼻で笑う。
「我々というより、お前たちだろう。元聖女様へ選択権を渡し、あの神前契約へ署名したのは、お前たちなのだからな」
「…………」
誰も否定できなかった。
あの日、元聖女様が聖女の座を降りることを認め、その神前契約へ署名したのは私たちだ。
今さら後悔したところで、なかったことにはできない。
その時、閉ざされた窓の向こうから、今日も民衆の声が響いてきた。
「元聖女様を返せ!」
「新聖女は何をしている!」
「結界を張ってくれ!」
「このままじゃ村が滅ぶ!」
「子供を助けてくれ!」
神殿騎士たちは必死に民衆を抑えている。
だが、それももう限界だった。
日を追うごとに人は増え、正門前だけでは収まらず、今では大神殿を取り囲むほどになっている。
王家は動かない。
いや――動こうとしない。
国王陛下は、すでにはっきりとおっしゃっていた。
「結界は神殿の領域である。王家にその責任はない」
冷たく聞こえるが、制度の上では正しい。
政治を担うのは王家。
信仰と聖女、そして国土結界を担うのは神殿。
これまで、その役割分担で国は成り立ってきた。
今回の失敗を王家へ押しつけることはできない。
高位貴族たちも動かなかった。
もっとも、彼らの場合は動く必要そのものがなかった。
元聖女様を支持し、神前契約への署名を拒んだ高位貴族たちの領地には、今も元聖女様の結界が残っているからだ。
彼らは結界を失った地域から逃れてきた避難民を積極的に受け入れている。
食料を配り、仮設住居を用意し、負傷者の手当てもしている。
だが、それ以上のことには口を出さなかった。
結界を失った下位貴族たちを見ながら、彼らが胸の内で思っていることは、おそらく一つだけだ。
――我々は間違えなかった。
――元聖女様を疑わなくてよかった。
それだけなのだろう。
さらに事態を悪化させたのが、貴族間の関係だった。
これまで寄り親として下位貴族を庇護してきた高位貴族たちが、神前契約へ署名した家との関係を次々に解消し始めたのである。
理由は単純だった。
『元聖女様へ疑念を抱き、自ら神前契約へ署名した。その時点で、我が家とは相容れぬ』
それだけを告げ、長年続いてきた関係を切った。
神前契約とは、それほど重い。
単なる政治的な署名ではない。
神の前で、自分の意思を示した証なのだ。
そして――。
我々が元聖女様に代わる存在として選んだ、新聖女。
私は思わず目を閉じる。
国土結界は張れなかった。
神器を使えば、わずか数秒で魔力を失って倒れた。
高度な治癒も使えない。
民が期待するような奇跡も起こせない。
その結果、民の間ではとうとう公然と囁かれるようになった。
『本当に、あの方は聖女なのか?』
今では民だけではない。
神前契約へ署名した下位貴族の間からすら、同じ疑問が出始めている。
その時、七人の枢機卿の一人が重々しく口を開いた。
「そもそも……あの神託は、本物だったのでしょうか」
「…………」
私は答えられなかった。
「大神官?」
「……今となっては、分からん」
それが本音だった。
新聖女が選ばれた時、我々は疑わなかった。
聖女が現れた。
ならば、その者を新たな聖女として立てればいい。
元聖女様が気に入らないのなら、代わりを用意すればいい。
……そんな程度に考えていた。
だが、現実はまるで違った。
そして何より、新聖女自身も日に日に追い詰められていった。
「私は悪くない!」
「民が悪いのよ!」
「神殿が悪い!」
「全部、お前たちのせいじゃない!」
毎日のように怒鳴り声が響き、部屋の物を投げ、神官たちへ当たり散らす。
ついには、身の回りの世話をしていた侍女にまで手を上げるようになった。
本人にとっても、この状況は耐えられないのだろう。
国中から『聖女なのだから何とかしろ』と責められ、元聖女様と比べられ続ける。
自分ではどうすることもできない。
だから周囲へ怒りをぶつける。
気持ちが分からないわけではない。
だが、このまま放置するわけにもいかなかった。
私は苦渋の決断を下した。
「新聖女を保護せよ」
名目上は保護。
だが実際には、神殿地下の牢へ移した。
外から民衆が押し寄せても簡単には辿り着けず、本人が暴れても周囲を傷つけにくい。
皮肉なことに、今の彼女にとって最も安全な場所が牢だったのだ。
私は机の上に置かれた大神官の印章を見つめた。
「……終わったな」
七人の枢機卿が私を見る。
しばらく沈黙したあと、私は大神官の印章を机の中央へ置いた。
そして立ち上がる。
「私は、これから元聖女様のもとへ行く」
誰も止めなかった。
いや。
止められる者など、もういなかった。
「元聖女様がお出しになる条件は、すべて受け入れる」
一人の枢機卿が眉を上げる。
「すべて、か?」
「ああ。すべてだ」
私は迷わず答えた。
「神前契約の失効も受け入れる。大神官の人事に口を出されても構わん。神殿改革を求められたなら、それも受け入れる」
「大神官の座を退けと言われても?」
「退く」
即答した。
「神殿の財産を民の救済へ回せと言われても?」
「従う」
「枢機卿の解任を求められれば?」
「必要なら、それも受け入れる」
部屋が静まり返った。
私は机の脇に立てかけてあった大神官の杖を取り上げる。
長い間、神殿最高位の証として持ち続けてきた杖。
だが今となっては、ひどく重く感じる。
私はそれを、印章の横へ静かに置いた。
「とにかく、戻っていただく」
声に力を込める。
「この国を救っていただくためではない。まず、我々が自分たちの過ちを認めるためだ」
七人の枢機卿が黙って私を見る。
「元聖女様は、すでに我々へ答えを示しておられた」
自分たちで選び。
自分たちで契約し。
その結果が間違っていたと思うのなら、自分たちで認める。
それだけなのだ。
「それができなければ、たとえ元聖女様が戻ってくださったとしても、我々はまた同じ過ちを繰り返すだろう」
誰も反論しなかった。
「だから、まず私が行く」
私は扉へ向かう。
「元聖女様へ謝罪する。そして神前契約の失効を、神殿として正式にお願いする」
振り返ることなく続けた。
「それが、大神官としての私の最後の仕事だ」
もう、この肩書きに未練はない。
地位にも。
名誉にも。
大神官という呼び名にも。
今さら守りたいものなど何もなかった。
ただ一つだけ。
心残りがある。
あの日。
神殿を去ることになったというのに、最後まで笑顔を崩さず旅立っていかれたあの方へ――。
私はまだ、一度もきちんと謝っていない。
だから今度こそ。
真正面から頭を下げよう。
そして伝えるのだ。
「申し訳ありませんでした」と。
ただ、その一言を。




