その15
## 元大神官
ヘレナ嬢のお屋敷。
庭園で紅茶を楽しんでいると、聖女様がふと思い出したように立ち上がられた。
「そろそろ神殿に行こうかしら」
私は驚いて顔を上げる。
「お戻りになられるので?」
「いやよ」
聖女様は即答された。
「私、もう聖女じゃないし。様子を見に行くだけ」
あまりにもさらりと言われるものだから、私は思わず苦笑してしまった。
「……お人が悪いですぞ」
「そう?」
聖女様は何食わぬ顔でクッキーを一枚つまみ、そのまま口へ運ぶ。
「だって、ちゃんと神前契約したもの。私は約束を守ってるわ」
「……確かに、その通りではありますが」
反論のしようがない。
神前契約は今も有効である。
聖女様は聖女の座を新聖女へ譲り、自らは市井で暮らす。そして、誰もその生活を妨げてはならない。
すべて契約に記された通りだ。
私は紅茶のカップを置き、静かに尋ねた。
「では聖女様。いつかは神殿へお戻りになるおつもりなのでしょうか?」
「そうねぇ……」
聖女様は少しだけ考えるように空を見上げたあと、あっさりと答えられた。
「全員が神前契約の失効を認めたら、戻ってあげてもいいわ」
「…………」
私は思わず固まった。
「聖女様」
「なに?」
「現在、あの神前契約へ署名した貴族家は、二百七十家を超えておりますが」
今度は聖女様が目を丸くされた。
「えっ? そんなにいたの?」
「……はい」
「まだそんなに馬鹿がいたのね」
あまりにも率直な感想だった。
私は何とも言えず、紅茶へ視線を落とす。
だが、少しして疑問が湧いた。
「失礼ながら、一つお尋ねしても?」
「いいわよ」
「聖女様は、あの者たちに復讐なさりたいのでしょうか?」
聖女様はきょとんとした。
「復讐?」
「はい。神前契約へ署名した者たち全員に頭を下げさせるとなれば、そう受け取る者もいるでしょう」
「別に、頭を下げさせたいわけじゃないわよ」
聖女様はあっさり言った。
「では、なぜ全員の同意を?」
「だって、あの人たち、自分で決めたんでしょう?」
「……はい」
「私なんかいらない。新しい聖女がいれば大丈夫。そう思って、自分で契約に名前を書いた」
聖女様はクッキーを一口かじる。
「だったら、『やっぱり間違ってました』も自分で言わないと駄目でしょう?」
「…………」
「誰かに言われたから撤回します、じゃ意味がないの」
聖女様はそこで少しだけ真面目な顔になった。
「私が戻れば、たぶん結界はどうにかできるわ」
その言葉に、私は息を呑む。
「やはり……」
「でも、それだけじゃ駄目なのよ」
「と、おっしゃいますと?」
「今すぐ私が戻って、全部元通りにしたらどうなると思う?」
私は少し考えた。
「民は救われますな」
「うん。それはいいこと」
聖女様は頷く。
「でも、偉い人たちは?」
「……」
「きっとこう思うわ。『結局、聖女が何とかしてくれた』って」
私は言葉を失った。
「それじゃあ、何も変わらないでしょう?」
聖女様は静かに続ける。
「次に気に入らない人が出てきたら、また追い出すかもしれない。自分たちは何をしても、最後には誰かが何とかしてくれるって思ったままだから」
「……なるほど」
「私はね、あの人たちを困らせたいんじゃないの」
聖女様は紅茶のカップを両手で包む。
「自分で考えてほしいの」
「自分たちが何を決めて、その結果どうなったのか」
「誰が困って、誰が傷ついたのか」
「それをちゃんと見てほしい」
声音は穏やかだった。
怒っているようには聞こえない。
「それで、自分たちが間違ってたって思ったなら?」
「……謝る?」
「そう」
聖女様はにっこり笑われた。
「間違ったなら、ごめんなさいって言えばいいのよ」
「それだけですか?」
「それだけよ」
あまりにも簡単な答えだった。
「王様でも?」
「王様でも」
「大神官でも?」
「大神官でも」
「二百七十を超える貴族家すべてでも?」
「もちろん」
そして少し考えたあと、付け加えられる。
「逆に、間違ってないって本気で思うなら、契約を続ければいいわ」
「……よろしいのですか?」
「いいわよ」
聖女様は肩をすくめた。
「自分で選んだことだもの」
そこで、ようやく分かった。
聖女様が求めているのは服従ではない。
謝罪そのものですらない。
自分で選び、その結果を受け止め、間違っていたのなら自分の意思で認めること。
それだけなのだ。
「聖女様は、この国を変えたいので?」
そう尋ねると、聖女様は少し困ったように笑われた。
「そんな大げさなことじゃないわよ」
「では?」
「偉い人が間違えた時に、ちゃんと『ごめんなさい』って言える国になれば、今より少し住みやすいでしょう?」
「……確かに」
「それに」
聖女様は庭の向こうへ目を向ける。
「偉い人の意地のために、普通の人が困るのは嫌なの」
その一言だけは、少し強かった。
私は静かに頭を下げた。
「よく分かりました」
「ならよかった」
聖女様は最後のクッキーを口へ放り込み、ぱんっと手を払って立ち上がる。
「さて。神殿、どうなってるかな~」
「……やはり少し楽しんでおられませんか?」
「ちょっとだけ?」
「聖女様」
「ふふっ」
悪びれる様子もなく笑っておられる。
私はため息をつきながら、その後ろ姿を見つめた。
復讐でも、服従でもない。
ただ、自分たちが選んだことに責任を持たせる。
それが聖女様の望みなのだろう。
そして、それができる国になった時。
きっと今より少しだけ、民にとって住みやすい国になっている。




