邯鄲荘のご隠居
障子の向こうからのぞいた顔に、小関男爵が立ち上がる。
ここまで連れてきた使用人と交代し、肩に腕を差し込んで廊下側の上座の席へとその老人を座らせた。
こちらも紋付を着ているが、状況をあまり理解できていない様子だ。
「ご無沙汰しています、ご隠居」
身を乗り出し、虚ろな視線をつかまえるようにして微笑む春斗。
すると、ご隠居と呼ばれた老人は、ぽかんとしたように春斗の顔を眺める。
「ち、父上」
小関男爵がうろたえながら言うが、ご隠居の視線は春斗の顔に釘付けになったままである。
不躾とも言えるその視線を、春斗はまったく意に介していないのか、おだやかな笑みを浮かべたまま、胸元から例の檜扇を取り出した。
パララと音を立てて開けば、かつて、冬斗が横浜港に降り立ち、そこから連行された車の中で嗅いだのとは別の香りがただよった。
(あの時は梅だったが……、これはたしか、蓮の香り)
冬斗はまだ、外遊へ向かう前の幼い頃に、母が香を焚いていたのを思い出す。
この国の火で焚いた香は胸いっぱいに吸い込んでもやわらかで、その後、西洋の地で嗅いだコロンの類とは異なるのに驚きを覚えたのだった。
(香りというのは、強く記憶に残るものらしい)
母が香を焚いていた道具類、部屋の様子、その時に母が着ていた着物まで、さまざまな場面が香りを糸口に引っ張り出され、冬斗がかすかな胸の痛みとともに、その消化に努めていた時のことだった。
「春の宮さま……!!」
ご隠居がそう絞り出したかのように言うと、震えながらソファを降りて、畳へと平伏する。
覆いかぶさるように、小関男爵が肩をつかんだ。
「父上、あらかじめお伝えしておいたじゃないですか。ここでは、はる……いえ、この御方は」
「外務省職員の鷲見碓氷ですよ、ご隠居。僕によく似たどなたかと間違われることで、せっかく汽車へ乗ってやってきた大磯で、自由に散策ができなくなっては困ります」
春斗がその、蓮の香を焚きしめた檜扇を一度畳に置いて、ご隠居の身体を起こすのを手伝う。
冬斗は思い出から現実へ戻ってくるのに時間がかかって出遅れ、見守るだけとなった。
なかば無理やり身体を起こされた形になったご隠居だが、視線は上向かない。
大磯にこの国ではじめての海水浴場ができ、政治家や実業家がこぞって別荘を建てるようになってから、そう長い年月は経過していない。
海を目の前に臨むこの好立地に、派手ではないが職人の技が光る小粋な装飾を凝らした『邯鄲荘』を建てたのは、このご隠居自身だろう。
かつては立派な口ひげを撫でながら、御一新の後の新政府で喧々諤々の議論をしていたかもしれないというのに。
(病気でもなされたのかもしれない)
初対面の冬斗が同情を覚えるほどに、ご隠居は身体を小さく縮め、しょぼくれていた。
そんなご隠居の様子をなだめるように微笑み、拾い上げた檜扇をゆったりとあおぎながら、春斗は男爵夫妻に視線を向ける。
「そろそろ本題に入りたいと思います。そう長い時間拘束して、ご負担をかけることはないと思いますから……」
春斗が檜扇で口元を隠して語尾を濁せば、ハッと男爵夫妻が顔を見合わせた。
「気が利かず、たいへん申し訳ございません。このとおり耄碌しておりますから、父が粗相をしでかさないか、甚だ心配ではございますが……」
「今日の僕は、外務省のいち職員ですよ。その僕に対して、元男爵のご隠居がどんな粗相をなさるというのです」
にっこりと微笑みつつも、開いていた檜扇をピシリと閉じた。
部屋の空気が変わり、男爵夫妻がそそくさと腰を上げた。
「それでは我らは失礼致します。何かございましたら、いつでもお呼びください」
「ありがとう」
とても外務省のいち職員が醸し出せる威圧ではあるまい、と冬斗は思わなくもなかったが。
現・男爵夫妻が慌ただしく障子を閉めて出ていくのに、ご隠居は身体をすくめたままそちらへ視線を向けることもなかった。
廊下を歩く音が遠ざかり、静まり返った庭の向こうから波音が聞こえてくるまでになると、春斗が立ち上がり、ご隠居の背中に手を添えた。
「小関のご隠居。今日は僕の留学時代の学友を連れてきたので、紹介します」
やさしく誘導するようにすれば、ゆったりと時間をかけてふたりの視線が冬斗のほうへと向く。
ご隠居の虚ろな瞳が、冬斗の正座した身体を下から上へとたどり、肩から首筋をたどって、目が合うと──。
「あ、アシュクロ、フト……」
まさか耳にすることになるとは予想もしなかった、冬斗の母の旧姓だった。




