海の見える喫茶店
「長男である兄さんを降下させ、次男である僕が跡継ぎにおさまることになった。その一連の騒動を取り仕切ったのが、あのご隠居です」
立ち寄った喫茶店のいちばん広いソファ席で、冷やし珈琲の氷をからりと揺らしながら、春斗がそう口にした。
さきほどまで滞在していた、小関男爵の別荘である『邯鄲荘』。
ご隠居と呼ばれた紋付袴姿であらわれた老人は、冬斗の顔を見ると亡き母の姓である「アシュクロフト」と口にした。
冬斗が戸惑いを覚えていると、ご隠居は平伏し、その後は畳に額を擦り付けるようにしてひたすら謝罪の言葉を繰り返したのだった。
春斗は口元を檜扇で隠し、公家の血を引く狐目でその様子をただただ眺めていた。
冬斗はひたすらに繰り返される謝罪の言葉と、この国で言うところの「土下座」にいたたまれなくなり、立ち上がってご隠居の傍へと腰を下ろした。
『顔を上げてください。理由もなく、ただただ詫びられてもどうしようもありません』
冬斗はそう言ったが、亡くなった母の人生を振り返れば、自分たちが宮中を去ることになったこと何かしらかかわりがあったのだろうとの考えは浮かんでいた。
その後も何度か同じような言葉をかけたが、老人は平伏も謝罪もやめはしない。
困り果て、状況を把握しきれないまま、言葉のうえだけでも「許す」と冬斗が告げようとした時のことだった。
『そろそろ帰りましょうか』
春斗は簡潔にそれだけ言うとさっさと立ち上がり、ご隠居と冬斗の脇を横切って、廊下側の障子を開けた。
『誰か、ご隠居をお願いできますか。僕らはもうお暇します』
決して張り上げているわけではなく、あくまで優雅だが、よく通る声で春斗が言えば、間もなく早足でこちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。
『今日はありがとう。また、お邪魔させてもらいます』
玄関先で受け取ったカンカン帽を浮かせ、社交辞令なのか、それとも来訪の予告なのかわからない挨拶を述べた春斗。
門構えの外で待ち受けていた車に乗ると、春斗は『アオバトへやってくれ』と運転手に告げた。
冬斗がさっぱりわからないまま、見送りに出てきた小関男爵夫妻に窓越しに頭を下げる。
遠ざかるうちに小さくなりながらも、いつまでも頭を下げている様子が後部座席からも確認できた。
『緑鳩』。
到着してみてわかったが、それは町の外れにある喫茶店の名だった。
(なぜ春斗は、大磯の喫茶店など知っているのだろう)
冬斗が訝しく思ううちに春斗は、カランとドアを開ける。
と、とたんに香り高い珈琲豆を焙る匂いがし、巨大なウォータードリッパーが現れた。
『ふたりです』
春斗はカンカン帽をとってひとさし指と中指で示すが、明らかに店主と着物にエプロンをつけた細君らしき女性は恐縮している。
メニューを見て春斗が頼んだ冷やし珈琲をふたつ出すと、そそくさと姿を消してしまった。
以降、誰も客が入ってこないところを見ると、貸し切りか閉店の札が下げられたのかもしれない。
香りと苦みとそれでいてまろやかな冷やし珈琲は、良い年のご隠居に、ひたすら平伏され、詫び続けられるのに辟易としていた冬斗の喉と心をほぐしてくれた。
対面に腰掛け、無邪気にストローで冷やし珈琲を吸い上げ、狐目を細めた春斗が唐突に口にしたのが、とてもさらりとは受け流せない、冒頭の言葉だったのだ。




