兄弟のバカンス
「ああ、このあたりは潮の匂いがいっそう濃いですね」
車を降りた春斗は、カンカン帽を頭にのせながらも檜扇は手放さず、夏のギラギラと照りつける日光を遮ってそう口にした。
ここは大磯。
冬斗は春斗に連れられ、とあるお大尽の持つ別荘『妻楢荘』に滞在して三日目を迎えていた。
妻楢荘は汽車が走る線路よりも山側に位置し、歩いてすぐ砂浜という距離にはない。
森林に囲まれた高台から見下ろし、海を含めた景色を楽しむための立地だ。
『兄さん、大磯へ行きませんか?』
ある日の午後、唐突に電話をかけてくると開口一番、春斗はそんなふうに誘ってきた。
『大磯、というと、神奈川の汽車の停まる駅だっただろうか。なぜまた?』
冬斗が核心に触れないよう咄嗟にそうかわせば、電話口の向こうの春斗はふふふと上機嫌に笑いを漏らした。
『バカンスですよ、バッカンス。あちらでは夏は、長期の休暇をとるものだと聞いていますよ。兄さんだって、十年ぶりの日本の夏には辟易してるんじゃないですか?』
図星をさされ、冬斗はうっと言葉につまる。
衛藤があれこれ工夫を凝らしてくれたとはいえ、乾燥した欧州とは異なる、湿度の高い日本の暑さは堪えるものだった。
『女学生も教職員も海浜学校で出払うのだから、理事長の仕事にも余裕ができるでしょう』
『いや、だからその期間は時計の事業に集中しようと……』
冬斗がつい本音を漏らしかけるが、それ以上言わせまいとするかのように畳み掛けてきた。
『では、決まりですね。汽車のチケットや滞在先なんかはこちらで手配しますから、半月ほど予定をあけておいてください。追ってまた連絡させます』
『えっ、あっ、春斗!?』
慌てて呼び止めるが、むなしくもすでに電話は切られていた。
冬斗の本業である時計の「と」の字でも、春斗の耳には届いていたのだろうか。
『……お疲れ様でございます』
がっくりとうなだれた冬斗に、衛藤はカットグラスに注がれたレモンアイスティーを出してくれる。
うなだれたまま持ち上げ、わずかに口に含むと、少しだけ気持ちが持ち直せたような気がした。
『ご令嬢方が海浜学校へ行かれるのも、大磯でしたよね』
『すべて承知で誘っているんだ、あいつは』
苦虫を噛み潰したような表情で冬斗が言えば、衛藤は気の毒そうな表情を浮かべながら、わずかに乱れていた窓のカーテンを整える。
冬斗は椅子の背もたれに寄りかかり、ぎしりと軋ませながらカーテンの向こうを眺める。
窓の外に見える景色は、強い日差しに照らされており、そのまぶしさに冬斗は青灰色の瞳を細めた。
『バカンスとは日常を忘れ、好きなことをして羽を伸ばす機会、だとは思わないか?』
冬斗がカットグラスのふちを撫でながら言えば、衛藤が静かに繰り返した。
『お疲れ様でございます』
というような経緯で、冬斗はバカンスとは名ばかりの、春斗の大磯行きに同行させられた。
一日目は移動、二日目は滞在する妻楢荘とその周辺を案内してもらい、妻楢荘の持ち主である前大臣と食事をともにした。
ちなみに春斗は、ここでは「鷲見碓氷」という偽名で過ごすという。
冬斗の留学時代の友人で、現在は外務省に勤めるいち職員とかいう設定だ。
そして三日目、朝食を終えると車を待たせてあるというので、冬斗は飲みかけの珈琲カップをテーブルに置いて、カンカン帽をかぶることとなった。
目的地を尋ねても、微笑みを見せるばかりの春斗の対応にもはやあきらめの境地に至り、停まった先で車を降りれば、これまた異なる趣向の別荘だった。
今、冬斗と春斗はその門の前にいる。
門構えには、かなりの年輪の樹木を切って作ったのであろう立派な看板に『邯鄲荘』と書かれていた。
かんたんそう、とでも読ませるのだろうか。
欧州帰りの冬斗が、馴染みの薄い中国故事に思いを馳せていると。
「本日の目的地はここですよ、兄さん」
春斗はカンカン帽に手をやると、『邯鄲荘』の看板が掲げられた門構えを颯爽とくぐった。




