サイダーと地図
匡子は、わざとお行儀悪くサイダーの瓶をそのまま唇につけて傾けながら、地図を広げた。
大磯の街の地図である。
すずりから見ると手前側が山、奥が海、地図の中央を横断するように汽車の線路が走っている。
海の中央に突き出すように出っ張っているところが大磯港で、そのすぐ近くを匡子は順番に指さした。
「今わたくしたちがいる南郷家の『御石荘』はここ。図々しくもこんな目立つ場所に、陣取りましたの」
すずりとさち子は、コップに注いだサイダーをすすりながらうなずく。
「そして、ここから右手側に海辺に沿ってずらりと別荘が軒を並べます。海からは離れて、山の上から大磯の街を見下ろすような位置にお持ちの方もいらっしゃいますが、今回、我らが花夢女学校は、すぐに砂浜に出られるところにある別荘に限ってお借りしたようですわね」
匡子が順に指さしていくのを目で追って、朝の体操と散歩で目の当たりにしている、果てしなく右手側へ続いていく砂浜と、別荘の並びを思い起こす。
女学校側は、いつから別荘の持ち主に打診していたのだろうか。
七月の最後の週から、八月の第一週にかけてというのは、すっかり夏の盛りである。にもかかわらず、花夢女学校の女学生たちだけで別荘を借り切り、砂浜と目の前の海を占領している。
花夢女学校が、将来の帝の妃候補とその女官候補を育成するという大目的を持っているにせよ、匡子の祖父をはじめ、そうそうたる面々から二週間ほど、大磯の海を楽しむ夏季休暇を奪ったことになるわけで──。
(あの方が、なさったのかしら?)
すずりはサイダーのグラスを手に持ったまま、光の加減によってさまざまな色に見える青灰色の瞳を持つ、理事長・鷹峯冬斗のことを考える。
背が高く、手足も長く、肌や髪の色も一段階明るい、この国の人離れした容貌の持ち主だ。
感情を表に出さず物静かであることから、厳しい冬が似合う人だと出会ったばかりの頃は思った。
ぎらぎらと太陽が照りつけ、その熱が染み込んだ砂が汗で張り付き、海へ入れば潮で肌がべたつく。
そんな野蛮なところのあるこの国の夏と冬斗はまったくそぐわない、のだが──。
そこで唐突にすずりは、バザールの打ち上げのお茶会の後に、堪えきれず笑いを漏らした冬斗を思い出した。
(……溶けない氷、というわけでもなかったわ)
すずりはサイダーのコップを持ち替え、持っていたほうの手とコップをそれぞれの頬へとあてる。
昼間に浴びた日差しのせいか、塩みのある風呂の湯のせいか、潮風に吹かれたとはいえ、かなりの距離を歩いたせいか。
夜の海辺を散歩し、少し冷えてしまったかと懸念したにもかかわらず、その頬の熱はなかなか冷めなかった。
「あら、すずりさんは怪談の類は苦手でいらっしゃるの?」
「……こわくて青ざめているというよりは、のぼせていらっしゃるようにも見えますけれど」
匡子と多枝子に覗き込まれ、すずりはあわてて頬からコップを放す。
そして、ごまかすようにサイダーの瓶から残りを注ぎ、ぐぐっとあおった。
だが、サイダーは炭酸飲料である。
通常より多くの量を勢いよく飲み込んだことで、すずりはむせることになった。
「すずりさん!?」
「しっかりなさって」
「大丈夫!?」
三人の令嬢にそれぞれのやり方で介抱されるすずり。
ゲホゲホと苦しい思いをした後、涙をにじませてようやく呼吸を落ち着けると。
「夏の海に幽霊だなんて、誰もが興味津々のお話ですのに。何を考えてそんなにぼんやり、うっとり、ぽわわわんとなさってたのかしら」
さち子が意味ありげな笑みを浮かべ、さきほどまでコップを押し付けていた頬を指先でつつく。
こちらは、ギリシア彫刻のような海の精の全裸から完全復活したらしい。
そのにんまりとしたひとえのタレ目に考えていたことを見抜かれたような気がして、その指から逃れ、咳払いをした。
「生霊や鬼神雷神、陰陽師に呪詛の方法まで、公式記録にあるものないもの、文字になったものはすべてこの頭の中に放り込まれていますわ。なにを怖いことがありましょうか!」
だん、と手のひらで床をたたけば、軽く浮かび上がったサイダーのコップがかたんと音を立てた。
その様子に匡子は軽く目を見開いた後、すずりの挑戦を受け入れたかのように、地図をとんと指さした。
「では、続けますわね。実は昨年の夏あたりから、この大磯で、夜の海で泳ぐ幽霊を見たという人が増えたそうなんですの」
すずりはハッとなって息を呑む。
とっさにさち子を見るが、黙っていろとでもいうように片目をつむって見せた。
それには気づかなかったのか、匡子が令嬢たちの肩を伸ばした腕で抱き込むようにすると、声をひそめてこう囁いた。
「大磯を知る者ほど、夜の海に近づいたりしないものですわ。なにせ海水浴は日光とともに潮風を浴びるのが重要なのですから、冷えた夜風なぞ、健康のためには当たるものじゃございません。それが昨年の夏、とあるお大尽が大磯の別荘へこられ、何を血迷ったのか夜の海辺に出掛けたところ、抜けるように白い肌に、海水のしたたる長い髪を貼り付けた幽霊が、海から上がってきたとか。それを見たお大尽は怯えきって別荘へと帰り、それきり大磯へ来ているというのに、別荘を一歩も出ず、海へも近づこうとしないんですって。そして夜は、部屋の明かりをつけたまま、布団をかぶって震えてお休みになるそうよ。もしかして、幽霊うんぬんの前に、夜の海辺に散歩に出た時点から、頭がぼんやりなさってたのかもしれませんけれどもね」
そう情感たっぷりに語った匡子に、すずりは釈然としなかった。
あれは美しくこそあれ、おそろしいものではない。
たしかに、突然現れれば驚きはするけれども、夜の海に引きずりこまれそうになったわけでもなし、その恐怖が一年以上も続くものだろうか。
いまだに怯え続けるお大尽のほうに、なにかしらの事情があるのではないかと、すずりは思ってしまったのだった。




