足洗い場にて
「泳いでいる人がいた、ですって?」
すずりとさち子が洗い場で砂を落とし、濡れた足を手拭いで拭っていると、様子を見にきて柱にもたれかかった匡子が声を上げた。
「しっ、匡子さん。大きな声を出すと、ここにいるのが見つかってしまいますわよ」
多枝子があわてて言うと、匡子は自分の手のひらで口を覆う。
ほんのりミルクキャラメルの匂いがただよっている気がするから、おそらく多枝子は今日も律儀に『赤い蝋燭と人魚』の暗誦の練習を欠かさず行い、そのご褒美として口の中に忍ばせたのだろう。
バザールですずりたちが親睦を深めた、ロ組の多枝子と匡子。
匡子の祖父の持ち物である別荘『御石荘』に、ロ組の女学生ばかりが配属されたそこに、ふたりとの関係からすずりとさち子も部屋を割り当てられた。
近づくなと念を押された夜の海に、こっそりふたりきりで散歩に抜け出せたのは、匡子が入念に別荘の間取りや裏木戸の仕組みなどを教えてくれたおかげだった。
だがその分、匡子と多枝子の側も融通がきくわけで、約束もなしにすずりとさち子の部屋を訪ねてみたところ、もぬけの殻だったというわけだ。
戻ってきたふたりが、玄関を通らずに直行できる足洗い場で足を洗っていたところに、手拭いを持った匡子と多枝子が現れた。
それ自体はたいへんありがたかったのだが、夜の海に無断で出かけたことはお見通しのようだった。
匡子は、夏は毎年のように別荘へ来ていたというから、夜の海へ散歩へ出かけるなど経験済みに違いなく、一方で優等生の多枝子は、学校から出たお達しに逆らうことなど決してしないのだろう。
すずりとさち子が足の甲にまで張り付いた砂を水で落としていくのを、匡子はあきれたように、多枝子は誰か来やしないか絶えず背後を気にしながら、辛抱強く待ってくれた。
雑談程度に海辺の状況を尋ねられ、ざっと夜の海岸の様子を答えた後、さち子が口にしたのが、海の精とも見まごう、濡れた髪に浴衣を羽織った青年だった。
すずりは、煌々と明るい電球の灯った室内で、改めて先ほど見た光景が現実だったのかと思い直す。
だが、顔の半分以上を覆う眼鏡の奥から近眼の瞳をこらしたすずりとは異なり、さち子のひとえの垂れ目は千里眼なのだ。
まして、天上の月が狙いを定めたかのように惜しみなく月光を降り注いだ美しい裸体であれば、なおさら眼光鋭くなるものだろう。
多枝子に渡された足袋を履き終え、使い終わった手拭いを丁寧にたたみ、砂の流し残しがないか確認し終えると、さすがに狭い足洗い場に、妙齢の令嬢四人が佇んでいるのは異様な光景だった。
「お部屋にいらっしゃらない?一緒にサイダーでもいただこうと思って、冷やしておきましたの」
「サイダーにはお砂糖がたくさん溶けていますから、わたくしはいただきませんけれども。皆さんはいただいた後に、きちんと歯をお磨きになってね」
自分たちから誘ってきたくせに、相変わらずの多枝子の節制ぶりである。
夜風は涼しかったとはいえ、たまに出くわすごつごつとした岩につまづかないよう気を配りながら下り、遥か向こうまで続くような海岸線をひたすら歩いたら、喉が渇いていた。
冷えたサイダーというのはありがたい。
ふたつ返事で、すずりとさち子がその招待を受け、ロ組の他の令嬢たちと鉢合わせにくいという廊下を通って、多枝子と匡子の部屋へと向かおうとした時のことだった。
「そうですわ、幽霊」
「幽霊?」
匡子が発した不穏な言葉に、すずりは新しい足袋に包みたての足をぴたりと止めた。




