去り行く海の精
だが、その瞳の色をしっかりと確認することはかなわなかった。
その人物は、きゅっと浴衣の帯を締めるような仕草をすると、ふいとすずりとさち子に背を向けて、歩き始めてしまったからである。
華族や資産家の別荘地である大磯は電灯もあるが、近づくのを禁じられた海辺は暗く、手持ちの懐中電灯と月明かりだけが頼りだと言っても良い。
おまけにすずりは、筋金入りの近眼だ。
それでも、先ほど青灰色に月の光を反射した瞳を見せたその人物が、この国の人離れした体躯と容貌を備えていることはうかがい知れた。
と、そこですずりの目が、さち子の手が空中スケッチに動いているのを見つける。
ヒョイと覗き込めば、ひとえの垂れ目を限界まで見開き、踵を返して歩き出したその人物の広い背中に釘付けになっていた。
(禁断症状は治った、ということかしら)
とかく美しいものに目がないのが、さち子である。偲と麗子が演じる『ロミオとジュリエット』の妄想からは、とりあえず解放されたらしい。
新たな禁断症状の素に、上書き保存されただけかもしれないけれど。
「あ、ああっ」
さち子の切ない声に、その肩越しに先ほどの人物を探せば、近眼のすずりには夜闇に紛れたのであろうその姿は、見つけられなくなってしまった。
さち子は後を追って走り出そうとするが、慣れない砂浜に足を取られ、とさりと膝をついた。
「さち子さん!」
すずりは駆け寄り、さち子に手を差し伸べる。
「……先ほどの方、ご覧になって?すずりさん」
砂浜にがっくりと手をついたまま、さち子は顔も上げずに問いかける。
表情がうかがえないため意図をはかりかねるが、すずりは考えたままを口にした。
「目が悪い上にこの暗さですからよく見えませんでしたけれども、海から上がったばかりのようでしたわ。危険だからと禁止されている、夜の海で泳いでいたということですわよね」
いまさらながらすずりは、自分たちが禁じられた夜の海辺に散歩に出たのだということを思い出す。
我に返ったのか、濡れて砂が張り付いた足と草履が気になり始めた。
ふくらはぎの内側あたりの痒みは、虫に刺されたのかもしれない。
すずりは現実に引き戻されたが、さち子はまだ、先ほどの幻想的な人物のことが忘れられないようだった。
「海の精、だったのかしら……」
差し伸べた手を取って立ち上がることもせず、さち子はまるで恋人に捨てられたかのように、未練たっぷりにその人物が去っていったほうを見つめている。
だが、海浜学校は明日も変わらず続く。
朝も早よから、健康的な太陽の光を浴びて体操をしなくてはならない。
さち子にも夢から醒めてもらう必要があった。
「勝手知ったる地元の方かもしれませんわね。あからさまに禁じられているのは、帝都から来たわたしたち女学生だけかもしれませんわ。さ、戻りましょう、さち子さん。足を洗わなくてはなりませんし、もし見つかったら大目玉ですわ」
すずりは屈み込み、さち子の腕を引いて半ば強引に立たせる。
そして役割を交代し、今度はすずりが先導して来た道を帰るべく、歩き出そうとした時だった。
「まるでギリシア彫刻のようでしたわ、彼……」
「彼?」
すずりが振り返れば、さち子はその頬に手を当て、絶世の美味を口にした時のように恍惚の表情を浮かべていた。
「浴衣を羽織る前、海から上がった瞬間の、生まれたままのお姿を見てしまいましたの。貴重な生身のモデルに拝謁できたのですから、しっかりと瞼に焼き付け、何度も繰り返しデッサンさせていただきたいと思いますわ」
すずりよりも早くその人物を見つけたさち子は、つまるところ全裸を見たということなのだろう。
これは夢から醒ますのは容易なことではないと判断し、うっとりぽやんとしたままのさち子の腕を、すずりはぐいぐいと引いて、歩きにくい砂浜をどすどすと踏みしめた。




