夜の海のお散歩
すずりとさち子は、寝間着の上から羽織を羽織り、裸足に草履で庭を降っていく。
御石荘から海に向かっては、緩やかな下り坂になっている。
夜闇に咲く百日紅や木槿を横目に、ふたりは転ばないよう手に手を取り合いながら、浜辺を目指した。
四阿の横をすり抜けて、裏木戸を出ると、草履が踏みしめるのはすでに海の砂である。
人を阻むかのように尖った葉を剥き出しにしている雑草を退け、藪蚊を手のひらで払いながら短い小ぶりな隧道をくぐると、突如目の前に夜の海が広がった。
「海だわ」
「涼しいこと」
今朝も早くから体操をし、日傘をさして散歩をした同じ海ではあるのだが。
太陽の光を反射させてきらめき、何もかもがまぶしい昼の海とはまったく別物の景色に見えた。
月の明るい夜ではあったが、広がる海は不気味に果てしなく、昼間も聞こえていたはずのザザン、ザザンという波音が、より大きく、不穏に響き渡る気がする。
海風に吹かれ、さち子は寝支度に半結びを解いた髪を押さえた。
ここへ来るまでの間に草履の中に入り込んだ砂が気持ち悪く、片足ずつあげてパッパと払い落とすが、完全に払い切ることはできない。
(戻ったら足を洗わせていただこう)
別荘の持ち主の孫娘である匡子から、玄関を通らずとも足洗い場に直行できる行き方を教わっていた。
まさかこんなに早く、そこを使わせてもらうことになるとは思わなかったけれど。
「さち子さん、よろしいですか。決して泳ぎませんわよ」
「わ、わかっていますわ。だから着替えもなにも、持ってこなかったじゃありませんか」
昼間とは異なり、人を拒絶するかのような夜の海を前に、ようやく禁断症状がおさまったのだろうか。
さち子はすずりの手を引くと、波打ち際を頼もしい足取りで、だが味わうようにじっくりと歩いていく。
すずりは波が跳ね上げて寝間着の裾を濡らさないよう気を配りながらも、腕を引かれるままに、後ろをついていった。
(なんだってまあ、海浜学校などするのかしらと思ったけれど、悪くないのかもしれないわ)
すずりにとっては、生まれてはじめて目にする海だった。
大江の家は落ちぶれていたし、湿気は書物にはご法度である。
かつての誰かが危険を冒してまで測量に出掛けた記録や、歌人が情感たっぷりに歌ったものを、蔵の中に引きこもってありがたく読ませていただくのが大江の家の血なのだろう。
とはいえ、せっかくだからと『源氏物語』の「須磨」のところを引っ張り出してきて改めて読み直してみれば、なるほど実物の海を目の当たりにすれば、味わいがまた違ってくる。
とはいえ、年頃の令嬢たちが、黄色い声できゃっきゃとはしゃぐ海辺であるから、都を離れざるを得なかった源氏の君の侘しさに共感することはできないのだけれども。
(多枝子さんにお借りした『赤い蝋燭と人魚』の海は、北の海の冷たさ、荒々しさが伝わってきたわ)
華族の別荘が軒を連ねる大磯の海岸は穏やかで、たとえ夜闇の不気味さはあっても、人魚の母の恨みが船を難破させるような恐ろしさはなかった。
(大磯まで来ても毎晩、暗唱の練習はなさっているのかしら)
多枝子の手蹟で注意書きが記された取り扱い注意の絵本は、さち子とふたりで絵を眺めながらひととおり目を通すと、早々に返却した。
匡子のはからいで同じ南郷の別荘内にいるのだから、本当に知りたいのであればロ組のふたりが寝泊まりする部屋を訪問してもよいのだけれども。
(キャラメルをお召し上がりのところに出くわしてしまっては、気まずいし)
演劇祭を目掛けて、イロハの各組はそれぞれで団結し、他クラスとはそこはかとなく敵対関係になっているような気がしている。
匡子の別荘に配置されたことで、ロ組の令嬢たちとすれ違うことも多いすずりは、そんなふうに感じていた。
それはすずりがハ組の主役で、令嬢たちですら憧れるアッシェンプッテル役を演じるというのもおおいにあるのだが、知らぬは本人ばかり、である。
どこまでも続くような波打ち際は、いくら歩いても終わりを迎えることがないような気がする。
砂と海水で汚れた足が冷えてきたこともあり、そろそろ戻らないかとさち子の背中に声をかけようとしたその時だった。
「あら?」
そう小さく声をあげると、さち子が立ち止まり、いつもならリボンのある後頭部とすずりの眼鏡がぶつかった。
「どうなさったの、さ……」
言い終わらぬうちに、さち子の手のひらがすずりの口を覆い、もう片方の手の指がまっすぐ前を指し示す。
海風と湿気でやや曇った眼鏡の奥の近眼の目を細めて、さち子の指の先が示すところを見れば──。
月光の下、波打ち際にま白い肌に浴衣を羽織っただけの姿で、濡れた髪をかき上げるような仕草をする人物がいた。
(人魚の母親……?)
先ほどまで、多枝子のことを思い出して『赤い蝋燭と人魚』の世界に浸っていたすずりはそんなふうに思ったりもするが、残念ながらその人物は浴衣からはだけて見える二本足で、波打ち際の砂浜をしっかりと踏みしめていた。
すずりとさち子に気づいたのか、その人物がこちらを向くと、ちょうど月の光を浴びた切れ長のふたつの瞳が、青灰色に光ったような気がした。




