相棒の禁断症状
「夜の海に行きませんこと?」
夕食も風呂も終えて畳の上に敷かれた布団に寝そべり、すずりがようやく読書の黄金時間に入ろうとした時のことだった。
こちらも寝間着に着替えたさち子が、畳に膝をついて覗き込んできた。
すずりは日中、こってり井伊委員長にしぼられている。
さち子は舞台美術班にいて別作業はしているものの、地獄耳のさち子が事態を察知していないはずがない。
すずりにとっては、夜の読書は待ちに待った黄金時間で、それはさち子もよぉくわかっているはずだが。
「煩悩を打ち払いませんと」
「煩悩?」
すずりが起き上がると、さち子は禁断症状が出たかのように震えだした右腕を、がしりと左手で抑えた。
「少し油断すると、頭が勝手に麗子さんたちの『ロミオとジュリエット』を妄想して、イ組の皆さんがいらっしゃる別荘のほうへふらりと向かってしまいそうになりますの。思い詰めるあまり、生霊のようになってもいけないと思いまして、禊に、海に入ろうかと」
「えええ?」
ついには全身が震えだしたさち子の肩を、すずりはがばりと抱きしめる。
自分で抑えてはいるが、手首だけは意志を持った別の生き物のように、小刻みに空中スケッチをしようとうごめいていた。
「さち子さん、ものすごい集中力で血糊の研究をしていらっしゃったじゃありませんか。あれは、煩悩を打ち払うほどには楽しくはありませんの?」
「ち、のり……ああ、……血糊ですわね。楽しくなくは、ありませんけれども」
今回、ハ組が取り組む『灰かぶり姫』では、アッシェンプッテルが履いていた絹の靴が入る足の持ち主を探すことで、王子が舞踏会で恋をした姫を見つけようとする。
絹ではなく、ガラスの靴を履いたシンデレラが主役の『灰かぶり姫』もあるが、ハ組が採用したのはアッシェンプッテルのほうだった。
衣装の小道具として実現するのは難しいが、ガラスの靴のほうが観客に強い印象を与えられるだろう。
絹の靴でそれを凌駕するには、どうすればよいか。
アッシェンプッテルをいじめる姉たちは、どうにかその寸法にあわない靴に足をおさめようと、足の指や踵を切断し、絹の靴が血であふれるというなんともおとぎ話にしては強烈な場面がある。
その場面を、本物そっくりの血糊をたっぷりと仕込み、あふれんばかりにして観客の視線を釘付けにしようというのが、ハ組の舞台美術班の思いつきだった。
そしてその開発・実験担当になったのがさち子なのだが──。
はちみつやら食紅やらを混ぜて、本物そっくりに作り上げようと取り組むさち子の背中は、どこか思い詰めており、不穏な空気をただよわせるまでになっていた。
すずりは井伊委員長にしぼられつつ、横目に入ってくるさち子が気になってはいたのだが。
「けれどもさち子さん、海浜学校のはじめの日に、夜の海には近づかないようお達しがあったではないですか。夜間は監視の方も含めて人がいないし、何かあっても暗くてわかりにくいしと。危ないですわよ」
「ご心配には及びませんわ。わたくし、けっこう泳げますの。絵を描くのに海の中を実際にこの目で見てみたくて、海女さんに教わって一緒に潜ったりしたことがありますもの」
「へえ……」
イノシシのスケッチに山に登った話は聞いていたが、この宮家の令嬢は海も山も、絵を描くために制覇しているわけだ。
誰か止めなかったのだろうかと思わなくもないが、禁断症状に震える肩を抑え込むのに、すずりの側もかなりの力が必要になってきていることを考えると、無理かもしれないとも思うのだった。
だが、やりたいことがかなわないと禁断症状が出るというのは、すずりにもよく理解できることである。
今の時点で生霊を飛ばし、麗子と偲の『ロミオとジュリエット』の読み合わせか何かを見に行っていないだけ、まだましかもしれなかった。
「わかりましたわ、さち子さん。海の中には入りませんけれども、砂浜を散歩いたしましょう。お付き合いしますわ」
読書の黄金時間を犠牲にしても、夜の海へ出かけるのに付き合うと言い出したすずりに対し、さち子はパッと顔を輝かせて、抱きついてきた。




