冬斗の家族
「だいたい、わたしをなんだと思っているんだ。笑うくらいする」
冬斗がそう言って、ややぶっきらぼうにジンジャークッキーをかじる。
もはや三枚目になると、生姜の刺激にも慣れてきたが、好みの味であることに変わりはなかった。
大磯を去る最終日にここへ立ち寄り、研究材料として衛藤への土産にしても良いかもしれない。
そんなことを思いながら、人型の足の部分まで食べ終え、空になった皿をテーブルの中央へと戻すと。
「失礼しました。しかし、兄さんの笑顔はなかなかに強力ですから、出し惜しみされたほうが良いと思いますよ。とくにご婦人の前では」
言いながら春斗が興味深げにクッキーを取り上げ、笑顔を正面にして右へと傾け、同じ方向に首を傾げて微笑んだ。
そして無慈悲に、その笑顔ごと、首のあたりまでザクリと齧り取った。
「うん、たしかに香ばしくて美味しいですね」
ザクザクと噛み砕く音を聞きながら、小ぶりな喫茶店のテーブルにぶつけないよう、足を組み直す。
冬斗は春斗に言われた「出し惜しみしたほうが良い」との言葉に眉をひそめつつ、カーテンを少しだけ開けて窓の外を眺めれば、ギラギラとさす日差しがまぶしかった。
ようやく過去の記憶と疲労から、現実へと戻された気がする。
母はもうなく、冬斗は成人していて、今は潮風の香る大磯にいて、夏なのだ。
冬斗が向き直れば、春斗はジンジャークッキーを食べ終えており、狐目を細めてにっこりと微笑んだ。
いつもの調子に戻った様子に、冬斗は軽い安堵を覚える。
狐がするりと腕の中に滑り込むような人懐っこさを持ち、その立場からも、人から拒絶されることなど想像もしていなさそうに見える春斗。
弟として扱えと言われながらも、冬斗の側には遠慮と気が抜けない緊張があった。
だが、それは春斗のほうでも抱えていたのかもしれない。
歳を重ね、自分の今の立場が何を犠牲にして成り立っているものなのかを理解できればなおさらだ。
花夢女学校は、政の視点でも重要なものだと春斗は言う。
信頼できる人にしか任せられないと、冬斗は抜擢され、断りきれないままに理事長の席についた。
だが、それは同時に、冬斗が春斗の庇護下に入ったことを意味する。
女学校設立の経緯を知る政府の中枢や春斗の周辺人物はもちろん、娘を女学校へ入れた華族たちにも、冬斗の存在は認識された。
理事長への推薦は、かつて太子の地位をめぐって政争を引き起こし、十年もの間外遊していた元第一皇子にして異母兄を、春斗が信頼していると示す行為に他ならない。
『僕の信頼する兄さんに手を出したら、僕がただではおかないよ』
果たして今となっては、その春斗の無言の圧が、頼る人も少ないこの国でどれだけ自分を救ってくれたのか知る由もないが──。
綿麻の背広の袖を捲り上げると、自分の腕につけた腕時計を春斗に示した。
「まだ試作の段階なんだが、新作だ。腕時計に慣れない人でも、日中つけっぱなしにしていても疲れが出にくいようにしたい」
「へえ、とてもいいですね。ぜひ完成したら教えてください。夏斗にも送ってやろうかな。いや、海に落ちては台無しかな」
「確かに、夏用は防水の観点も重要だ。となるとデザインに影響するのだけれども、検討材料にさせてもらおう」
冬斗は背広の内ポケットから手帳を取り出すと、万年筆の蓋を外し、サッと書き付けた。
すると、春斗は冷やし珈琲のグラスを奥へと押しやり、頬杖をつく。
「兄さんは本当に時計が好きなんですね」
「いじっていると時を忘れる。人の腹を探って限られた椅子を取り合うより、機械と向き合っているほうが向いているようだ」
「兄さんのお祖父様はお雇い外国人で医師でいらしたのでしょう。頭の出来が良いのはもちろんだけれども、機械にも通ずるところがあるのかな」
手帳と万年筆を内ポケットに戻した冬斗は、春斗が冬斗の家族について知識があることに意外に思ったが、すぐに考え直した。
理事長就任にあたって、冬斗について調べうる限りのことを調べたのだろう。
春斗から投げかけられた問いはあまりに深く、重い。
いつもの調子に戻ったとはいえ、冬斗は念押しが必要そうに思い、口を開いた。
「わたしの留学は、今思えばとても周到に手配されていた。語学習得の順序はもちろん、各国の名門大学に籍を置き、将来はその国の中枢を担うであろう貴族の子息たちと友人関係を結ぶことができた。母と大江の家の支援だけでは、そこまでのことはなし得なかったはずだ」
「帝国大学でも教鞭を執った、お雇い外国人医師のヘンリー・アシュクロフト。その知識と技術、人柄と教育への情熱にを惜しまれながら、十二年ほど前に帰国していますね。息子のケント医師も、数年遅れてはいますが同じく」
冬斗は軽く息を呑む。
そして、自分の伝手で知り得た情報についての確信を得た。
「母の日記に、祖父も叔父も登場しなかった。病に倒れたのであれば、西洋の医学に通じた家族を頼るのが自然だろうに」
「お母上が……、兄さんの留学のために、あちらへ戻るよう手配したのでしょうか。それは……、すなわち、ご自身は頼れる身内が国内からいなくなることを意味しますが」
春斗が慎重に選んだにもかかわらず、その言葉は冬斗の胸を鈍く痛ませた。
「外遊先でも直接、祖父や叔父に会うことはなかったが、今思えばどこのアパルトマンでも、語学学校でも、大学でも、時計工房やその他の見学先でも、会う人すべてが信じられないほどにわたしに良くしてくれた。異国の地で、そんなことが続くわけがない」
冬斗は込み上げてくるものを誤魔化すため、すっかり氷の溶けた冷やし珈琲を飲み込み、こほんと咳払いをした。
「母はわたしのために使えるものをすべて使い尽くし、外遊させた。ご自身のためには何ひとつ、残してはおかれなかった。見事な決意と覚悟だ。わたしは、あちらで得たものを活かし、これから生きて行かなくてはならない。過去を振り返って誰かを恨み、母の死に立ち会えなかったことを嘆いている暇など、ないのだ」
そうできるだけそっけなく言うと、冬斗は春斗の側に残った皿のジンジャークッキーを一枚、奪ってやった。




