微笑みのジンジャークッキー
「何を莫迦な」
冬斗はため息を吐きながら、そう口にした。
先ほどとは異なり、怒りも絶望もなく、ただただ呆れを覚えた。
きちんと足を閉じた春斗をよそに、冬斗はソファの背もたれに身を預ける。
外遊時代にすすめられ、社会勉強と一度だけ吸った煙草が急に恋しくなった。
だが、当然ながら喫茶店のメニューにそのようなものはないし、そもそも店には春斗と冬斗のふたりきりで取り残されたのだから、誰かに頼むこともできない。
(衛藤を帝都へ置いてきたのはこんな時不便に感じなくもないが、まあ、煙草など吸わなくて良いなら吸わないに限るか)
仕方なく冬斗は身を乗り出し、冷やし珈琲とともに小皿にのせて出された人型のクッキーを一枚、手に取る。
頼んでもいないのに出てきたから、サービスの茶請けなのだろう。
上機嫌ににんまりと微笑んだ顔の部分をさくりとひと口かじれば、バターの香ばしさとともに、少し苦みのある生姜の香りが口の中へと広がった。
洋菓子づくりに謎の才能を発揮する衛藤の期待に反し、冬斗は普段、それほどあまいものを欲しない。
だが、今日に限ってはそのジンジャークッキーがひどく美味に感じられた。
何の前触れもなく小関のご隠居と対面させられ、母の記憶がよみがえるような話をされたからかもしれない。
ご隠居には頭を下げて謝罪されただけ、母の記憶に至っては冬斗の頭の中で逡巡しただけだというのに、冬斗はひどく疲労を覚えていた。
(大江君が寝落ちした後、あれだけの量を食べるわけだ。あの儀式は相当な体力を使うのだろう)
冬斗は躊躇うことなく二枚目のジンジャークッキーに手を伸ばしながら、亡き母について“著しの儀”を依頼した、すずりのことを考える。
顔の半分以上を覆う大きな眼鏡を外した後、あの大量の日記と手紙を、それこそ頁あたり数秒で読み飛ばした後、何かに取り憑かれたように文字を書き殴った。
筆を置き、まだ墨の乾かない用紙を避けるようにして畳に倒れ込み、介添えしていた梨小路さち子に促されて抱き上げれば、多少の揺れではびくともしない深い眠りについていた。
彼女が寝ている間に、冬斗に与えられた“答え”は、とてもシンプルなものだったが、それでいて冬斗の胸に響いた。
記憶にある限り、人生ではじめて、涙というものを流したほどに。
それからしばらく眠り続けた後、医務室のベッドの上に半身だけ起こして、一度目覚めたすずりは洋菓子をむさぼり食べた。
そして翌朝、寝じわの寄った着物のまま食卓につくと、それは見事なほどに大量の朝食を平らげた。
普段から、何もかも準備万端に整えている衛藤が、ややあわてて別のメニューを用意しに厨房へ戻ったほどに。
夏斗には、初対面でたいそう無礼な求婚をされておきながら、もらったミルクキャラメルに罪はないとでもいうように上機嫌に口に放り込んでいた。
そして、夏斗の第一候補の妃としてひそかに名の上がっていた、若松子爵令嬢を混じえて開催した、バザールの打ち上げでのアップルパイの食べっぷり。
(そう頻繁に依頼しては、身体に障るかもしれない)
二度も立て続けに依頼したことを反省しながら、いよいよ三枚目となるジンジャークッキーを手に取る。
クッキーにクリームか何かで描かれた笑顔を眺め、つい釣られて冬斗はくすりと笑いを漏らしてしまった。
そのままその笑顔を無惨にも噛み砕くべく、口を開くと──。
「兄さんも、笑うんですね」
言われて視線を向ければ、春斗がやや面食らった表情をこちらに向けていた。
それはなんの含みもなく、年相応、いやそれ以上に幼く見えた。
冬斗が外遊へ向かう船に乗る前に、一度だけ垣間見た、まだ少年の頃の春斗を思い出させた。
そうだ、自分は問われていた。
母が異なる、半分だけ血のつながった弟に、自分を恨んではいないかと。
兄として、答えてやらなくてはいけない。
冬斗は口にしかけたクッキーを皿に戻し、組んでいた足を戻して春斗に向き直った。
「誓って言おう。いまだかつて、一度もおまえを恨んだことはない。そしてそれは、自分の人生も同じだ」




