泥の底の記憶
雨が降っていた。
村にやってきたのは、三日ぶりの恵みの雨だ。
畑の作物は喜んでいるだろうが、農作業は休みになる。
あばら屋の軒先で、俺は雨だれをぼんやりと眺めていた。
セレスティアは家の中で、破れた俺の服を繕っている。
クロエは「雨の日の剣の素振りは型が崩れる」とか何とか言って、部屋の隅で黙々と大剣を研いでいる。
奇妙な静寂だった。
雨の匂い。
湿った土の匂い。
それは、俺の記憶の奥底に沈んでいる、ある光景を呼び起こす。
——孤児院の、冷たい石の床。
『マスター。脳波の乱れを検知。過去の記憶領域へのアクセスが頻繁に行われています』
ナビの声が、思考に割り込んでくる。
「……黙ってろ」
『フラッシュバックは精神的疲労を引き起こします。記憶の抑制プロセスを起動しますか?』
「いらねえよ。俺の記憶だ。俺が処理する」
俺は目を閉じ、雨音に耳を澄ませた。
思い出したくもない過去が、泥水のように溢れ出してくる。
王都の裏路地にあった、薄暗い孤児院。
そこは、子供を育てる場所ではなく、子供を「商品」として管理する倉庫だった。
労働力として売られる者。
貴族の慰み者として売られる者。
そして、俺のように「どこにも売れない不良品」として、ただ死ぬのを待つ者。
俺は、感情が欠落していると言われていた。
殴られても泣かず、褒められても笑わない。
ただ、じっと大人たちの目を見ていた。
彼らが嘘をついているのが、わかっていたからだ。
『お前は特別なんだよ、アレン。だから、あの優しい貴族様のお屋敷に行くんだ』
院長は、いつもそう言って子供たちを売り飛ばしていた。
その「優しい貴族様」の屋敷に行った子供が、二度と戻ってこないことも。
たまに裏路地に捨てられている小さな死体が、誰のものかも。
俺は、全部知っていた。
愛なんてない。
優しさなんてない。
あるのは、利用価値だけだ。
俺が十二歳の時だった。
ついに、俺にも「買い手」がついた。
違法な魔術実験の検体を探していた、怪しげな魔術師だ。
院長は、金貨三枚で俺を売った。
その夜、雨が降っていた。
俺は、孤児院の裏口から逃げ出した。
泥だらけの路地を、裸足で走った。
息が切れ、肺が破けそうになっても、止まらなかった。
ただ、あの嘘だらけの場所から遠ざかりたかった。
王都を抜け、何日も歩き続け、行き倒れそうになった俺を拾ってくれたのが、この村のドノバン爺さんだった。
『お前、泥だらけだな。畑の土みたいにいい顔してる』
爺さんは、俺の目を見てそう言った。
初めて、嘘のない言葉を聞いた気がした。
それから俺は、この村で土を耕し始めた。
土は、嘘をつかない。
手をかければ応えてくれるし、サボれば枯れる。
その絶対的な法則が、俺を救ってくれた。
「アレン様?」
不意に、声がした。
目を開けると、セレスティアが心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。
「どうかなさいましたか? 顔色が……」
「なんでもねえ」
俺は、顔を背けた。
「……昔のことを、少し思い出してただけだ」
「昔の、こと?」
「王都にいた頃の、くだらねえ記憶だ」
セレスティアは、俺の隣にそっと腰を下ろした。
純白だったドレスは、俺が洗っても落ちない泥の染みがこびりついている。
だが、今の彼女は、王都で初めて会った時よりも、ずっと生き生きとしているように見えた。
「アレン様の過去……。知りたいです。アレン様が、どのような道を歩んで、この美しい泥に辿り着いたのか」
「美しい泥なんてねえよ。泥は泥だ。汚くて、臭くて、重いだけだ」
「いいえ」
セレスティアは、首を横に振った。
「泥は、命を育む揺り籠です。アレン様が教えてくださったではありませんか。この土がなければ、大根も、麦も、何も育たないと」
俺が教えたわけじゃない。こいつが勝手に畑仕事を手伝いながら、一人で納得しただけだ。
「アレン様は、ご自身のことを『何もない』と仰いますが、違います。アレン様は、この泥のように、全てを受け入れ、育む力を持っておられる」
「……買い被りすぎだ」
俺は、自嘲気味に笑った。
「俺は、何も受け入れねえよ。お前らだって、勝手に居座ってるだけだろ」
「ええ。勝手に居座っています。ですから、アレン様は何も背負う必要はありません。ただ、そこにいてくださるだけでいいのです」
セレスティアの青い瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。
嘘のない、純粋すぎる狂気。
孤児院の大人たちの濁った目とは、正反対の目。
だからこそ、怖い。
この純粋な狂気に触れ続ければ、いつか俺の「何もない」という防壁が、崩れ去ってしまうのではないか。
「……服の修繕は終わったのか」
「あっ、はい! 完璧に縫い上げましたわ! アレン様の匂いが染み付いた糸で……」
「気持ち悪いこと言うな」
俺は立ち上がり、家の中に戻った。
雨音は、まだ続いている。
泥の底の記憶は、再び心の奥底へと沈んでいった。
だが、その冷たい感触は、確かに俺の足元に残っていた。




