夜の底のノイズ
クロエが村に居着いてから、三日が過ぎた。
彼女は宣言通り、自分の食い扶持を稼ぐために働き始めた。
大剣を斧に持ち替え、裏山の木を恐ろしいスピードで伐採していく。その木材を村の男たちに売り、代わりに食料を得るという、極めて現実的なサバイバル能力を発揮していた。
一方のセレスティアは、相変わらず俺の畑で泥だらけになって働いている。
王女と暗殺者が、辺境の村で農民の真似事をしている。
傍から見れば滑稽な光景だろうが、俺にとってはただの「厄介な日常」になりつつあった。
その日の夜。
夕食を終え、セレスティアとクロエが土間に敷いた藁布団で眠りについた後。
俺は一人、あばら屋の外に出て、夜空を見上げていた。
星が、狂おしいほどに瞬いている。
孤児院の窓から見ていた星空と同じだ。
あの頃、俺はいつも星を見ていた。手が届かないからこそ、美しいと思えた。
『マスター。心拍数の低下を確認。精神状態が「憂鬱」に傾いています』
脳内で、ナビの無機質な声が響く。
「……うるせえ。ただ星を見てるだけだ」
『星の観測は、マスターの生存確率向上には寄与しません。睡眠による体力回復を推奨します』
「お前は、本当に機械なんだな」
『はい。私はシステムを管理するナビゲーション・インターフェースです』
俺は、地面に腰を下ろし、膝を抱えた。
「システムってのは、完璧なのか?」
『システムは絶対です。世界の物理法則、魔力循環、因果律、全てを最適に保つために存在しています』
「じゃあ、なんで俺みたいな『特異点』が生まれたんだ」
俺の問いに、ナビは数秒の沈黙を返した。
機械が「沈黙」する。それが、少しだけ気になった。
『……回答不能。マスターの存在は、システムの計算式において完全にイレギュラーです。……ただ、不快です。エラーの原因は、現在も解析中です』
「エラー、か」
俺は自嘲気味に笑った。
孤児院でも、俺は「不良品」と呼ばれていた。
親に捨てられ、誰からも愛されず、誰のことも愛せない。
感情が欠落した、壊れた子供。
それが、この世界そのものにとっても「エラー」だったとはな。
『マスター。エラーは修正されなければなりません。それがシステムのルールです』
「……お前、まだ俺を排除する気なのか?」
『現在のシステム権限では不可能です。しかし、システムは常に自己進化を続けています。いずれ、マスターを排除可能な権限を獲得する確率が存在します』
ゾッとするような言葉だった。
俺の脳内にいるこいつは、味方ではない。
俺を殺す機会を、常に窺っている監視者だ。
「……やってみろよ」
俺は、星空から視線を外し、自分の泥だらけの手を見た。
「俺は、誰の計算式にも従わねえ。俺の命は、俺のもんだ。お前らみたいな顔のないシステムに、勝手に終わらせられてたまるか」
『……記録しました。マスターの反抗意志を確認。……なぜ、あなたはそんなにも、システムを……私を拒絶するのですか?』
ナビの声が、わずかにノイズ混じりになった。
機械の声に「感情」のようなものが混じった気がして、俺は眉をひそめた。
『ザ……ガガ……システム……アップデート……開始……』
「おい、どうした」
『……警告。メインサーバーとの通信に……ガガ……異常発生……。……セレスティア・フォン・ルシフェルの魔力干渉が……』
ナビの声が途切れ、代わりにキーンという甲高い耳鳴りが響いた。
俺は頭を押さえ、顔をしかめた。
「くそっ……!」
数秒後、耳鳴りは治まった。
『……通信復旧。マスター、申し訳ありません。一時的なノイズが発生しました』
「ノイズ? セレスティアの魔力がどうとか言ってたな」
『はい。対象個体セレスティアの無意識の魔力放出が、システムと私の通信を阻害しました。彼女の存在は、マスター以上にシステムにとって危険なバグを引き起こす可能性があります』
あの女の「重すぎる愛」が、世界を壊しかけている。
冗談のような話だが、笑えない。
「……どうすればいい」
『繰り返します。対象個体セレスティアの精神を安定させてください。彼女がマスターへの執着を深めるほど、魔力出力は増大します。逆に、彼女がマスターから「愛されている」と確信し、精神が満たされれば、出力は安定します』
愛されていると確信させる。
つまり、俺が彼女に愛を囁き、抱きしめ、嘘をつけということだ。
「断る」
俺は、即座に答えた。
「俺は、嘘はつかない。愛してもいない女に、愛してるなんて言えねえ。そんなのは、孤児院の大人たちがやってたのと同じだ」
『マスター。これは生存のための最適解です。感情論は排除してください』
「感情論じゃねえ。俺の、生き方の問題だ」
俺は立ち上がり、家の方を振り返った。
隙間風の入るあばら屋の中で、セレスティアとクロエが眠っている。
あいつらは、俺の平穏を壊した厄介者だ。
だが、あいつらは少なくとも、自分の意志でここにいる。
自分の狂気を、隠そうともせずにぶつけてくる。
システムのように、顔を隠して計算式で俺を殺そうとする奴らよりは、ずっとマシだ。
「……俺は、俺のやり方で生きる。お前の指示には従わねえ」
『……了解しました。マスターの選択を記録。生存確率が低下しました。……マスターがそのように愚かな選択を続けるなら、私も、考えを改めなければならないかもしれません』
ナビの冷たい声を聞き流し、俺は家に戻った。
明日も、朝から畑を耕す。
泥にまみれ、汗を流し、土の重さを感じる。
それが、俺がこの世界に存在しているという、唯一の証明だからだ。
夜の底で、かすかなノイズが響き続けていた。
それは、世界が軋む音だったのか、それとも俺の心が軋む音だったのか。
その時の俺には、まだわからなかった。




