鍬と剣の邂逅
大根が走った事件から数日後。
村に、再び王都からの来訪者が現れた。
その日、俺は裏山の入り口で薪割りをしていた。
斧を振り下ろす単調な作業。だが、鍬を振るのと同じで、無心になれるこの時間が俺は好きだった。
セレスティアは家で洗濯をしている。彼女が視界にいない時間は、貴重な平穏だ。
パカーン、と小気味良い音を立てて丸太が割れた時。
背後の茂みが、ガサリと揺れた。
「……誰だ」
俺は斧を構え、茂みを睨みつけた。
魔物か、それともただの獣か。
茂みを掻き分けて現れたのは、全身を黒い鎧で包んだ人間だった。
鎧には、ルシフェル王国の紋章が刻まれている。
だが、以前来た白銀の騎士たちとは明らかに雰囲気が違う。血と鉄の匂い。数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた者特有の、重く淀んだ空気。
「貴様が、アレンか」
兜の奥から、くぐもった女の声が響いた。
俺は斧を下ろし、ため息をついた。
「また王都の人間か。セレスティアなら家にいるぞ。連れて帰るなら勝手にしろ」
「殿下を連れ戻すのは当然だ。だが、その前に一つ、やらねばならんことがある」
黒騎士は、腰に提げていた大剣をゆっくりと引き抜いた。
刃渡り一メートル以上ある、無骨な両刃剣。
殺気が、物理的な圧力となって俺の肌を刺す。
「王族をたぶらかし、その身分を貶めた罪。万死に値する」
「……はあ?」
俺は呆れて声が出た。
「たぶらかした? 俺が? 冗談じゃねえ、あいつが勝手に押し掛けてきて、勝手に居座ってるだけだ。俺は何度も帰れって言ってる」
「黙れ、下賎な農民が。殿下のような高貴なお方が、貴様のような泥まみれの男に自ら惹かれるなど、あり得ない。貴様が何らかの卑劣な魔術、あるいは呪いを使ったと考えるのが妥当だ」
黒騎士は、剣を正眼に構えた。
「我が名はクロエ。王室直属の暗殺部隊『黒の剣』の隊長だ。貴様を斬り捨て、殿下にかかった呪いを解く」
話が通じない。
王都の連中は、どいつもこいつも自分の頭の中のシナリオでしか世界を見ていない。
『マスター。対象個体クロエ、戦闘態勢に入りました。レベル85。物理攻撃力に特化した個体です。生存確率は、現在のマスターの身体能力では0.02%です』
ナビの冷静な声が響く。
0.02%。ほぼゼロだ。
「おい、ナビ。自動防衛システムとやらは起動しないのか」
『自動防衛システムは、マスターが致命的な攻撃を受ける直前にのみ起動します。また、連続使用にはシステムのクールダウンが必要です』
つまり、ギリギリまで俺自身で凌げということか。
ふざけたシステムだ。
「……仕方ねえ」
俺は、薪割りの斧を捨て、近くに立てかけてあった鍬を手に取った。
いつもの、俺の相棒。
「農具で、我が剣に立ち向かうつもりか? 愚かな」
クロエが地を蹴った。
速い。
だが、セレスティアの時の騎士よりは、軌道が見える。
俺は、鍬の柄を両手で握り、迫り来る大剣に対して斜めに構えた。
受け止めるのではない。いなす。
ドノバン爺さんに教わった、硬い木の根を掘り起こす時の鍬の使い方だ。
ガキンッ!
大剣と鍬が激突する。
凄まじい衝撃が両腕を襲う。骨が軋む音がした。
だが、鍬は折れなかった。
大剣の軌道が僅かに逸れ、俺の肩口を掠めて地面に突き刺さる。
「なっ……!?」
クロエが驚愕の声を上げた。
だが、暗殺部隊の隊長は伊達ではない。彼女は即座に大剣から手を離し、腰の短剣を抜いて俺の首元へと踏み込んできた。
速い。今度こそ防げない。
『マスター。対象の行動予測を上書きします。右へ半歩踏み込み、鍬の柄でカウンターを』
頭の中に響いたナビの無機質な声。
俺は思考を捨て、その指示通りに体を動かした。
右へ半歩。
直後、俺の左耳のすぐ横を、冷たい短剣の刃が通り抜ける。数本の髪の毛が宙に舞った。
俺は、すかさず鍬の柄を滑らせ、刃の背の部分で、がら空きになったクロエの兜の側面を思い切り殴りつけた。
ゴッ!
鈍い音が響き、クロエの体が大きく横に吹き飛んだ。
彼女は地面を数回戦がり、すぐに立ち上がったが、足取りがふらついている。脳震盪を起こしているのだろう。
「……馬鹿な。ただの農民が、私の剣を……」
「だから言ったろ。俺はただの農民だ」
俺は、痺れる両腕を隠すように、鍬を肩に担いだ。
「ただの農民だから、毎日畑を耕してる。毎日鍬を振ってる。あんたらの剣より、俺の鍬の方が、よっぽどこの土地の土を知ってるんだよ」
ハッタリだ。
本当は、手が震えて鍬を落としそうだ。
次の一撃が来たら、間違いなく防げない。
『マスター。特異点の力による「物理法則の局所的書き換え」を確認。鍬の耐久度が一時的にオリハルコンと同等に引き上げられました』
なるほど。俺の実力じゃなかったわけだ。
だが、結果オーライだ。
クロエは、ふらつく足で再び大剣を構えようとした。
その時。
「——そこまでになさい、クロエ」
冷たく、絶対的な威圧感を持った声が響いた。
振り返ると、いつの間にかセレスティアが立っていた。
泥だらけの服。ボサボサの髪。
だが、その青い瞳には、王女としての圧倒的な威厳が宿っていた。
「で、殿下……!」
「アレン様に剣を向けるなど、万死に値します。今すぐその剣を引きなさい。さもなくば——」
セレスティアの周囲の空気が、急激に冷たくなった。
足元の草が凍りつき、パキパキと音を立てる。
最強の魔術師の、本気の殺気。
「ここで、あなたを氷の彫像に変えます」
クロエは、息を呑んだ。
そして、ゆっくりと大剣を下ろし、その場に片膝をついた。
「……申し訳ありません、殿下。私はただ、殿下を惑わす賊を排除しようと……」
「賊ではありません。アレン様は、私の全てです」
セレスティアは、俺の隣に並び立ち、俺の腕にすがりついた。
「アレン様、お怪我はありませんか? ああ、腕が震えておられる……! 私がついていながら、なんてこと……!」
「……離れろ。泥がつく」
俺はセレスティアを引き剥がし、クロエを見下ろした。
「おい、あんた。呪いなんてかかってないって、これでわかっただろ。こいつは元からこういう頭のおかしい女なんだ」
「……」
クロエは、俺とセレスティアを交互に見比べた。
そして、深くため息をついた。
「……理解した。殿下は、本当にご自身の意志で、この男に執着しておられるのだな」
「執着ではありません。愛です」
「同じことだ」
クロエは立ち上がり、兜を脱いだ。
現れたのは、黒髪のショートカットに、鋭い三白眼を持った、二十代半ばの女だった。
顔の右半分に、大きな火傷の痕がある。
「アレンとやら。貴様が殿下をたぶらかしたわけではないことは、認めよう。だが、私は手ぶらで王都に帰るわけにはいかん」
「だから、連れて帰れって」
「無理だ。今の殿下の力に、私は逆らえない」
クロエは、大剣を鞘に収めた。
そして、信じられないことを口にした。
「ゆえに、私もこの村に残る」
「……は?」
「殿下の護衛として、そして貴様が本当に殿下にふさわしい男か見極めるためだ。安心しろ、食い扶持は自分で稼ぐ。畑仕事でも何でもやってやる」
俺は、天を仰いだ。
狂った王女の次は、狂った暗殺者。
俺のあばら屋は、いつから王都の連中の収容所になったんだ。
「……勝手にしろ。ただし、俺の鍬には二度と触るな」
「承知した」
こうして、俺の泥沼の同居生活に、新たな厄介者が加わった。
平穏な日々は、もう二度と戻ってこない。
俺は、重くなった鍬を引きずりながら、家へと歩き出した。
——その夜。
全員が寝静まった後、俺はふと目を覚ました。
窓の外、畑の方向に、薄い緑色の光が走ったような気がした。
一瞬だった。見間違いかもしれない。
だが、頭の中でナビの声が、いつもより少しだけ遅れて応えた。
『……異常なし。マスターの周囲に脅威は検知されていません』
そうか。
俺は目を閉じ、再び眠りに落ちた。
あの緑色の光が何だったのか、その時の俺には知る由もなかった。




