泥まみれの帰還
システムが崩壊し、世界が「初期化」の危機から脱した数日後。
俺たちは、泥まみれの王都を後にし、懐かしい辺境の村へと続く道を歩いていた。
王都の復興は、残された人間たちの手に委ねられた。
システムの庇護を失った人々は、最初は混乱していたが、シオンやルミナスといった連中が中心となって、泥臭くも確かな一歩を踏み出し始めている。クロエの墓前には、いつも新しい花が供えられていた。
ヴィクトリアも、贖罪のために王都に残り、復興の指揮を執ることになった。彼女の「完璧な計算」は、今度は人間を支配するためではなく、人々を助けるための「不完全な知恵」として使われるだろう。
「アレン様、足元、気をつけてくださいね。泥が跳ねますから」
隣を歩くセレスティアが、嬉しそうに俺の腕に抱きついてきた。
相変わらずの重い愛だが、不思議と以前ほどの息苦しさは感じない。
俺自身が、彼女の「不完全さ」を受け入れたからかもしれない。
「お前こそ、転ぶなよ。また泥だらけになったら、今度こそ大根の刑だからな」
「えへへ、アレン様と一緒なら、泥だらけでも幸せです」
セレスティアは、満面の笑みで答えた。
その笑顔には、かつてのような剣呑の狂気はない。だが、その瞳の奥には「絶対に離さない」という静かな執念が、磨かれた刃のように光っていた。
村に到着すると、懐かしい土の匂いが俺たちを出迎えてくれた。
俺の畑は、留守の間も村の連中が世話をしてくれていたのか、雑草一つなく、青々とした野菜が元気に育っていた。
「……ただいま」
俺は、畑の土を一つかみ手に取り、その感触を確かめた。
冷たくて、湿っていて、命の匂いがする。
これが、俺の帰る場所だ。
「お帰りなさい、アレン様」
セレスティアが、俺の隣で優しく微笑んだ。
俺は、泥だらけの手で彼女の頭を軽く撫でた。
「ああ。……帰ってきたぜ」
世界を救った英雄なんて、柄じゃない。
俺はただの、泥臭い農民だ。
これからも、この畑で土を耕し、種を蒔き、収穫を待つ。
時には雑草を抜き、時には害虫を駆除しながら。
隣には、重すぎる愛と、微かな狂気を抱えたままの、不完全な少女がいる。
彼女のその狂気ごと、俺は受け止めると決めた。それで十分だ。
「さてと、草むしりでも始めるか」
俺は、使い慣れた鍬を手に取り、畑へと歩き出した。
セレスティアも、嬉しそうにその後を追う。
泥まみれの、騒がしくも愛おしい日常が、再び幕を開けた。
畑仕事は、いつだって終わりがない。
草をむしり、土を耕し、水をやる。その単調な繰り返しの中にこそ、確かな命の営みがある。
「アレン様! 見てください、トマトがこんなに大きく育ちました!」
セレスティアが、泥だらけの顔で真っ赤なトマトを掲げて走ってきた。
その手つきはまだ少し危なっかしいが、以前のように魔法で無理やり成長させるようなことはしなくなった。
土と水と太陽の光。そして、少しの手間。
それが野菜を育てる一番の方法だと、彼女もようやく理解し始めたらしい。
「ああ、いい出来だ。今日の夕飯はトマトスープだな」
「はいっ! 私が腕によりをかけて作ります!」
セレスティアは嬉しそうに頷き、台所へと向かっていった。
彼女の後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
世界がシステムから解放されてから、数ヶ月が経っていた。
王都からは時折、復興の進捗を知らせる手紙が届く。シオンやルミナスたちは、それぞれの立場で新しい世界を築くために奮闘しているようだ。
ヴィクトリアからの手紙は、相変わらず無機質で事務的な文面だが、最後に「トマトが食べたい」とだけ書かれていたのには笑ってしまった。
シオンの手紙には、市場が再開したと書かれていた。子供たちが泥だらけの広場で走り回っているらしい。それで十分だ。
「……さて、もう少し耕すか」
俺は鍬を握り直し、再び土に向き合った。
システムとの戦いで負った傷は癒えたが、鍬を振るうたびに、あの戦いの記憶が脳裏をよぎる。
ヴィクトリアの冷たい瞳。セレスティアの悲痛な叫び。そして、ナビの無機質なノイズ。
あれは、俺にとっての「最大の草むしり」だった。
「アレン様ー! スープ、できましたよー!」
家の中から、セレスティアの明るい声が響いた。
俺は鍬を置き、土を払って家へと向かった。
食卓には、真っ赤なトマトスープと、焼きたてのパンが並べられていた。
セレスティアが、期待に満ちた瞳で俺を見つめている。
「どうですか? 味付け、少し変えてみたんですけど……」
「……うん、美味い。前のよりずっといい」
「本当ですか!? やったぁ!」
セレスティアは嬉しそうに両手を叩いた。
その笑顔を見ていると、胸の奥で固まっていた冷たい土塊が、少しだけ解けるような気がした。
孤児院で刻まれた記憶が、完全に消え去ることはない。
だが、この泥臭い日常と、目の前で笑う不完全な少女が、その冷たい土塊にゆっくりと水を吸わせている。
「……セレスティア」
「はい、アレン様」
「これからも、俺の畑を手伝ってくれ」
「……はいっ! 喜んで!」
セレスティアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女はそれを拭いもせず、ただ満面の笑みを浮かべている。
窓の外では、夕日が畑を赤く染め上げていた。
明日もまた、草むしりから始まる一日が待っている。
鍬を振り、泥にまみれ、不格好な野菜を育てる。
それが、俺たちの選んだ世界だ。




