純白の来訪者
脳内に「ナビ」が居座るようになってから、三日が過ぎた。
結論から言うと、俺の日常はそれほど劇的には変わらなかった。
相変わらず、朝起きて畑を耕し、飯を食って寝る。
ただ、その全ての行動に対して、脳内で無機質な実況解説が入るようになっただけだ。
『マスター、現在の鍬の振り下ろし角度は最適値から3度ずれています。修正を推奨します』
「うるせえ。俺の畑だ、好きに掘らせろ」
『マスター、本日の塩分摂取量が規定値を下回っています。寿命が縮む可能性があります』
「うるせえ。塩は高いんだよ」
最初は腹が立ったが、慣れればどうということはない。
無視すればいいだけだ。
孤児院で、院長の小言を聞き流す技術は身についている。
だが、四日目の昼。
事態は急変した。
その日、俺は村の広場にある井戸へ水を汲みに来ていた。
村の女たちが井戸端会議をしているのを避け、端の方で静かに桶を降ろす。
「聞いたかい? 王都から偉いお方が来るらしいよ」
「まあ。こんな辺鄙な村に?」
「なんでも、魔物討伐の遠征の途中で立ち寄るとか」
女たちの噂話が耳に入る。
王都の人間。
俺にとっては、最も関わりたくない存在だ。
孤児院の記憶が蘇る。綺麗な服を着て、見下すような目で俺たちを見ていた貴族たち。
水を汲み終え、さっさと立ち去ろうとした時だった。
『警告。超高密度の魔力反応が接近中。システムへの負荷が増大しています』
ナビの声が、いつもより切羽詰まった様子で響いた。
「魔力反応? 魔物か?」
『いいえ。人間です。しかし、この出力は異常です。規格外の個体が接近しています』
その直後。
村の入り口の方から、馬の嘶きと、金属が擦れ合う音が聞こえた。
広場にいた村人たちが、一斉にそちらを振り向く。
現れたのは、一団の騎士たちだった。
銀色に輝く鎧。純白のマント。
その中心に、一頭の白馬がいた。
乗っているのは——女だ。
太陽の光を弾く、流れるような金髪。
抜けるように白い肌。
そして、全てを見透かすような、深い青の瞳。
身に纏っているのは、実用性よりも装飾性を重視したような、豪奢な純白のドレスアーマー。
息を呑むほどの美しさだった。
だが、俺が感じたのは「美」に対する感動ではなく、本能的な「恐怖」だった。
あの女の周囲だけ、空気が歪んでいるように見える。
圧倒的な力の奔流が、彼女の体を包み込んでいるのだ。
『対象をスキャン。個体名:セレスティア・フォン・ルシフェル。ルシフェル王国第一王女。レベル99。全属性魔術適性S。現在の世界における最強の個体です』
王女。
しかも、最強。
俺は舌打ちをし、桶を抱えてその場を離れようとした。
関わってはいけない。絶対に。
だが。
「……見つけましたわ」
鈴を転がすような、凛とした声が広場に響いた。
白馬から降りた王女——セレスティアは、迷うことなく、俺の方へ向かって歩き出した。
村人たちが、慌てて道を空け、平伏する。
俺だけが、桶を抱えたまま立ち尽くしていた。
逃げるべきだと頭ではわかっているのに、足が動かない。蛇に睨まれた蛙の気分だ。
セレスティアは、俺の目の前で立ち止まった。
距離にして、わずか三歩。
彼女から漂う、甘く高貴な香りが鼻を突く。俺の泥の匂いとは、対極にある香り。
「あなたが、アレンですね」
なぜ、俺の名前を知っている。
「……人違いじゃねえのか。俺はただの農民だ」
俺は、できるだけ感情を殺した声で答えた。
セレスティアは、ふふっと微笑んだ。
「人違いではありません。私の『運命』が、あなただと告げています」
運命。
虫唾が走る言葉だ。
「悪いが、俺はあんたみたいな偉いお方と関わる気はねえ。水汲みが終わったから、帰る」
俺は彼女を無視して、歩き出そうとした。
その瞬間。
セレスティアの背後に控えていた騎士の一人が、剣を抜いた。
「無礼者! 殿下に対し、その態度はなんだ!」
騎士が、俺に向かって剣を振り下ろす。
速い。
俺の動体視力では、剣の軌道すら見えない。
死ぬ。
そう思った。
『マスターへの攻撃を検知。自動防衛システム、起動』
脳内でナビの声が響いた直後。
俺の体は、俺の意思とは無関係に動いた。
手に持っていた桶を放り投げ、右手に持っていた柄杓を、騎士の剣に向かって振り上げる。
ガァァン!!
という、爆発のような音が響いた。
俺の柄杓が、騎士の鋼の剣と激突した音だ。
信じられないことに、木製の柄杓は傷一つなく、逆に騎士の剣が根元からへし折れていた。
「なっ……!?」
騎士が驚愕の声を上げる。
俺も驚いていた。何が起きたのか、全く理解できない。
『特異点による物理法則の書き換えを確認。対象の攻撃エネルギーを無効化し、反発エネルギーとして送り返しました』
ナビの解説が、事態の異常さを際立たせる。
だが、その直後——ほんの一瞬、ナビの声にノイズが混じった気がした。
『……この個体は、マスターにとって——』
そこで声が途切れた。
何だ、今の。
俺が問いかける前に、ナビは何事もなかったかのように続けた。
『失礼しました。データ処理に負荷がかかりました。継続します』
広場が、静まり返った。
村人たちも、騎士たちも、信じられないものを見る目で俺を見ている。
ただ一人、セレスティアだけが。
その青い瞳を、熱に浮かされたように輝かせていた。
「ああ……」
彼女は、両手を胸の前で組み、祈るような姿勢をとった。
そして、震える声で呟いた。
「やはり、あなたなのですね。私の、私の……」
セレスティアは、泥だらけの地面に膝をついた。
純白のドレスが、泥で汚れる。
だが、彼女はそんなこと気にも留めない様子で、俺を見上げた。
「アレン様」
様?
「どうか、私をあなたのものにしてください。私の全てを、あなたに捧げます」
……は?
俺は、完全に思考が停止した。
王女が。最強の魔術師が。
ただの農民である俺に向かって、泥にまみれながら、愛を乞うている。
狂っている。
この女も。
この世界も。
「……帰れ」
俺は、絞り出すように言った。
「俺は、誰のものにもならねえ。誰のことも受け入れねえ。とっとと王都に帰れ」
俺は、地面に落ちた桶を拾い上げ、足早にその場を立ち去った。
背後から、セレスティアの声が追いかけてくる。
「待ちます! あなたが私を受け入れてくださるまで、私はこの村で待ち続けますわ!」
最悪だ。
俺の静かな日常は、完全に終わった。
脳内の狂ったシステムと、現実の狂った王女。
二つの狂気が、俺という「特異点」に収束しようとしていた。




