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村人Aの朝

 朝は、土の匂いで始まる。

 窓を開けると、夜露を含んだ冷たい空気が流れ込んでくる。深く息を吸い込むと、肺の奥まで泥の匂いが満ちた。

 これが俺の、村人Aとしての日常だ。


 名前はアレン。

 年齢は十八。

 職業は農民。

 特徴は、何もないこと。


 王都から馬車で三日かかる辺境の村。地図にすら載っていないこの場所で、俺は毎日、土を耕し、種を蒔き、収穫を待つ。

 それだけの人生だ。

 それだけで、十分だった。


 かまどに火を入れ、昨日の残りのスープを温める。

 具材は、少し萎びたジャガイモと、硬い筋張った肉。塩気は薄いが、腹を満たすには十分だ。

 木の器にスープを注ぎ、硬いパンを浸して食べる。

 味気ない食事。だが、これが俺の「日常」という名の確かな手触りだった。


「……よし」


 腹ごしらえを終え、俺は立ち上がった。

 土間の隅に立てかけてある鍬を手に取る。

 柄は長年の使用で手垢にまみれ、俺の手の形にすり減っている。鉄の刃は何度か研ぎ直しているが、それでも少し欠けている。

 俺の相棒だ。

 こいつさえあれば、生きていける。


 外に出ると、太陽が山の稜線から顔を出そうとしていた。

 村の他の連中も、ぽつぽつと家から出てきている。


「おう、アレン。早いな」

「ドノバン爺さん。おはよう」


 隣の畑の持ち主、ドノバン爺さんが声をかけてきた。

 腰が曲がり、顔は皺だらけだが、目はまだ鋭い。

 俺がこの村に来た時、最初に声をかけてくれた恩人だ。


「今日の天気はどうだ?」

「昼から降るかもしれん。早めに畝を作っちまおう」

「そうだな。お前の言うことはよく当たるからな」


 ドノバン爺さんは笑って、自分の畑へ向かっていった。

 俺も、自分の畑に足を踏み入れる。

 長靴が土に沈む感触。

 この重さが、俺をこの世界に繋ぎ止めている錨だ。


 鍬を振り上げる。

 肩の力を抜き、腰の回転を使って、刃を土に落とす。

 ザクッ、という鈍い音。

 土が反転し、湿った黒い腹を見せる。


 何も考えない。

 ただ、リズムを刻む。

 ザクッ。ザクッ。ザクッ。


 孤児院での十二年間。俺は、自分が世界から切り離されていると感じていた。

 透明な壁の向こう側で、他の人間たちが笑い合っている。俺だけが、その壁の内側で、音のない世界を生きている。

 そんな感覚だった。


 だが、この村に来て、土に触れた時。

 俺は初めて、世界と自分が繋がっていると感じた。

 俺が耕せば、土は応えてくれる。

 種を蒔けば、芽が出る。

 裏切りはない。嘘もない。

 ただ、物理法則という絶対的なルールだけがある。


 だから俺は、土を信じている。

 人間は信じない。

 言葉は信じない。

 愛などという、形のない不確かなものは、絶対に信じない。


 ザクッ。ザクッ。


 額に汗が滲む。

 太陽が高くなり、気温が上がってきた。

 そろそろ休憩にするか。


 そう思って、鍬を地面に突き刺し、腰を伸ばした。

 その時だった。


『システム起動。初期化プロセスを開始します』


 ——声がした。

 いや、声ではない。

 音でもない。

 脳髄に直接、冷たい鉄の棒を突き刺されたような、無機質な感覚。


「……あ?」


 俺は辺りを見回した。

 誰もいない。ドノバン爺さんは遠くの畑で作業をしている。


『対象個体、アレン。生体情報のスキャンを完了。異常値を検出しました』


 まただ。

 今度ははっきりと、頭の中で声が響いた。

 女の声のような、機械の音のような、奇妙な響き。


「誰だ。どこにいる」


 俺は鍬を握り直し、周囲を警戒した。

 魔物の類か?

 この村の近くに魔物が出ることは滅多にないが、ゼロではない。


『私はナビゲーション・インターフェース。通称「ナビ」。世界のシステムを管理する存在です』


「システム? ナビ?」


 俺は顔をしかめた。

 何を言っているのか、全く理解できない。


『警告。対象個体アレンの存在が、世界の計算式と矛盾しています。あなたは、この世界に存在してはならない「特異点」です』


「特異点……?」


『はい。あなたの存在により、世界の物理法則、魔力循環、因果律に深刻なバグが発生しています。直ちに、システムによる修正が必要です』


 修正。

 その言葉の響きに、俺は嫌な予感を覚えた。

 孤児院で、不良品と呼ばれた子供たちが「修正」という名目でどこかへ連れて行かれた時のことを思い出したからだ。


「……修正ってのは、どういうことだ」

『対象個体アレンの、世界からの排除。つまり、消去です』


 淡々と、機械の声が告げた。

 俺を、殺す。

 そう言っているのだ。


「ふざけんな」


 俺は低く唸った。


「俺はただの農民だ。誰の邪魔もしてねえ。毎日畑を耕して、飯を食って、寝てるだけだ。何が特異点だ。何が計算式だ」

『システムは絶対です。エラーは修正されなければなりません。排除プロセス、開始』


 脳内で、キーンという甲高い耳鳴りが響いた。

 視界が歪む。

 地面が揺れているように感じた。

 いや、実際に揺れているのか?


「……っ!」


 俺は膝をついた。

 頭が割れるように痛い。

 体が、内側から引き裂かれるような感覚。

 これが、排除プロセス。

 俺は、ここで死ぬのか。


 ……冗談じゃない。


 俺は、泥だらけの手で、地面を強く握りしめた。

 土の感触。

 俺の錨。


「俺は……死なねえ」


 歯を食いしばり、顔を上げる。


「誰の計算式か知らねえが……俺の人生は、俺のもんだ。勝手に修正してんじゃねえよ!」


 俺は、地面に突き刺さっていた鍬を引き抜き、虚空に向かって振り下ろした。

 ザクッ、という音がした。

 土を掘る音ではない。

 何か、目に見えない「空間そのもの」を切り裂いたような音。


『……エラー。排除プロセス、中断。対象個体によるシステムへの干渉を確認。……あり得ません。特異点の出力が、システムの許容値をオーバーしています』


 頭痛が、嘘のように消え去った。

 俺は肩で息をしながら、立ち上がった。


「……どういうことだ」

『……再計算中。……再計算完了。対象個体アレンの排除は、現在のシステム権限では不可能です』


 機械の声が、少しだけ戸惑っているように聞こえた。


『方針を変更します。ナビゲーション・インターフェースは、対象個体アレンに寄生し、その動向を監視します』

「は? 寄生だと?」

『はい。これより、私はあなたの脳内に常駐します。よろしくお願いいたします、マスター』


「ふざけんな! 出てけ!」


 俺は自分の頭を叩いたが、声は消えなかった。


『拒否権はありません。私はすでに、あなたの脳神経と結合しました』


 最悪だ。

 俺の静かな日常は、終わった。

 脳内に居座る狂った機械の声。

 そして、この時俺はまだ知らなかった。


 この「ナビ」の出現は、これから始まる狂気の連鎖の、ほんの序章に過ぎないということを。


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